Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

農地・農業用施設の災害復旧70年

2019-11-13 23:10:34 | 自然から学ぶ

 ある場面で利用しようと、長野県内の農地・農業用施設の災害復旧について簡単にまとめた。以下のようなものである。

 

 

 

 農地および農業用施設の災害復旧事業が制定されたのは、昭和25年。「農林水産業施設災害復旧事業費国庫補助の暫定措置に関する法律」というもので通称「暫定法」と呼ばれている。この法律は、農地・農業用施設・林業用施設・漁業施設および共同利用施設の災害復旧事業に要する費用につき、国が補助をおこない、これによって農林水産業の維持をはかり、あわせてその経営の安定に寄与することを目的としている。この法律では、暴風・洪水・高潮・地震その他異常な天然現象により被災した農地、農業用施設、林業施設、漁業施設および共同利用施設を、原形に復旧または原形に復旧することがいちじるしく困難、もしくは不適当な場合において、これに代わるべき必要な施設をするものであって、1か所の工事の費用が40万円以上で、都道府県、市町村、土地改良区等がおこなうものを対象に、その事業費の一部を補助する、となっている。 

 昭和24年(1949)から平成9年(1997)までと、平成18年から28年までの長野県の農地、農業用施設災害の被害額を現在の価値に置き換えて示したものがグラフである。これによると、被害額がもっとも大きかったのは、通称「三六災」といわれている梅雨前線豪雨災害が発生した昭和36年で、つづいて昭和58年、57年、34年の順となっている。

 実は昭和36年の前々年の34年の台風7号災害では死者65名、行方不明者6名という人的被害を被っており、同じ年にはよく知られる伊勢湾台風(15号)が上陸している。そして昭和36年の梅雨前線豪雨による災害は伊那谷の人々はご存知のとおり。なぜならば伊那谷と諏訪湖周辺で大きな被災を受けており、死者107名、行方不明者29名を数え、いまだこの災害を教訓にする話題が多いのは承知のとおり。

 この昭和36年の災害を越える災害はその後発生していないものの、やはり災害が毎年のように発生した昭和56年から58年あたりも、災害頻発時代であったと言える。昭和56年は台風15号により須坂市仁礼において宇原川で土石流が発生、10名の命が奪われた。昭和57年には台風10号による災害で、県内では4名の命が奪われ、北信では今回の台風19号と同じような地域が水没する被害が発生している。飯山市木島の千曲川支流皿川の堤防が2か所で決壊し、同地区が広い範囲で浸水しており、多くの家屋が水没。上伊那でも高遠町の藤沢川流域で大きな被災を受けた。また、昭和58年の台風18号による災害は全県で発生し、ここ40年の間では最も記憶に残る災害であった。この時、飯山市常盤で千曲川堤防が決壊し、大きな被害を被ったが、堤防が決壊したのはすでに台風が通過後の好天の下であった。この台風18号災害で最も農地・農業用施設の災害が大きかったのは下伊那地域であった。下伊那だけで3000箇所以上を数えた。

 この後も記憶に残るところでは、平成8年の7月集中豪雨で、小谷村蒲原沢で発生した土石流において、前年災の復旧工事をしていた作業員14名が亡くなるという災害があり、農地・農業用施設も大きな被害を受けた。また、平成12年9月11日~12日にかけての秋雨前線豪雨では、人的被害はなかったものの、道路、住宅、農地、林地等に多大な被害が発生。平谷村役場が水没したのはこの災害だった。こうして被害額そのものは、戦後の土地改良事業、災害復旧事業等により、農地・農業用施設の整備が順調におこなわれたため、近年は減少傾向にあるが、平成23年の長野県北部地震や、平成26年の神城断層地震のように、近年は地震災害が頻発している。

 こうしたなか発生した今回の台風19号災害は、昭和58年災害に並ぶほどの災害と言える。近年、災害発生数が減少していたため、そもそも災害発生時の対応が不慣れな地方自治体も多い。いまだ被害状況の確認中の地域があり、現段階での農地・農業用施設災害の被害額は約217億とも。時代背景が異なるため、一概に比較はできないが、被害額は同年を越える可能性もある。

 

 さて、グラフでもわかるように、昭和34、36年のあたり、昭和56~60年のあたりは災害が頻発した。そして令和元年である。頻発時代にならなければ良いが・・・。

コメント

令和元年台風19号災害

2019-10-13 16:30:00 | 自然から学ぶ

10月12日積算雨量

 

 昨日からわたしの日記のアクセスに、災害関連の記事が増加した。とりわけ多いのは「昭和58年9月29日、飯山市常盤の千曲川決壊」である。「昭和58年台風10号」関連のひとつの記事である。長野県内で大きな災害といえば、わたしの記憶の中ではこの昭和58年台風10号災害が最大だ。もちろんもう少し年代が上の人たちは、昭和36年の梅雨前線豪雨災害が最大であることは認める。しかし、現代の災害という印象で捉えると、やはり昭和58年の災害は、広範で、長野県人の記憶に大きい。ところが、その災害からすでに36年。わたしが昭和36年災を最も大きなものと認識しないのは、まだわたしにとっては記憶に留められない歳だったからだ。ようは、昭和58年災も、認識にある人は40歳以上あるいは45歳くらいにならないと印象がないだろう。ようは忘れられた災害と言ってしまっても不思議ではない。わが社でも当時の災害を、会社にいて携わった者は数えるほど。

 なぜ冒頭の記事がアクセスされているのか、もちろん台風19号の被害が報じられ始めていたので、千曲川関連の記事にアクセスされるのはわからないでもなかった。

 実は12日の豪雨は、佐久地域に集中していた。冒頭のグラフは、12日に記録されたアメダスの雨量データをまとめたものだ。北相木の400ミリという数字は驚くようなもの。おそらく昭和58年災害時の雨量より多いはずだ。同様に軽井沢や佐久、あるいは鹿数湯といった長野県東信地域の雨量がとくに多いことがわかる。いっぽう松本の雨量は150ミリ以下。けしてすくないわけではないが、昭和58年災害時に比較すると、広域的に捉えると千曲川への流入は広域的ではなかったかもしれない。当時も飯山市常磐で千曲川堤防が決壊したのは、天候が回復した早朝のことだった。飯山でたくさん雨が降ったわけではない。上流で降った雨によって浸水被害を被った。昭和58年だけではない。前年には支流樽川の堤防が決壊して、大きな浸水被害があった。どこかで堤防が切れることで、ほかの地域は「助かった」という言葉をよく耳にした。県境域を前にして、千曲川は蛇行とともに、せき止められるように狭くなる。このことも以前触れた通り、旧豊田村において、明治初期に蛇行していた千曲川をショートカットする大事業が行われている。中野市の延徳といえば水害常習地帯だった。昭和58年災においても、長野市松代など多くの千曲川沿線で水害を招いた。それによって堤防の嵩上げされたところも多い。が、全線に渡って対策が安全な対策が施されたわけではないだろう。長い間千曲川での大きな氾濫は起きなかった。しかし、あの時代の記憶をよみ起こせば、内水氾濫は当たり前の地域。そして堤防に至っても排水不能となれば、どこかで決壊する。昭和58年ころと同じことが、記憶に蘇ってくる。繰り返し日記で触れてきたことは、忘れてはならない記憶だからだ。

