草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作「わらじ猫」中1

2020-03-03 12:00:52 | 草むしり作「わらじ猫」
 草むしり作「わらじ猫」中1
 ㈢大久保屋の大奥様①
 弥助編1
 夕暮と同時に急に冷え込んできたせいだろうか、仕入れたそばは面白いようにはけてしまった。明日からもう少し仕入れを増やしてみようかと思いながら、弥助は懐の銭を握りしめた。
 
 けっきょく自分もあの猫に救われたのだろうか、弥助が夜鳴き蕎麦屋の親父に弟子入りしてから一年が経った。あの時猫を橋から放り投げていたら、今頃は自分が簀巻きにされて大川に放り投げられていただろう。

 弥助も運が良かった。あの時食べた蕎麦が旨かったのは、冷え切った体を温めてくれたからでも、空き腹だったからでもない。本当に旨い蕎麦だったのだ。
「夜鳴き蕎麦屋に弟子入りなんて、聞いたことないがなぁ」
弟子にしてくれと土下座して頼み込む弥助に、親方は困り果てて言った。辰三親分の口利きで、やっと弟子入りが許されたのは十日ほど経ってからだった。
「夜鳴き蕎麦なんてものはなぁ、温かけりゃそれでいいんだ」
親方はそう言いながらも、出汁やかえしにはずいぶんとこだわっていた。親方の住んでいる長屋の床下には、かえしの入った甕(かめ)がずらりと置かれていた。
 
 親方の下を離れて独り立ちをしたのが三月前だった。回向院近くの裏店に住まいを移し、親方の商売の邪魔をしないようにと、夜は日本橋で商売を始めた。大店ばかりが立ち並ぶ日本橋で、夜鳴き蕎麦屋なんて相手にもされないと思っていたが、やっと手代になったばかりの若い奉公人たちのお得意様がついた。
 この頃では蕎麦のほかにもいなり寿司や煮しめなども出すようになった。朝は魚河岸でにぎり飯も売り始めた。

「よお、元気だったかい」
弥助はひとかけらのかつお節を取り出すと、包丁の先で削り始めた。

 いつも曲がる一つ先の路地をやり過ごしたのは、ほんの気まぐれだった。夜明け前に開く魚河岸で、握り飯を売り始めてからすぐのことだった。朝飯にちょうどいいと、独り者の棒手振りたちが弥助の握り飯を買っていった。その日違った路地を歩いたのは、商売がうまくいきそうになって少し浮かれていたのかも知れない。
 
 やっと夜が明けたばかりだというのに、もう飯の炊けるいい匂いがして来た。どこのお店だろか。随分としっかりした女中がいるものだと、看板を見上げると大久保屋と書かれていた。板塀越しに路地を歩いていくと勝手口があり、その上から柿の木の枝が路地の上に張り出していた。たった今しがた掃いたのだろう、路地には落ち葉が一枚も落ちてはいなかった。
―たいしたものだ、もう掃除もすんでいる
この季節すぐに葉っぱも落ちてくるのではないのかと、柿の木を見上げようとした時、塀の上を歩く猫と目があった。とたんに弥助はギョっとなって後退さった。猫が鼠を咥えていたからだ。

「タマ……」
 思わず呟いた弥助の声が聞こえたのだろうか、猫は塀の向こう側に飛び降りていった。
―当たりめぇだな。
弥助が呟いて歩き始めたときだった。塀の上から猫が飛び出してきた。
「お前、相変わらずいい腕だな」
 声を掛けた弥助にむかって、猫は尻尾をピンと立てて近づいてきた。弥助は猫の頭を撫でようとした時だった。
「鼠を片づけておくれ」板塀の向こうから声が聞こえた。思わず振り向いた弥助の耳に「かしこまりました」と答える若い娘の声が聞こえてきた。自分の気持を無理に押し殺したような、あの低い声には聞き覚えがあった。 

