3/12増刊号・ぬまけんコーチの◯◯◯◯10
例えば、「正義」や「愛」
「今、僕たちは愛し合っているよね」「今、僕たちは正しいこと(正義)をやっているよね」っていうことは実際のところ言えるわけはなく、これは
後からふり返ってみれば
「愛し合っていたんだな」「実は私たちこそが正しかったのではないか」という形式でしか存在し得ないものではないか。
今やっていることが「正しいこと」なのか「間違ったこと」なのかは、実際のところ後になってみなければわからない、極めて事後的な性格を持つものであろう。
もちろん、
「1+1=2だよね」だとか「人が死ぬのは悲しいよね」とか、「規則は破っちゃいけないよね」
などの、有限性の中で存在しうる「法」や「公式」、「コモンセンス」のような今この瞬間完全に正しいことに従うのは生きていくことにあってしかるべきことだ。
ただ、自分が信じる正義や愛というものはその定義上
時にそこから逸脱することもある。
したがって、今やっていることが「正義」なのか、単なる「違法行為」なのか
今感じているのが「愛」なのか、単なる「気の迷い」なのかということは後からしか分からない。
「後からしか分からない」ということは必然として「間違えることもある」ということ。
でも、この「後からしかわからない」、間違いかもしれないけれどもやってみなければわからないものに投企(マルティン・ハイデッガーによる)していかないと、人は実は「正義」も「愛」も実行できない。
(参考:東 浩紀「ゲンロン0 観光客の哲学」出版時インタビューより)
なんだか哲学的な物言いになってしまったが、極めて具体的
日常的で身近な問題でもあって。
その間違える可能性を引き受けなければ、引き受ける度量というか覚悟、開かれた感性のようなものを持たなければ、人は常に今この瞬間の正しさだけを気にするようになってしまう。
SNS上でもよく見られる
今この瞬間、自分が人に責められないだろうか?(炎上しないだろうか)
今この瞬間、人々に好かれるだろうか?(いいね👍が欲しい)
今この瞬間、これをやるのが正しいんだ。
そればかり気にして行動するようになることが、果たして豊かな生活を送っていると言えるだろうか。
確かに人は、年をとるにつれ間違い、傷つき、打ちのめされ、そういった経験を経るたび、間違うことに臆病になっていく。
それは、ある意味
心ある人間として生きていく限り、必然のようなものなのかもしれない。
しかし、
今この瞬間「正しいこと」をやっていると確信できることだけをやるのであれば、それは現状肯定にしかならない。
新しいことをやる、ものを生み出す、何かを表現するということは到底できやしない。
そして、逆にいえば
表現者やアーティストと呼ばれる者は、そこを超えてくる者たちだ。
無自覚か自覚的かは別にして、そのラインのギリギリをついてくる。
人一倍悩みながら、怒られ落ち込みながらも、自分の感性と技術を信じて、そのラインを超える。
それは時に、人の心を震わせ、共鳴し、感動を生み出し、行動させる。
実のところ、僕にとっての “パンク” ってそれだ。
それは音楽のいちジャンルでもなければ、ましてやファッションでもない。
表現者(アーティスト)としてのアティテュードであり、思想である。
…あれ?
温子さんを褒めるのに、こんなバカ長い文章になることある?
こんな気持ち悪い、何が言いたいのかわからないラブレターって他にある?
やべー…
マジでやべー。
やりすぎ。。
…さて、
記念すべき第10弾に対して
見事に泥を塗る前説をぶっこんだところで、
お待ちかね過ぎ
生粋のパンクス
あつこ☠おねえさんの
柔術女子白帯奮闘記(第9話)
パロゥ(おわり)
おい!気をつけろみんな!!
しばらく漫画描けずにいた鬱憤からか、無差別に人を汚しにかかってるぞ!
この状態のねえさんにかかればイケメンなかむーも、
ブレイクダンスの回転数を上げることによって股間を見えづらくするアキラ100%だ。
あぶない
この状態のねえさんはあぶない。
逃げろ!
逃げるんだ!みんな!!