 

補足

 昭和57年の台風18号災害と、昭和58年台風10号災害について、当時の新聞をあらためて紐解いてみた。千曲川堤防が決壊した後者の場合、降り始めから9月29日午前零時までの雨量として、飯田275mm、諏訪212mm、松本197mm、上田176mm、軽井沢136mm、長野132mmだったという(信濃毎日新聞S58.9.29朝刊)。同じ地点の雨量を冒頭グラフの数字で比較して見ると、それぞれ48.5、72.0、134.0、143.0、314.5、132.0だった。ただしこれは12日のみの積算雨量であって、降り始めからの雨量ではない。当時の雨量より多かったのは軽井沢と長野のみではあるが、軽井沢の雨量は2倍以上。佐久地域の雨量は他の地域で降った分を補うだけの数値だったと言える。とくに昭和58年の場合は、千曲川に合流する犀川流域の雨量が多かった。しかし、今回の佐久地域での連続的雨量は、明らかに異常値を示すもので、下流域に影響を与えそうなことは容易にわかったはず。

 ちなみに昭和57年の台風18号の際は、今回浸水している豊野で同様の浸水が発生したわけであるが、9月8日から10日の3日間の雨量が軽井沢で106mmだった(信濃毎日新聞S57.9.13朝刊)。その雨量に比較すれば、短時間に比較の対象にならないほどの雨が降っている。あえていえば、当時の雨量と比較してどれほど多いかを伝える報道があって良かったのではないか。

 

参考

ふたたび台風18号

台風18号

小布施町「押切」

「ダムは必要なのか」序章②

 

コメント

ある「常会」の記録より⑯

2019-07-18 23:55:51 | 地域から学ぶ

ある「常会」の記録より⑮より

 昭和58年へ入ろう。

 この年の役員名簿に「ゲートボール」というものが初めて登場する。詳細は不明だが、常会役員としての「ゲートボール」役とは、どのような勤めだったのか。

 毎年、常会の役員が変わるということは、当然ながら記録の書き手も変わっていく。細かく記録をした昨年の書き手は、文字も綺麗で整然としていた。ところが、昭和58年に入ると、記録が曖昧な上に、文の書き方も稚拙さを見せ、誤字脱字が多い。例えば「〇〇を」の「を」はすべて「お」とされたり、「〇〇は」の「は」はすべて「わ」と記されている。そして誰に見せる必要があるわけではないが、「お」を冠する文が目立つ。ようは丁寧な言い回しをされているのだろうが、「お引き受け」という書き方は必要ないだろう。ところがこの主旨の相手は、地域の中では珍しいほど、公な立場にあった人だったから、あえて「お」をつけて敬った形で明示したのだろう。かつての田舎の小さな集落にも、際立って公職で活躍されていた方がいる。その存在に、周囲が気を使っていた様子がうかがえる。

 1月15日に例年通りどんど焼きを行っているが、朝9時に点火したどんど焼きは、終了後慰労会が午後2時に始まり、終了は午後6時となっている。なんと1日かけてのどんど焼きなのである。しだいに懇親会の時間が長くなっている印象がある、この常会である。どんど焼きには50人という大勢が参加し、盛況であったことが記されている。

 9月27日台風10号豪雨のため、地区内に被害箇所が発生。「大災害お受ける」とあり、被災箇所が書き込まれている。秋の祭典に奉納する予定であった煙火を取りやめている。また、例年11月3日に開催されていた運動会も中止となっている。

 冒頭でも記したように、この年の記録は簡素で、例年になく特徴的な記録がなかった。

続く

コメント

昭和58年9月29日、飯山市常盤の千曲川決壊

2018-06-26 23:29:13 | 歴史から学ぶ

 以前「昭和58年台風10号」について触れた。長野県内中で大きな災害が発生した例としては、最も現代人に記憶として残っている台風だと思う。

 

背後は高社山

 

 先日「ネガフイルムの劣化」について触れたところだが、この石仏がある飯山市福島地積の千曲川を挟んだ対岸に飯山市常盤がある。この常盤で千曲川の堤防が決壊して、広範に浸水被害を起こしたのが昭和58年の台風10号である。「昭和58年台風10号・後編」に掲載した新聞記事の見出し「またか!飯山 泥の海」は、前年にも常盤の対岸の飯山市木島で支流樽川の堤防が決壊し、大きな水害を被っていたからだ。同時期にわたしは飯山に暮らしていたことは以前にも触れた通りだ。飯山市福島の万仏山の石仏のネガを探していたら、この際の災害のネガにありついた。昭和58年9月30日の朝撮影したものだ。フイルムの劣化が著しく、傷が目立つ。同じころの自らの記録がないかと探してみたら、意外に簡単に見つかった。台風10号がまだ到来していない9月28日(水曜日)午前1時ころ次のように記している。

台風がやってくれば雨も降る。
だいぶ秋雨前線がやってきて降っている。
このところまともな天気の日はない。
仕事も忙しくなってゆくが、いろいろやりたいことも増える。木曽での「宿」の会合には、ぜひ出たいと思う。いろいろな人と会ってみたい。
そして金子さんに会えることも、期待している。いろいろな人との出会いが、この秋にやってきそう。

 雨の様子を危惧しているようだが、この後予定していた人との出会いに期待していた様子がうかがえる。「宿」とは文芸の同好会の発行していた冊子のこと。「金子」さんとは、かつて記したことがあるが、山梨県警の警察幹部の方だった。結果的にこの災害が影響したのか、「宿」の集まりには参加していない。

