ある場面で利用しようと、長野県内の農地・農業用施設の災害復旧について簡単にまとめた。以下のようなものである。
農地および農業用施設の災害復旧事業が制定されたのは、昭和25年。「農林水産業施設災害復旧事業費国庫補助の暫定措置に関する法律」というもので通称「暫定法」と呼ばれている。この法律は、農地・農業用施設・林業用施設・漁業施設および共同利用施設の災害復旧事業に要する費用につき、国が補助をおこない、これによって農林水産業の維持をはかり、あわせてその経営の安定に寄与することを目的としている。この法律では、暴風・洪水・高潮・地震その他異常な天然現象により被災した農地、農業用施設、林業施設、漁業施設および共同利用施設を、原形に復旧または原形に復旧することがいちじるしく困難、もしくは不適当な場合において、これに代わるべき必要な施設をするものであって、1か所の工事の費用が40万円以上で、都道府県、市町村、土地改良区等がおこなうものを対象に、その事業費の一部を補助する、となっている。
昭和24年(1949)から平成9年(1997)までと、平成18年から28年までの長野県の農地、農業用施設災害の被害額を現在の価値に置き換えて示したものがグラフである。これによると、被害額がもっとも大きかったのは、通称「三六災」といわれている梅雨前線豪雨災害が発生した昭和36年で、つづいて昭和58年、57年、34年の順となっている。
実は昭和36年の前々年の34年の台風7号災害では死者65名、行方不明者6名という人的被害を被っており、同じ年にはよく知られる伊勢湾台風(15号)が上陸している。そして昭和36年の梅雨前線豪雨による災害は伊那谷の人々はご存知のとおり。なぜならば伊那谷と諏訪湖周辺で大きな被災を受けており、死者107名、行方不明者29名を数え、いまだこの災害を教訓にする話題が多いのは承知のとおり。
この昭和36年の災害を越える災害はその後発生していないものの、やはり災害が毎年のように発生した昭和56年から58年あたりも、災害頻発時代であったと言える。昭和56年は台風15号により須坂市仁礼において宇原川で土石流が発生、10名の命が奪われた。昭和57年には台風10号による災害で、県内では4名の命が奪われ、北信では今回の台風19号と同じような地域が水没する被害が発生している。飯山市木島の千曲川支流皿川の堤防が2か所で決壊し、同地区が広い範囲で浸水しており、多くの家屋が水没。上伊那でも高遠町の藤沢川流域で大きな被災を受けた。また、昭和58年の台風18号による災害は全県で発生し、ここ40年の間では最も記憶に残る災害であった。この時、飯山市常盤で千曲川堤防が決壊し、大きな被害を被ったが、堤防が決壊したのはすでに台風が通過後の好天の下であった。この台風18号災害で最も農地・農業用施設の災害が大きかったのは下伊那地域であった。下伊那だけで3000箇所以上を数えた。
この後も記憶に残るところでは、平成8年の7月集中豪雨で、小谷村蒲原沢で発生した土石流において、前年災の復旧工事をしていた作業員14名が亡くなるという災害があり、農地・農業用施設も大きな被害を受けた。また、平成12年9月11日~12日にかけての秋雨前線豪雨では、人的被害はなかったものの、道路、住宅、農地、林地等に多大な被害が発生。平谷村役場が水没したのはこの災害だった。こうして被害額そのものは、戦後の土地改良事業、災害復旧事業等により、農地・農業用施設の整備が順調におこなわれたため、近年は減少傾向にあるが、平成23年の長野県北部地震や、平成26年の神城断層地震のように、近年は地震災害が頻発している。
こうしたなか発生した今回の台風19号災害は、昭和58年災害に並ぶほどの災害と言える。近年、災害発生数が減少していたため、そもそも災害発生時の対応が不慣れな地方自治体も多い。いまだ被害状況の確認中の地域があり、現段階での農地・農業用施設災害の被害額は約217億とも。時代背景が異なるため、一概に比較はできないが、被害額は同年を越える可能性もある。
さて、グラフでもわかるように、昭和34、36年のあたり、昭和56~60年のあたりは災害が頻発した。そして令和元年である。頻発時代にならなければ良いが・・・。