草むしりしながら

読書・料理・野菜つくりなど日々の想いをしたためます

草むしり作 「鹿と網」

2019-05-14 14:21:57 | 草むしりの「ジャングル=ブック」
鹿と網
 お百姓さんが田んぼの周りに網を張りました。広い田んぼの周りにグルリと張りました。田んぼの稲は穂が出たばかりで、青い籾はまだ空っぽで、上を向いています。
 網は小さく折り畳まれ袋に詰められ、お店の棚の上で夢を見ておりました。夢の中では漁師さんの船に乗って、魚をたくさん捕っておりました。お百姓さんが網を袋から出しました。
 目の覚めた網は、自分が漁師さんではなくお百姓さんに買われたので、がっかりしました。あれほど海に出て漁をする夢ばかり見ていたのに、現実は田んぼに張られるのかと思うと、やりきれなくなりました。
 お百姓さんが網を丁寧に広げて、田んぼの畔に突き刺した杭に結びつけていきました。まっすぐにピンと張られた網は、お日さまの光を浴び心地の良い風に吹かれました。
 すっかり気持ちの良くなった網は、大きな背伸びを一つしました。その拍子にピンと張られていた網は少したわんで下に垂れてしまいました。すると何やら小さな声が聞こえてきました。網はその声を聞こうとして、体をもっと下に傾けました。おかげでますます網はたわんできました。網はそんなことにはお構いなく、聞き耳を立てました。
 それはまだ出て来たばかりの稲穂たちの声でした。青い小さな稲穂たちはてんでにお日さまに向かって叫んでいます。
「お日さまどうか私に、光をいっぱい当てて下さい」
 我先にお日さまの光に当たろうと、一斉に背伸びをして空に向かって稲穂を揺らしています。
 たわんだ網と青い稲穂の上を風が渡っていきます。秋の気配を含んだ、涼しい風でした。
 お百姓さんは毎日やって来て、網のたわみを直しました。それから網を切ってしまわないように気をつけながら、畔の草刈りをしました。そして田んぼには毎日たっぷりと水をあてました。
 おかげで網は倒れることなくピンと張られたままで、稲はぐんぐん大きくなりました。そして稲穂の籾も実が詰まってきて重くなり、稲はだんだんと下を向くようになりました。
 ある満月の夜でした。網は月の光に照らされていました。清らかで優しい光は、ずっと田んぼ周りに張られて疲れてしまった網を、優しく癒してくれました。
「なんて気持ちがいいのだろう」
 網は思い切り背伸びをしました。その時隣の山の中から、親子の鹿が出てきました。春に生まれた子鹿は随分と大きくなりました。母鹿は網に気づいて、田んぼに入ろうとする子鹿をひき止めました。それからゆっくりと歩いてきて、網に話しかけました。
「お前、こんなところに立ってばかりいて、辛くないかい」
網は知らん顔していまし。
「少し地面に寝そべってごらん。楽になるよ」
 風が吹いてきて網を揺らしました。網はそれが答えでもあるかのように、ますます背筋をピンと伸ばしました。
「お願いだよ、中に入れておくれ。坊やがお腹をすかせているのだよ。その柔らかな稲を少し食べさせてやりたいのだよ。少しでいいから」
 網は黙ったままでした。田んぼの中の稲たちも黙ったまま俯いています。
 母鹿は諦めきれない様子で田んぼの周りを歩き回っています。そのうち子鹿が、お腹がすいたと言って泣きだしました。母鹿は田んぼの周りの草を食べさせました。
「固いからよく噛んで、ゆっくり食べるのだよ」
 子どもは母親の言いつけを守って、ゆっくりと食べていました。月は親子の鹿を優しく照らしました。
 次の朝お百姓さんが鹿の足跡を見つけました。網にたるみが無いか確認して帰って行きました。それから昼過ぎになって見たことのない男の人がやって来て、鉄の檻の罠を仕掛けていきました。罠の入り口の餌を少し撒いて、罠の中には美味しそうな餌をたくさん置きました。網はドキドキしながらその様子を見ていました。
 やがて夜になりました。昨夜の鹿の親子がまたやって来ました。子鹿は餌を見つけると罠の方に飛んでいこうとしました。母鹿はものすごい勢いで首を振って、子鹿の体にぶつけました。子鹿は母鹿がいきなりそんなことをしたので、驚いて泣き出してしまいました。
 母鹿は罠の恐ろしさを子供に話して聞かせました。子どもは怖くなって泣き止むと、母親の後ろに隠れました。その日は罠の周りに撒かれた餌だけ食べて、山に帰って行きました。
 そばで見ていた網はなんだかホッとしました。子どもが罠にかかるのではないかと、ハラハラしていたからです。頭を垂れてようすを窺っていた稲たちもホッとしたのでしょう。口々に何かささやいています。網は稲たちの頭が昨日よりももっと下を向いてきたと思いました。
 鹿の親子は毎晩田んぼにやって来ました。お百姓さんも毎朝田んぼにやって来ては、網のたるみを直していきます。餌の置かれた罠はそのままになっています。
 やがて朝晩がとても寒くなり、山の木々の緑も少し赤みがかってきました。我先にお日さまに向かって背伸びしていた青い稲たちも、いつの間にか黄色く色づき、頭を深く垂れています。稲穂の籾はどれもプックリト膨らんでいます。
 お天気のいい朝でした。お百姓さんが網を外しました。昼頃になって大きな機械がやってきて、稲は見る間に刈り取られました。夕方お百姓さんは網をきれいに畳んで紐で縛ると、納屋の中に仕舞いました。
「また来年も頼むよ」
 お百姓さんは網に言いました。
 鹿の親子はその夜田んぼにやってきて、藁の中に落ちていた稲穂を見つけておいしそうに食べました。
 お百姓さんのお米はトラックに乗って、都会に運ばれました。太郎のお母さんはそのお米でご飯を炊きました。ご飯の炊ける甘い香りが、台所に広がりました。
「ゆっくり、よく噛んで食べるのよ」
 いっぱい遊んでお腹の空いた太郎に、お母さんが言いました。
おわり