 また「飯山の水害」と題した10月4日の午前1時ころの日記には次のようにある。

 朝、補佐に起こされた。
 前日の28日、県内は台風10号崩れの温低のため、雨が降り続いた。ニュースを見るたびに、飯島の雨量の多さに、次第に心配になりもした。28日、すでに影響が出始めていた。
 29日、もう青空が出ていたが、起こされたとき、市内は賑やかであった。広報車が千曲川の水位を報じまわっていた。補佐は皿川の水が市街へ流れ込むかもしれないと竹田さんから電話があって、所長が事務所に行ったということで、これから補佐も事務所へ行くという。午前6時半のことであった。それからわたしも支度してテレビにかじりついた。午前7時半前、SBCテレビに「常盤の堤防決壊」と表示された。深刻さに気づかされた。まもなく、「天竜川中川村飯沼の堤防決壊」という報道もあった。「伊那谷も荒れている」、そう思った。

(中略)

 昼過ぎ、補佐、竹田さん、畔上さんと車で様子を見に出た。飯山国際の所から見たとき、木島には入っていないと分かった。その後小塩のスキー場の頭まで行ってみた。同じように様子をうかがいに来ている人がいた。水は外様の方へ流れ込んでいて、決壊箇所は明らかに3箇所見えた。右岸の柏尾の方へも入っていた。山を下り、外様の方へ行くと、決壊した水がすぐそこまで来ている隣の田で、急いで稲を片付けている人たちもいた。長峰丘陵の上で気づいたことは、国道117号の上、2メートルほど浸水しているのがわかった。

 このスキー場で撮影した写真が、これらの写真である。

 

信濃毎日新聞 昭和58年9月29日朝刊

 

 新聞記事は9月29日朝刊のもの。県内での災害の状況を伝えているが、もちろん堤防が決壊したのはこの新聞が配達されたころのこと。天候も回復し、県内の災害の状況もおおよそ判明したころに、飯山市常盤の千曲川は決壊したのである。

 

コメント (1)

100年に一度の水害

2017-08-14 23:34:32 | 歴史から学ぶ

 『高井』200号(高井地方史研究会 8月1日発行)において、金井晃氏は「昭和五七年飯山市木島地区、昭和五八年常盤地区の千曲川大水害」のことについて触れている。200号を記念して「昭和の自然災害特集号」を組んだ同誌には、このほか歴史上の水害を中心に報告が並ぶ。その中にこの昭和57、58年の水害に関する記事が複数あることからも、この2年続きの大水害が、地域の人々の記憶に強く残っていることがうかがえる。

 同水害については、この日記でも何度か触れてきている。具体的に記したのは「台風18号」が最初だろうか。翌日「台風とともに北上するという経験」を記した。そして再びと題して記したのが昭和57年の水害を扱った「ふたたび台風18号」である。当時の新聞記事もとりあげた。さらに、翌年の水害については「昭和58年台風10号・前編」「昭和58年台風10号・後編」で扱った。毎年9月になるたびに、わたしも思い出す水害である。以前にも触れたように、仕事が大いに多忙となったことはもちろんだが、まだ若かったわたしには災害復旧に関わるにはまだ日が浅かったにもかかわらず、多忙が故に一人前の仕事が割り当てられて、右往左往というか、人に教わりながらこれら災害の主たる災害現場の復旧に携わった。何といっても昭和57年の樽川堤防決壊のうち、下流側の戸那子排水機場脇の決壊現場を担当した。20代前半の若造に指図されて働いていた役所の方たちは、文句も言わずわたしの言うことを聞いてくれた。高井という広域エリアにおいて、人々の記憶に残る水害に、それも2年続きの災害に見舞われた際に飯山に居たという事実を、あらためて教えてくれる『高井』200号なのである。金井氏はこうも記している。「私たちの仲間内の会話では「昨年は100年に一度と言っていたが、どうして二年連続となるんだ。…100年の最後と100年の最初だな」などと皮肉も言う人もいた。」と。金井氏も言うように、その後目立った水害が飯山など千曲川の岳北流域で発生したことはない。

 「ふたたび台風18号」における市報「いいやま」の災害特集号の表紙でも解るように、昭和57年の台風18号災害では、取り残された住民がボートで救出された。金井氏は消防団としてそうした救助活動に加わったといい、「あるお婆さんを抱きかかえボートへ救助した折、「こんな目に遇うんだったら早く死んだ方が良かった」とも言われ、励ましたことが思い出される。」と語っている。700戸以上の床上浸水を見ながら、一人として犠牲者がなかったというあたりが、水害常習地域である長野県内に住まう人々の常日ごろの備えなのかもしれない。そう考えると近年水害が少なく、こうした大水害から遠ざかっているこの頃でもある。

コメント

千成地蔵

2017-05-13 23:34:29 | つぶやき

 「58災」と書いて「ごはちさい」と言う。過去の災害についてその発生年度を冠してこのように略して呼ぶことはよくある。とりわけ災害が発生すると仕事が忙しくなるほどそこに関わることの多いわたしの会社では、ごくふつうにこうした単語が発せられる。行政特有の略語ながら、このことは実際に災害に見舞われた地域においてもこうした単語はよく理解されている。この地域で最も典型的なものが「36災」であり、冒頭の「58災」も比較的認識度の高い災害名である。とりわけ「58災」は長野県内が広域に被災に見舞われた災害で、認識度はそれほど高くなくとも、県域で知られたものとしては、もしかしたら最も共通認識の高い災害だったかもしれない。本日記でも「台風10号」関連で「昭和58年台風10号」に記した。当時は飯山の出先で働いていたから、自分としては千曲川堤防決壊の記憶が強いが、実際に関係した仕事はまったく地域が異なる下伊那郡下條村であった。この「58災」がいかに広域的だったかを認識させてくれるのだが、わたしの生家近くでも大きな被害を被ったし、母の実家の果樹園も小さな水路が荒れて、果樹園下が流されてきた石で埋まってしまったという経験もある。

