7月28日(木)11時頃に德岡前副会長から小島さんが入院先から私と德岡さんに逢いたいと奥様から連絡があったとの電話があり15時に鴨居駅で待ち合わせすることになりました。
しかし、12時30分に奥様から逝去の知らせの電話があり直ちに病院へ向かいましたが、ご遺体はNTT労組神奈川退職者の会が契約している(株)全国儀式サービスを利用され既に新横浜総合斎場に安置されていました。
小島さんと私との本格的なお付き合いはこのホームページにも以前に私の投稿で掲載しました1971年(昭和46年)4月23日に当時の小田原分会が全電通として初めてのストライキに打った時に小島さんが全電通神奈川支部書記長として小田原分会を指導に来られてストライキ当日には小田原分会は一人の脱落者も無くストに入ることが出来ました。
その後、私は1973年(昭和48年)2月に神奈川通信部電信係長で転勤しましたが、待っていたのは当時の神奈川支部委員長の廣内さん、書記長の小島さんから、当時は電通共済生協の創世記で神奈川通信部分会の生協業務処理が滞っているので小田原分会で生協の業務処理の経験がある私に、将来は面倒を見るから是非、通信部の分会長をと口説かれ38歳の時に私の人生を廣内さん、小島さんに託し電気通信共済会に組織派遣で行くことに決めました。その中で電報業務(27年)だけでは業者は駄目だから契約係長3年経験し契約の積算を勉強し、そして業者になるには関東地方に顔を売らなくてはならないから関東地方本部の会計監査2年を経験する配慮を小島さんにして頂きました。
私は当時の電電公社を1979年(昭和54年)1月に退職し2月全電通退職者の会神奈川支部協議会第2回総会で会長となりましたが、創世記の退職者の会は会員数も100名未満で資金もなく一斉現役組織のお世話になっていました。小島さんが神奈川支部委員長で退職者の会行事には積極的に参加して頂き、現在旅行の時に使用している名称「ゆとりノ会」は小島さんの発案でした。「ゆとりノ会」の「ゆとり」とは「お金では無く心にゆとりを持とう」と言う事です。
小島さんには退職後は顧問を依嘱し囲碁サークル、ハイキングサークル、ボランティア「ちいさな愛の会」、国内・海外旅行の行事に参加して、必要な都度アドバイスを頂き、特にハイキング、旅行には常にポケットウイスキーを持参されそのキャップで何人かが頂いておりました。
思い出に残る旅は1971年のストライキ当時の小田原局長の櫻井さん、小島さん共々何回か退職者の会の海外旅行にご一緒したことです。
何か私の事が主体になった文面になってしまいましたが、小島さんのご冥福を祈りつつ、ウイスキーの思い出にこの写真1枚。(合掌)
平成2年韓国旅行の時に成田空港の免税店で購入したウイスキー、お互いにボトル1本づつ
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