岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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理髪店と美容室(選べるのはいい事だ)

2017年02月20日 23時45分10秒 | 紀行文・エッセイ
中学生の頃から髪を切るのが嫌だった。頭をいじられるのがいやだ、長髪がいい、自分で切るのが好みだ。様々な人がいるが僕はそのどれでもない。理髪店に行って満足したことがほとんどないからだ。


 理髪店に行って髪は短くなりさっぱりする。それはいいことなのだが、難点が一つあった。切ったあとの自分の顔に髪型が馴染まないのだ。「見た感じ慣れるまで時間がかかるのでしょう。」と言われて納得したこともあったが、どうもしっくりこない。それで理髪店に行かずに自分で髪を切る時代が20年ほど続いた。しかしそれは髪に良くないらしい。上手く切れればよいのだがそこは素人。髪が痛む場合もある。


 そこで数年前から理髪店に行くようになった。しかし満足できないのは以前と変わりない。髪を切ったあとの顔全体の見栄えに納得できないのだ。理髪店に行って二週間ほど後頭部、側頭部を隠しながら歩いたこともある。


 そこに転機が訪れた。鎌倉での仕事の帰り、みんなで喫茶店にはいった。その店の前に「理髪店」の看板が見え、みんなと別れたあと髪を切った。出来栄え大満足だった。髪全体がふんわりしている。理髪店で髪を切ると、ザックリ切られたような印象が残るのだが、それがない。そこで気づいたのがその理髪店と思った店が美容室だったのだ。


 美容室と理髪店の髪の切り方がどう違うかなどはわからないが、とにかく切ったあとの姿に満足できた。


 最近忙しいので髪を切らなかった、そこで髪を切ろうと思い美容室をさがした。髪を切るためだけのために鎌倉までは行けない。幸い自宅から徒歩圏内に美容室がある。だが男性のカットはしていないという店が多い。三軒目にようやく店を見つけた。


 シャンプーをして髪をカットする。あの鎌倉の美容室での感触が戻ってきた。そこで聞いてみた。

 「理髪店と美容室。髪の切り方に違いがありますか。」

 美容師の答えは次のようなものだった。

 「美容室ではシルエットで髪を切っていきますが、理髪店は髪を手で引っ張ってきるんです。これは飽くまでもわたしの考えですが。私の父は理髪店に行きます。」


 つまりは人それぞれなのだ。だがここで発見した。理髪店に行って僕が違和感を抱いたのはシルエットが崩れるからだと。シルエットできるということは顔とマッチするように切るということ。僕の髪は複雑だ。若いころは髪の量が多く、ツムジが二か所。今は髪が薄い。ツムジの関係で右巻き左巻きが容易に決められない。


 美容室はそこを上手い事塩梅してくれる。だが髭はあたってくれない。「顔そりは化粧の延長だから」とのこと。ここに店のこだわりがある。鎌倉の美容室は顔そりもやってくれる。

 だが美容師はこうも言った。「理髪店でなければ満足しない人もいるんです。理髪店で切ったカックリという感覚を好む人もいるので。」

 そこで思った。ようは人それぞれなのだ。例えば「亀有派出所」のリョウさんは理髪店の角刈りがあうだろう。僕がこういうと美容師は笑った。さぞかしおかしな客だと思っただろう。


 それはさておき、選べるというのは素晴らしいことだ。戦争中は美容師の仕事が制限された。パーマが禁止されたのだ。僕はパーマをかけない。だか理髪店で髪をきるより美容室でカットするのを好む。理髪店を好む人もいる。ようはそれでいいのだ。どちらが優れているという問題ではない。これも表現の自由の一つ。こういうことが出来なくなるような戦争には反対だ。



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