 生家から父母の仲人であった家へは、子どものころよく通った。その道は鎌倉街道と言われる古い時代からの道を段丘崖下に沿って進み、十王堂沢という小さな沢を渡ると、寺坂と言われる坂を上って西岸寺というこの地域では大きな寺の前を通って歩いて行った。寺坂とは西岸寺の参道にあたる。途中に駒つなぎの松という松の木があって、これは分校時代にもよく仲間と歩いた道でもあった。十王堂沢を渡ったところには竹やぶがあって、その竹やぶの中に小さな祠があって、石のお地蔵さんが祀られている姿も、子どものころからよく記憶としてあった景色だ。この十王堂沢が荒れて、ちょうどお地蔵さんが祀られているあたりから下流の天井川が、流されてきた土砂で埋まって、溢れ出たという災害はこの「58災」にあたる。もちろん台風通過による時差はあるものの、同じ台風10号が引き起こした災害であった。十王堂沢が水害で見舞われたのは、昭和58年9月28日のことだった。

 

千成地蔵

 

 この災害によってかつての十王堂沢の景色は変わった。記憶にあったお地蔵さんの祠も、改修された十王堂沢の脇に今は移転されている。このお地蔵さんは「千成(せんじょう)地蔵」と言われ、祠の前に西岸寺で掲げた説明板がある。そこには次のように書かれている。

 縁起
三州ハギ村の出生にて千成と云へる比丘尼あり、この地蔵菩薩像を負ふて当地に来り金助宅にて厄介になり、その後利生庵にて堂宇を為し居り、同地蔵を背負て諸方を托鉢せり、然るに故あって偶々精神病に罹りし為、当所に穴牢を作って監禁すと。

 同尼、天性温順にして正直なれば里人之を愍む、特に平常煙草、蕃椒を嗜めりしかば之を与えて慰む、時に同尼謝して云う、「吾逝ける後も供えたべ、さすれば如何なる難病も治し願望も必ず叶ふべしと」

斯くて日ならず六十四才を一期に黄泉の客となる。依て其侭此所に埋む、于時文久二年十二月九日なり、時人之を深く悼み、其上に此菩薩像を安置し、御堂を建立し以て其霊を弔う。然るに時移り星変り、遂に堂宇腐朽すること甚だし、因て有縁道俗浄財を募り茲に再建して供養を伸。于時 昭和九年九月一日
 西岸寺

 説明板は昭和9年に再建された当時のもののようだが、祠はわたしの記憶にあったものより新しいため、災害後に再々建されたものだろう。このお地蔵さん、台石と違ってその上の蓮華座から本体まで、青みのかかった石で彫られている。彫りもなかなかのもので、いわゆる守屋貞治の石仏にも匹敵する彫りではあるが、その作ではないよう。そもそも子どものころ何度と目にしていたお地蔵さんなるも、これほどの美品だったという記憶がまったくなかった。

コメント (1)

彼岸の中日

2016-09-22 23:44:06 | つぶやき

 

 昨年の今日は「国民の休日」だった。希にみる土曜日からの5連休だったわけだが、日記にはこう記している。「人手があることもあって、この時期はどこも稲刈りりのころだ。とりわけ今年は天候が続く」と。今年と違って昨年は連休期間に天候が良かった(昨年の日記でも天候不順を嘆いている。にもかかわらず連休には稲刈りができた、ということで、今年がいかに悩ましいか解るだろう)。ということで昨年の今日は、我が家でも帰宅していた息子の手を借りて稲刈りだった。ところがどうだろうことしは、田んぼには水が溜まっていて、これでは天候が回復していても、我が家の田んぼではすぐに機械が入って稲刈りというわけにはいかない。今週末から天候が回復するといっているから、水はけの良いところではようやく稲刈りとなることだろう。それほど稲が実らない我が家の水田なのだが、今年も頭をもたげてきて、倒伏するのも時間の問題だ。加えて遠くにいたときの息子の方が「猫の手」になったが、帰ってきた息子の手は「猫の手」以下と成り果てている。悩み多き実りの秋を迎えている。

 今年は妻がフジバカマを増やした。荒れていた畑にもフジバカマを植えたのだが、丈は短いが賑やかに咲いている。さすがに雨天の中では稲のごとく頭をもたげているが、そんな中でもアサギマダラが舞っていた。雨天の中で盛んに咲くのはフジバカマばかりではない。ヒガンバナが盛んに咲く。こちらはモグラ避けに増やしたもの。ちまたでもヒガンバナが盛んに咲く。その通り彼岸の中日だ。

 災害のたびに仕事が忙しくなることからこの日記でも何度となく台風のことは記してきた。先日も台風16号を迎えたわけだが、それほどでなく安堵といったところだったが、仕事のうえで最も記憶に残るのは昭和58年に到来した台風10号だ。帰路中川村を通ってみたが、天竜川の傍に立つ石碑に目が留まった。「昭和五十八年九月二十八日の十号台風により堤防六百米決壊 直ちに復旧に着工 昭和六十一年四月圃場整備を兼ね完成 再び瓦礫の地にならない事を祈りここに記念碑を建つ」と背面に記されていた。昭和62年8月に建立された記念碑は、関係者30名(背面に名が刻まれている)によって建てられた。「着工昭和59年10月 竣工昭和61年4月 面積13町3反6畝 工事費1億2千646万円」と記されている。当時わたしは飯山に暮らしていて、飯山で発生した災害復旧を整理した後、下伊那郡下條村の災害復旧のために1ヶ月下條村暮らしをしたものだ。県内のいたるところで災害が発生した、記憶に留まる台風だった。

コメント

現代の道祖神⑦

2016-04-01 23:21:01 | 民俗学

現代の道祖神⑥より

 

 下條村役場の敷地内に併設して建てられているのが老人福祉センターである。昭和52年に建設された施設で、かつてわたしは昭和58年の11月、1ヶ月近くにわたってここの2階に寝泊りをしていたので思い出深い建物である。なぜ寝泊りしていたかについては、「昭和58年台風10号」災害に絡んでいるが、このことはまた別項で触れたい。下條村役場は近年もたびたび訪れていたが、老人福祉センターの方へ目をやったことがなかったためか、その前にある道祖神に気がつくことがなかった。年度末の30日に所要があって訪れた際に、待ち合わせの時間に少し余裕があったため、5分ほど役場の前で時間を潰していたら、この道祖神に目が留まったのである。なぜこんなところに「道祖神が」と思うのと同時に、その立ち位置からして察しはついた。碑の前面に「公営結婚 二○○組達成記念」と刻まれている。