   人の気持ちがわかるのだろうか。吉田屋で米の売り上げをごまかしていた頃は、タマは弥助に近づこうともしなかったのだが。

草むしり作「わらじ猫」中2

2020-03-03 00:30:52 | 草むしり作「わらじ猫」
草むしり作「わらじ猫」中2
 ㈢大久保屋の大奥様②
 弥助編2
 あの日は空き腹を抱えて、借金取から逃げ回っていた。捕まったのは、身を潜めていた長屋の奥の小さな社の裏から、水を飲みに出たときだった。じめじめとした社の裏に身を屈めて、賭場のやくざたちをやり過ごしたすぐ後だった。
 
 井戸端では人のよさそうな裏店の女房が洗い物をしていた。洗い張りの内職でもしているのだろうか、大きな桶に手を突っ込んでジャブジャブと威勢よく洗濯をしている。よく見るとまだふさふさとした産毛の生えた仔猫たちが、女の頭や肩にまとわりついていた。中には太りじしの女の尻で潰されそうになったのか、尻の下から飛び出してくる奴もいる。
 朝から逃げ回っていることや腹の空いたことも忘れて、そのようすを眺めていた時だった。ポンと肩を叩たれたのは。

「お兄さん遊んでいかないかい」
茣蓙(ござ)を抱えた夜鷹が袖を引いた。
「そうかい、また今度ね」
弥助の顔を覗きこんだとたん、後ずさりながら去っていった。
どれくらい時間が経ったのさえも分からなかった。川面に船宿の明かりがチラチラと映り、ドクドクという鼓動と一緒に痛みが体中を駆け巡った。すれ違う者たちが、目をそらして自分を避けていく。

「ざまねぇや」
 口に溜まった唾を地面吐きつけると、また口の中が生臭くなってきた。ジャリジャリとした砂の感触は何度唾を吐いても消えなかった。もう一度生臭い唾を吐こうとしたときだった、目の前に猫がいた。
「テメェ、タマだな」
 猫は後ろ足で気持ちよさそうに喉首を掻いていた。弥助を見ると、尻尾をピンと立ててスタスタと歩いて行った。
「チクショウ、待ちな。今度こそ川に放り投げてやるから」

 元を正せば賭場通いが止められず、店の売り上げをごまかした自分が悪いのだが、何もかもがみんなあの猫のせいに思えた。賭場の親分の前に引きずり出され、さっきまで殴るけるの仕置きを受けていたのだった。
「くそぅ、あの猫さえ、あの猫さえいなければ、もっと上手く立ち回れたのに」
 薄らいでいく意識のなかで、弥助は必死に猫を呪っていたのだ。

    猫は橋の欄干の上に登ると、毛繕いを始めた。片方の手を舐めてはごしごしと顔をしごいている。それが弥助にはおいでおいでとしているように見えるのだった。
「馬鹿にしやがって、じっとしていろよ、そうだじっとしていろよ」
両手で猫を捕まえたと思った瞬間、体が空中を飛んでいた。
「これで救われた」ぶくぶくと水の中に引き込まれ、遠ざかる意識の中で弥助がそう思ったときだった。髷を思い切り掴まれて水面に引き上げられた。

 弥助の削ったかつお節を、タマは旨そうに食べている。満月の中に大久保屋の屋根が浮き上がって見えるような、静かな夜だった。
 
 もう寝たのだろうか。いじめられてはいないだろうか。古くからいる女中に叱られてベソをかいていた、子守の子どもの赤い頬っぺたを弥助は思い出していた。
 そのときだった。タマが食べるのを急に止めると、総毛立てて身構えた。何かいるのだろうか。あたりを見回した弥助は、人の足音に気づき、とっさに用水桶の陰に身を潜めた。

 満月の中に二人連れの男たちが見えた。一杯引っ掛けた後に次はどこに行こうか、そんな遊び人のようにも見えるのだが。どこか物腰に油断のならない胡散臭さが漂っている。そういえば昨日もこの当りですれ違った二人組みだ。タマはますます総毛立てて、低く身構えている。