岩田亨の短歌工房 -斎藤茂吉・佐藤佐太郎・尾崎左永子・短歌・日本語-

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携帯電話とコミュニケーション

2010年07月11日 23時59分59秒 | 日本語をめぐって
携帯電話を使うようになって何年だろうか。親戚や友人のなかでは最も遅かった。それには理由があったのだが、持つことを決意した時の話。

 もともと僕は携帯電話が嫌いだった。昔テレビアニメで見た「無線電話」がついに実用化されたと言えば聞こえは良い。しかし、それを持つことによって、追い立てられているような気にもなるし、GPSシステムによって営業社員のいる場所を管理職が把握することもできる。

 「無機質な管理社会」という印象がまとわりつく。「情報革命は第2の産業革命だ」と声高に叫ばれていた時も、「情報は物を生産しない。IT革命はバブルだ」と折にふれて話したものだった。(今では「ミニバブル」と言われている。)

 ところが、まるで降って湧いたように携帯電話を持つという話が持ち上がったのは、10年ほど前のある会話がきっかけだった。

 ある集まりがあったのだが、僕をのぞくほぼ全員が携帯電話を持っていた。別れ際に、メールアドレスや携帯電話の番号を教え合ってから解散。しばらくして幹事のもとに次々とメールが送られてきた。

「今、家に着きました。」

 幹事がその時、

「携帯電話っていいだろう。」と得意げにいうのである。

 そこで僕は携帯電話を持たない理由を列挙した。箇条書きにしてみよう。

1・電話機を持ち歩くと一日中何かに拘束されているようで気味が悪い。

2・メールを送るより、電話の肉声の方がぬくもりがある。

3・文字で何かを伝えたいなら葉書を書けばよい。肉筆の方が心がこもった気がする。

4・葉書の返信を待つ心の余裕が案外貴重。携帯メールにはその余裕がない。

5・ボタンを押すだけで言葉を送信するのでは、話言葉も書き言葉も死んでしまう。


 それに対し、例の幹事氏はこう言った。

1・拘束されるのがいやなら、不要なときには電源を切ればよい。

2・肉声でそっけない話し方をする人もいる。肉声のほうがぬくもりがあるとは言えない。

3・肉筆ではないが携帯電話を一台持っていれば、メールを何度も読み返すことができる。孤独な都会生活を送っている都会人の心をあたためるものである。

4・心の余裕というのは屁理屈だ。

5・携帯電話はコミュニケーションの手段のひとつであり、それによって手紙や葉書がなくなる訳ではない。


とまあ、議論は平行線だった。結局は自宅の使っていない電話回線を休止にして、機能のシンプルなものを一台持とうか、ということになった。

 それは最後に次のような会話があったから。

「昔、郵便制度に反対する人がいた。< 自分の思いは直接会って、面と向かって相手に伝えるべきもので、紙っぺら一枚に書いて送るとは言語道断。飛脚制度もあるし、郵便制度など要らない。 >といったそうだが、この頑迷さをどう思うか。」

「それは時代錯誤だと思うよ。」

「だったら、文句を言う前に一度使ってみたら。」

 10年ほど前の話である。街の公衆電話が消え、携帯電話も当たり前のように使われている。重宝した時期もあったが、機種変更してからは持ち歩くことをやめた。以前より重くなったし、満載されている機能のなかには使わないものが多い。

 僕のなかの「ガラパゴス現象」である。


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