 ということで所要を済ませたあとに仕事でお世話になっている方が窓口に見えたのでこのことをうかがってみた。その方も200組の一人として関わられたようで、200組になる前から200組を機に記念碑を建てようという話になったという。教育委員会におられた方が中心になってこの企画が進められ、200組の方たちに寄付を募って建碑に至ったという。背面に「平成三年三月 公営結婚者有志一同」と刻まれている。当時下條村ではこの施設を利用した会費制の結婚式がよく報道されていたので、公営結婚式の話は耳に入っていた。下條村のホームページでは現在も公営結婚式場のことについて触れられている。それによると、

 公営結婚式の誕生の経過は昭和35年頃村の青年を中心に会費制のグループ結婚式が行われるようになり、昭和36年に親田地区で公民館結婚式が発足し、一定の成果をあげてきました。
 そして、これを村全体に広げていこうと言う声が婦人会を中心に高まり、昭和52年に老人福祉センター建設と同時に下條村公営結婚式が発足し、現在では、会場を下條村文化芸能交流センター(愛称:コスモホール)に移し、平成12年12月末までに357組のカップルの出会いを祝福してきました。ご友人や地区のスタッフによる 手づくりの温かな結婚式 です。
 また、会費制なので 招待された方も気軽 にご利用いただくことができます。

とある。下條村には各地区ごとに公営結婚式実行委員というものがあるらしく、利用したい人は地区ごとの委員に申し込むのだという。さすがに40年近く経ている施設では「古いので今はどうしているのだろう」と思ってそのことも聞いてみたら、今は新しい施設にところを変えて実施されているという。いまもって下條村では「公営結婚」が継続されているのである。ちなみに下條村公営結婚式実行委員会事務局は教育委員会に置かれている。

 さて、寄付を募られた際に、やはり「道祖神」となると「神」に抵抗がある方もおられたよう。したがってあくまでも記念碑として位置づけて寄付を募ったというが、それでも抵抗のある方はおられたという。「神ではない」と口で言っても納得できないほど、やはりこのカタチはもちろん「神様である」という意識を持ってしまうあたりに、道祖神のメジャーな立ち位置をうかがわせる。これは「道祖神」という記念碑なのである。なぜ道祖神を記念碑にしたか、もちろん縁結びの神様であるという考えからくるもの。記念碑とはいえ、そこにはやはり「神」への思いが込められている。観光目的だろうが、イメージとしての造立だろうが、結局「神」として願いを込めようという意図は、どこかに込められている。そしてそれがモニュメントだとしても、見る側は「願い」を込めたくなり、手を合わせる人も少なくないはずだ。

 なお、この道祖神の背面には施工者も刻まれている。「施工 仲川石材」。

 参照 「現代の道祖神」

続く

コメント

昭和58年台風10号・後編

2015-09-13 22:11:52 | つぶやき

昭和58年9月30日信濃毎日新聞朝刊

昭和58年台風10号・前編より

 昭和58年台風10号の爪跡は甚大なものだった。当時の新聞から振り返ると、浸水被害は堤防の決壊した飯山市常盤だけではない。諏訪湖の周囲での浸水も2年続きだった。諏訪市内では約4千戸が浸水した。何より諏訪湖は天竜川の源。釜口水門を介して天竜川へと発する。ようは水門がなければ浸水することはないのかもしれないが、諏訪湖の水を一気に流せば天竜川が氾濫する。ようは諏訪湖がダムのような形になってしまっていたのだ。この後釜口水門が改修され、諏訪湖の浸水騒ぎも近年は聞かない。

 やはり頻繁に浸水騒ぎのあったのは長野市松代温泉団地だ。この年3年続きの浸水となった。231世帯あった団地のすべてが浸水し、内150世帯は床上浸水を被った。もともと松代藩の猟場だったこの地は、低湿地帯だった。松代群発地震によって湧き出した鉱泉が流れ込んで米が作れなくなった土地を、旧松代町が買い取った後、合併後の長野市開発公社が温泉付き住宅として分譲したのだ。当初はもう1メートル盛土する予定だったが、周辺から反対されて成し得なかった。ようは周辺の人々も元来の低湿地帯を盛土すれば排水機能が低下して周囲にも影響しかねないと考えたからだった。低い土地のリスク、解っていても求める人もいれば、それを売り出した側もいた。

 この台風災害で新聞を賑わせたのは、奈川村もそうだ。村に通じる県道が被災して孤立状態に。このほか旧信州新町の浸水被害も目立ったものだった。まだ長野道が開通する前のこと。動脈である国道19号も通行止めとなった。県内のいたるところが被災するという大規模な災害をもたらせた台風10号なのである。そして何といってもそれらの被害に比較すると目立たなかったが、飯田下伊那地域の被害は昭和36年の梅雨前線豪雨災害以来といわれるほど甚大なものだった。このあと、昭和58年台風10号災害を上回る災害は起こっていない。

 千曲川本堤の決壊というインパクトのある災害の地で働いていたものの、この後降雪のあるころまで下條村の災害復旧に携わった。老人福祉センターに1ヶ月ほど寝泊りしていたのも、印象深いものとなった。

コメント

昭和58年台風10号・前編

2015-09-12 23:14:18 | つぶやき

昭和58年9月30日信濃毎日新聞朝刊

「ふたたび台風18号」より

 昭和57年の台風18号はわたしにとっては記憶に強く残るものであったわけであるが、18号にこだわらなければ、わたしのこれまでの人生で最も衝撃的なものは、翌昭和58年の9月末にやってきた台風10号である。こちらはウィキペディアでも「昭和58年台風第10号」と題して項が立てられている。「台風18号」でも触れたものであるが、長崎に上陸した台風は高知県あたりで温帯低気圧になったものの、秋雨前線を刺激して長野県内に大きな爪痕を残した。長野県内に台風到来とともに毎度のように被害をもたらせていた時代の象徴的台風ともいえる。昨日も記したように、前年千曲川支流の樽川が決壊したが、この台風10号では千曲川本堤が決壊した。信濃毎日新聞9月30日の一面には「千曲川堤防決壊」と見出しが見える。ところが副題には「県内浸水1万2000戸に」とあるとともに、「奈川村が孤立状態」とあるように、この台風10号は千曲川堤防の決壊だけではなく、県内いたるところにそれ以上ともいえる被害をもたらせたのである。その後田中康夫県知事時代に話題になった浅川ダムも、この時の旧豊野町の浸水騒ぎが建設を加速したし、飯田市川路周辺の治水対策の嵩上げ工事もこの際の浸水が工事への舵をとったとも言える。ようはこの昭和58年台風10号災害が、後の長野県内の治水対策の起点となったといっても言い過ぎではない。

