よきおとづれ  

メッセージは榎本和義牧師

4月13日(木)の聖言

2017年04月13日 | Weblog

「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。」ヨハネ14:1
 
 心が騒ぐとき、不安や恐れを感じています。原因は心が錨の切れた船のように、風や波に翻弄されているからです。それを静止するには不動のものに心を繋ぎ止める以外にありません。神様を信じること、イエス様を信頼することはまさに堅固な大岩に乗っているようなものです。周囲の状況、事情・境遇に頼って心を静めようとしてもすぐに脆く崩れます。主のみことばを信じて、神様の大能の手に委ねましょう。(KE)


4月12日(水)の聖言

2017年04月12日 | Weblog

「主の使は彼女に言った、『あなたは女主人のもとに帰って、その手に身を任せなさい』。」創世記16:9

 女主人サライに代ってアブラムの子を宿したハガルは、サライに苦しめられて荒野へ逃れます。死をも覚悟したでしょう。神様はハガルに目を留め憐れんでくださいましたが、もう一度サライのもとへ帰るように命じました。過酷な試練です。神様の助けを受けるにはどんなに苦しくてもその言葉に従う以外にありません。しかし、信じて従うなら、必ず神様は真実に応えてくださいます。ハガルはそれを体験しました。(KE)


4月11日(火)の聖言

2017年04月12日 | Weblog

「わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。」第一テサロニケ4:14

 死んだ後、人はどうなるのかと多くの人が疑問に思うようです。確かに死んで生き返った人はいませんから、なんとも分からないのが実情です。しかし、聖書にははっきりとそのことが語られています。大切なことは、理解できなくても、それを否定するものもありませんから、聖書の言葉を素直に信じることです。(KE)


4月10日(月)の聖言

2017年04月10日 | Weblog

「わたしはあなたのとがを雲のように吹き払い、あなたの罪を霧のように消した。わたしに立ち返れ、わたしはあなたをあがなったから。」イザヤ44:22

 神様は私たちを創造された方であり、本来の所有者です。しかし、サタンのかしら、罪に捕らえられ、神様から遠くはなれて失われた者となっていました。神様は愛のゆえに、泥まみれの私たちを御子の血で洗い、とがも罪も消して御子の命を代価に買い取ってくださいました。私達は自分のものどころか、誰のものでもなく、今や神様のものです。大いに感謝しましょう。(KE)


4月9日(日)の聖言

2017年04月09日 | Weblog

「しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」イザヤ40:31

 この言葉の前段には、「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる」とあります。どんなに健康な人であっても、弱り疲れます。どうしても休むときが必要です。体を休ませるばかりではなく、心を休息させることが不可欠です。そのためには世の煩いから離れて、神様に心を向け、御霊に満たされるために静まる時が必要です。(KE)


4月8日(土)の聖言

2017年04月09日 | Weblog

「涙をもって種まく者は、喜びの声をもって刈り取る。種を携え、涙を流して出て行く者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるであろう。」詩篇126:5-6

 労苦する者がその報いを受けるのは当然のことですが、現実はそのようになりません。ことに昨今の社会では、報われないことの多く、不公平、不公正がはびこっています。しかし、神様は真実な方です。決して涙を流し労苦する者を見過ごしになさいません。喜びの声をあげて、主を褒め称える者としてくださいます。神様を信じて、その報いを大いに期待して、力を尽くしましょう。(KE)


4月7日(金)の聖言

2017年04月09日 | Weblog

「御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。」第一コリント2:10b

 夫婦、親子であっても、相手の思っていること、考えていることなど全てを知ることができません。まして、神様のみこころ、考え、計画を知ることなど到底不可能です。しかし、神の霊、聖霊(御霊)は神様の思いなど全てを知っています。それゆえ、神様は私たちに聖霊を送ると約束しているのです。聖霊によらなければ、神様を知ることも、信じることもできません。今日も、あなたのうちに、聖霊が働いていることを信じてください。(KE)


4月6日(木)の聖言

2017年04月06日 | Weblog

「すべてわが名をもってとなえられる者をこさせよ。わたしは彼らをわが栄光のために創造し、これを造り、これを仕立てた。」イザヤ43:7

 「わが栄光のために」と、主は言われます。これが私たちの存在理由です。自分のため、自分の幸せのために生きるのではなく、主のために生きるものとして造られたのです。私たちは自分の力や努力でそれをすることはできませんが、神様は今もそのために「わざ」を行っておられます。神様のみ手を信じて、創造者のなさるわざに自分を全く委ねる以外にありません。(KE)


4月5日(水)の聖言

2017年04月05日 | Weblog

「わが神、主よ、あなたのくすしきみわざと、われらを思うみおもいとは多くて、くらべうるものはない。わたしはこれを語り述べようとしても多くて数えることはできない。」詩篇40:5

 人は自分の努力や才能で生きていると思い、高慢になりますが、生きていること自体、またそのためのあらゆる生活の必要は神様の備えられた業によるのです。人生を振り返るとき、自分の知恵、知識、力を越えた事態・状況に置かれてきましたが、どれをとっても神様のわざと言うほかありません。また、どれも神様の深いみ思いによるものです。感謝!(KE)


4月4日(火)の聖言

2017年04月04日 | Weblog

「彼らの目が開けて、それがイエスであることがわかった。すると、み姿が見えなくなった。」ルカ24:31

 よみがえられたイエス様が二人の弟子達と宿に泊まりました。弟子達は肉眼でイエス様を見ていながら、主であると気がつきません。「目が開けて」とは、心の目、霊の目です。この目が開かれなければ今もイエス様を見ることができません。主であると知ったとき肉体の目では見えなくなりました。肉眼で見えるものは仮想の姿で、真の姿は心の目でなければ見ることができません。あなたの心の目は開かれていますか。(KE)


4月2日(日)の聖言

2017年04月02日 | Weblog

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。」第二コリント4:7

 「土の器」とはわたしたちのことですが、素焼きの土器ですから、脆く、弱く、欠けやすいものです。そのような取るに足らないものを用いて神様の力をあらわそうとなさるのです。そのためにイエス様をよみがえらせ、私たちの内に宿らせて下さっています。今日も主の力によって生かされる者となって、主の栄光を現しましょう。(KE)


十字架のイエス・キリスト

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