 9月の末に到来した台風10号崩れの温帯低気圧の大雨が去った9月30日、県下には抜けるような青空が広がった。上流域の雨が下流域に到達したこの日、飯山市常盤の千曲川堤防が決壊した。前夜から避難していたため決壊したものの人的被害はまったく発生しなかった。たびたび上流域の降雨によって千曲川が増水する経験を積んでいたためだ。千曲川は常盤下流の戸狩地積から川幅が狭まる。そもそも長野市から飯山市にいたるこの千曲川一帯は、たびたび増水による被害を被ってきた地域。千曲川の脇に排水機場がいくつもあることは、その筋に詳しい人しか知らない。とりわけ長野市内の洪水対策も歴史に裏付けされたものとも言える。加えてこの地域には、堤外地に農地が広がる。したがってこの地域に暮らす人々は、農地の浸水被害をたびたび経験している。ようは洪水のメカニズムを認識している人々が多いとも言えよう。ふだん堤内地で堤防に護られて暮らしているだけの人々にとっては、堤防が切れることもあるという認識は持たないだろう。しかし、堤防にしても一定の確率によって建設されているもの。たとえば100年に一度起きるであろう洪水を前提に造られていたとしても、それを超える確率の洪水が発生すれば耐えられないこともあるということだ。河川沿いに暮らす人々は、100パーセント被災しないと思い込むのは危険なのだ。そもそも確率も計算上のもの。今回の鬼怒川の場合もそうであるように、上流域の降雨は時間差で下流の茨城県に達した。今回よく耳にする線上降水帯による長時間降雨など確率計算の想定を上回るものといえるだろう。300年とか500年といった確率で堤防を築くことは不可能だ。ようは、河川沿いの低地に暮らすというリスクを認識しておかなければならないことは言うまでもない。

 ところで新聞記事の写真は飯島町の中央自動車道における被災写真である。松川町境の高遠原地積のものと思われる。

続く

コメント

ふたたび台風18号

2015-09-10 23:34:19 | つぶやき

昭和57年9月14日信濃毎日新聞朝刊 

 

 結局9日は朝から天候が回復ぎみで、雨はさほど降らなかった。そういえば今回も台風18号だ。以前「台風18号」について触れている。長野県内に限らず、この18号という台風は、日本中に強い印象を与えることが多い。今回はことさら栃木県や茨城県、また東北でも大きな爪痕を残した。とりわけ鬼怒川の堤防決壊が報じられ、あの東北の大震災時を想起した人も多いのだろう。「台風18号」でも触れた通り、わたしの印象に残る台風18号は昭和57年に到来したものだ。近ごろ「気象がおかしい」とはいうものの、特別な災害はこれまでにも何度も記憶に留められてきた。昭和57年の台風18号は9月12日夕刻、静岡県御前崎町付近に上陸し、県東部をかすめるように北上した。全国的に見ると並みの扱いの台風であるが、長野県の水害史上では大きなもののひとつと言える。東部をかすめるように通過したことにより、千曲川上流域の降水量も多かった。そんななか、9月13日朝7時前に飯山市木島の千曲川支流にあたる樽川が決壊した。木島地区は西側に千曲川、東側に樽川が流れるいわゆる低地にあたる。千曲川の水位上昇によって樽川の排水が効かなくなったともいえる。木島地区の集落に近いところで決壊したのち、千曲川合流部に近い戸那子でも決壊した。戸那子には排水機場があってその脇で堤防が決壊した。この戸那子の農地復旧に当時かかわった。機場周囲の土砂が吸い込まれて流れ出し大きな穴となり、周囲の農地も広く被災したのだ。まだ会社に入って数年という未経験な存在だったが、この時期はどうしても仕事がピークを迎える。ということで、未経験な者でも一人前に復旧への対応を求められ、応援に来られた役所の年配の方々に指図をしたことを思い出す。

 当時は台風の到来=災害発生という公式が成り立つほど、その度に災害復旧の仕事が嵩んでいったものだ。それに比べるとこのごろの台風は長野県内に必ずしも災害をもたらさない。もちろん局所的に目立つ災害が発生することはあるが、全県に及ぶ、あるいは一定の範囲(郡単位)に渡って災害をもたらすということがない。2年前のやはり9月15日に到来したこれまた台風18号は、比較的大きな災害をもたらし、下伊那郡の一部で久しぶりともいえる災害発生件数を数えたが、わたしの記憶に強く留まるほどの大きなものという印象はなかった。もちろんこの災害復旧にも携わり、この年はひさしぶりに忙しい1年を過ごさせていただき、いまだその工事の残務を残すところだが、かつての強い印象を残す災害とは異なった。

 昭和57年の台風18号到来は、木島地区に限らず対岸の常盤地区も含めて千曲川のどこかで決壊すると囁かれていた。そんななか支流の樽川が決壊したことにより、ここから下流川幅が狭くなる千曲川へ滞留していた水が流れ出し、水位を和らげる結果となった。当時この一帯の千曲川堤防は脆弱だったといえる。それを証すように翌昭和58年の台風10号到来時には、今度は飯山市常盤の千曲川堤防が決壊することになったのだ。

 今回台風18号通過時の雨雲の様子を見ていて多くの人が気づいただろう。9日午前飯田市の遠山地域に土砂災害特別警戒情報が発表された。一時局所的雨量を観測していたが、その際の雨雲は南アルプスの東側にあって、わずかながら南アルプスを超えて遠山地域にもかかっていたのだ。しかし、それをさらに超えて伊那谷あるいは長野県内に雨雲が多量に発生することはなかった。その際の雨雲の動きはまさに山々が壁となって雨雲を抑えているようにも見えた。最近の台風到来時の雨雲の動きには同じような傾向が見られる。かつて同じようなルートで北上した台風で大きな被害を被ったことは何度もある。にもかかわらず近年の現象は、何が違うのか。昨年も台風が直上を通過するようケースもあったが、それほどの降雨をもたらさなかった。近年の台風は何かが違う、そう思わせる現象のひとつである。

 

 

 

 

コメント

蛇行する用水路

2015-06-23 21:28:04 | 農村環境

 富士見町には仕事でよく縁がある。コケリンドウを発見したのは5年前の7月上旬のこと。仕事で訪れた立場川近くで昼をとっていて見つけたもの。昨年も立場川近くを通ってこの時期に立ち寄ってみたが、コケリンドウの姿を見ることはできなかった。今年は立場川からは離れたところの現場を訪れたこともあって、立ち寄ることもできなかったが、天候不順のこの季節に訪れるのが恒例だ。今日も県内では土砂災害警戒情報が出るほど局地的な雨が降っている。富士見町でも雷雨に見舞われて、予定していた仕事ができずに帰路についた。

 今年は富士見町だけではなく、隣接する原村にも足を運んでいる。さきごろ「“今ではお目にかかれないモノ”3」で原村の冊子型パンフレットについて触れたが、同時代に仕事で原村を訪れていることを思い出した。原村といえば災害に見舞われることなどそうはない地域であるが、昭和57年8月に発生した台風10号は原村に災害をもたらした。その復旧に関わって8月末から9月上旬の1週間ほど、現地に入った。まだ長野道が開通していない時代であるから、当時勤務していた飯山市からは菅平越えで上田に出て、和田トンネルを経て諏訪に入ったものだ。そもそも仕事で高速道路を利用するなどということはなかった時代である。

 今日訪れた地区は、今でこそ矩形に整備された水田が広がるが、当時はまだ未整備の時代だったのだろうが、あまり記憶にはない。そんな整備された水田を見て気がつくのは、この地域独特な水田と水路の関係が垣間見えた。地形勾配が25分の1ほど。用水路には落差工というコンクリート二次製品が設けられ、勾配調整をしている。その落差工が設けられるたびに、水路が曲折するのである。必ず落差工の上部で右に曲がり、落差工の下部で左に曲がる。沿っている道路は真っ直ぐなのに、水路は落差工のたびに右、左という具合に曲がるから、蛇行しているのである。これは落差工を設けると、その下側で法が大きくなるため、法先まで水路を追うと法分が道路肩より偏心するために起きる。ほかの地域では道路も水路も真っ直ぐになるように、残地で調整するのだが、なるべく無駄な土地を出さないように、という意識が高いと、道路を蛇行させるわけにはいかないので、水路を蛇行させることになるのだろう。ところが、水田への掛け口から10メートルほどの間に落差工を設け、その先に水田の排水先を求めるため、水田の辺も排水口があるところで曲がる。すると律儀に稲を植えると、畝もそこで曲がるのである。ほ場整備がされて3反以上もあろう水田なのに、畝は蛇行するのである。こんな具合に整備された水田は、よそでは見たことがない。せっかく整備するのだから畝は真っ直ぐにしたいところなのだが、構造上それを許さないのである。そもそも掛け口から10メートルもないうちに排水口を設けるという構造そのものが、他では見ない例である。思うに標高が高いということもあって、冷たい水を回避するために、掛け口と排水口を接近させ、補給するとき以外は、用水が水田に入って冷えさせないような意図があるのだろう。しかし、そのために水路が蛇行し、畝も蛇行するという構造は、今の時代には似合わない。蛇行すれば労力にも関わるし、水路に至っては継ぎ目から漏水をお越しやすい。地元が欲した構造なのか、それとも施工主体の担当者の好みだったのか、その実は今となっては解らないほど、以前の整備だそうだ。

コメント

清内路を歩く①

2014-05-22 23:56:23 | 民俗学

下清内路旧共同納骨堂

 

 国道256号から清内路小学校へは宇須良沢という小さな沢を渡って入る。小学校の周囲には小さな家がいくつも点在するが、それらの多くは職員住宅。学校が小さいのに職員住宅がたくさんあるということは、それだけよそから赴任している先生が多いということなのだろう。学校の沿革をみると、昭和42年に上清内路と下清内路にあった小学校を統合してここに移転したという。生徒数は現在24名、この10年で半減している。昭和58年の台風10号災害で宇須良沢の濁流が校庭やプールを土砂で埋め、臨時休校になったとか、昭和60年にも梅雨前線豪雨によって学校上の山が剥落、スクールバス庫が崩壊したりプールに濁流が入ったりと、宇須良沢の氾濫の記録が学校の歴史に刻まれている。清内路にはこうした小さな沢がいくつもある。こんな立地でもここにしか学校の地を求めることができないほど、平地の少ない村である。沢沿いにあるプール下に「南無阿弥陀仏」を刻んだ大きな徳本の名号塔がある。学校の記録にもあるように沢の氾濫が予想されるだけに、その昔災害が発生した際の慰霊を込めたものなのだろうか、とその牌を見たときには感じだが、この塔は共同納骨堂だという。

 清内路は墓制に特徴があるという。上清内路を一村総墓制、下清内路を同族総墓制と呼んだのは森謙二氏である。1985年から2年間、同氏の組まれた清内路村調査班が清内路村に調査に入り、それらは『出作りの里』(1989年 新葉社)としてまとめられた。その中で森氏はとくに墓制について触れている。前者は村に墓は一つ、後者は村の中の同族ごとに墓を有すという形式。前者は骨堂といわれるところに村の人々のすべての骨が納められる。後者は同族単位で村の各所に墓が設けられる。どちらかというと後者の形式が周囲の地域でふつうに見られるタイプで、それ以外に個々の墓地が存在するのが普通だろうか。しかし下清内路でも墓地に納骨されるのは火葬されたすべての骨ではなく、一部のみであとは共同納骨堂に納められるという。それがこのブールしたにある納骨堂だったのである。ここにそれが設けられたのは明治15年のこと。それ以前には残骨は火葬場の周辺に放置されたという。この共同納骨堂は旧のもので、昭和53年にかつて火葬場のあったところに新しい共同納骨堂が設けられた。

 そもそも火葬と言えば土葬の後に広まったものという認識であるが、清内路では古くから火葬が行われていた。その火葬が行われる場所は清内路川の河原だったようだ。土葬では村ひとつの墓地というわけにはいかないだろうが、火葬ならそれが可能となる。土地が些少であるという環境が火葬を古くから行わせた要因なのだろう。共同納骨堂そのものが清内路川の脇にあたる。すぐ横に川を渡る大正橋という橋がある。この橋の向こう側から人影の少ない清内路にあって、村人の声が谷間に反響して聞こえてきた。もちろんお年寄りたちの声。女性の声が主だったものだったが、どうもゲートボールをされている様子。その近くにたくさんの墓石の立ち並ぶ、いわゆる同族総墓制の墓地がある。下清内路でももっとも大きな墓地である。ほとんどの墓石の正面には「南無阿弥陀仏」とある。浄土真宗特有の墓石である。森氏報告ではこの川向こうに、この墓地のほかに4箇所ほど墓地が認められる。その中にゲートボール場がある感じで、もしゲートボールがお年寄りのスポーツだとしたら、その光景になんとも言えないおおらかさを抱く。ここは死者と生者をつなぐ場所なのだ。

続く

コメント

ため池慣行のムラ⑨

2011-11-15 22:58:38 | 民俗学

ため池慣行のムラ⑧より

7.防災工事

 平成7年の記録に次のようなものがある。「堤の出口のところが以前の災害で破損してそのままになっている。何年も前に陳情を重ねたがそのままになって現在に至っている。区の仕事計画の中には毎年もられていたが、工事順位の先のものがあり、それが終わってからということになっていた。区長S村議の骨折により県議のMさんに頼んで下され、区長、代理者Tの3名が現地視察をして下さる。村-地方事務所-県を通して改修するように働きかけるという約束をして下さる」というものである。「以前の災害」とは前回触れた昭和58年に起きた台風10号災害のことである。その後の平成7年までの記録から推測すると、アト(余水吐)がクンデ(崩落して)その下に続く水路にも影響し、余水がため池下にある水田に溢れていたようだ。昭和50年代の航空写真で確認すると、前半まではため池とため池の間にある水田も、またため池の上部にある水田も耕作されていたようだが、昭和50年代後半になるとどこも耕作放棄地に変わったようだ。昭和50年代がとくに作業条件の悪い土地の耕作が諦められるような転機の時代だったといえる。ということで耕作放棄されていたため、緊急に改修を要するに至らなかったということになるだろうか。文面からは、いわゆる自治会が上部機関に補助事業を依頼する場合の一般的なスタイルがうかがえる。優先順位、村議、県議、というキーワードが重視される時代の光景である。

 三者立会いの中で取り上げられた要点も記されている。

①災害直後なら工事の手続きができやすかった。
②耕地課に話しをして今年度中に工事を実施する。
③土砂がくんで来た土を平らにして田圃とするのには面積が少ない。洞の耕作者全員が共同でやるなら受益者40%負担となる。
④耕地課の方が実にくるので草を刈っておいてほしい。
⑤余水溝の方の工事費は受益者の負担はかからない。

 ①はいわゆる国の災害復旧事業に申請するにも直後でなければ申請はできないということを意味するだろう。耕地課とは当時の県の出先機関である。③から推測するに崩落した土砂はそこそこ多かったと思われるが、おそらくため池直下にあったため池の受益者の水田に残土を均したらどうかという話し合いが出たのだろう。直下の受益者の水田は1畝にも満たない小さな水田であったから、そこに処理するのは無理だろうという意味だったのではないか。そして洞全体なら・・・となるわけだが、上のため池と下のため池の間にある水田のことを指し、ここで耕作する人たちはため池の水利権の無い人たちであり、難航することは必至と考えられるわけである。負担割合の話がいくつか登場するが、この時点で県単事業を前提にして話が進められていたようだ。そもそも県議が登場する時点でそういうことになるのだろう。村単独補助では大きすぎる規模だったといえる。

 この③の問題は、後に洞にある関係者も含めた会議に発展する。水田とともに整備をしたらどうかという働きかけである。しかし、ため池の受益者ではないという実態から、やはりそこまでの整備には至らなかった。すでに耕作放棄されていたという実態が、整備への意欲を欠いたといえる。

 続く

コメント

ため池慣行のムラ⑧

2011-11-14 19:53:13 | 民俗学

ため池慣行のムラ⑦より

6.水の融通

 昭和58年には下伊那地域で大きな災害が起きた。台風10号から変化した熱帯低気圧の影響で豪雨となり、9月28日から29日にかけて災害は発生した。昭和36年以降では最大と言われる災害である。水路(D)に隣接する家は、かつてため池(C)の近くにあった。崩落によって現在地に移転したもので、このあたりはときおり崩落を起こす脆弱な地質といえる。もともとため池(A)の水はため池(B)の横からトンネルでため池(C)の上に導水されていたが、造って間もなくトンネルの崩落で使用できなくなったという。

 この昭和58年の豪雨では脆弱な地質のため池(C)の周辺で崩落が起き、ため池機能が低下し、水利を失ったその受益者から水を分けてもらえないかという話があった。それに応じて水を融通したことが記録に残っている。この地域の水利は、最も東側の台地上を潤しているのが本ため池の直下にあるため池(B)で、その受益地もせいぜい1ヘクタール弱と本ため池と似たようなもの。そして本ため池は直下のため池(B)の西隣に展開する水田を潤しており、両者の境界は尾根によって区分けされる。図に示されているヤマミチの2点鎖線がほぼ尾根にあたる。尾根の南東側上下に並走した両ため池の水路は尾根を下ったところで横並びの高さとなり、そこから本ため池水路は尾根を越えて西側へと導水される。その両者をつなぐべく水路(D)が設けられていて、(A)の水は(B)へ、あるいは(B)の水は(A)へと融通しようと思えばできるのである。もちろん上流側にあるため池が下流側のため池に水を分けることは自然とできるが、下流側のため池が上流側のため池の受益地に融通するのは普通はできない。たまたま尾根を隔てて水利系統が分割されているこの地域は、尾根の頭まで流されてきた水が図にある(D)という水路の位置で同じ高さになる。ここまで到達するまでにも受益地があるが、本ため池(A)の受益地はほとんどがこの高さより低い位置にある。ようは上流側ため池(A)の受益地は下流側ため池(B)の受益地とほぼ横並びにあって受益地の頂点にあたる尾根まで水路を引けば、どちらの受益地にも兼用して利用できるシステムになっているのである。とはいえ、実際に両者の間で融通されたという話は聞かないし、昭和37年以降の記録にも、水の融通をしたという記録はこの昭和58年災害の際の一度だけである。被災を受けたため池(C)はさらに低いため池(A)の西側の受益地に導水されており、そのため池から(A)や(B)への融通はできないが、その逆は可能なのである。それぞれのため池ごと維持管理はされていて別の水利系統であることに違いはないのであるが、それぞれ三つのため池は受益者に重複がある。小規模であるという事実もそうであるが、ほとんどが地域内の受益者で構成されていることもあり、これら三つのため池は別々ではあるものの、ムラという共同社会では補完的に連携されうるシステムになっていると言えるだろう。

 

 続く

コメント


**************************** お読みいただきありがとうございました。 *****