台風の接近した朝、いつも通り歩く端の小さな一級河川の水は、比較的穏やかで水の色も若干乳白色だが透き通っていた。昨夜から雨がそれほと降っていない証拠なのだろう。梅雨前線など前線を伴わない台風系の雨は、一概にはどこで降るという特定は素人にはできない。それでもアメダスレーダーのような想定はそこそこ局地的なものも予測できるようになっている。台風がやってくる、あるいは豪雨の恐れがあるというようなときは、必ずアメダスの予測に目を通す。それだけではない、日常でも車をあまり使わなくなってからというもの、歩くことが若干多くなったから、傘を持つ持たないの判断はこのアメダスの予測のお世話になっている。もちろん完璧ではないが、ずぶ濡れになるようなことはなくなったし、折り畳みでよいのか、小径でよいのか大径が良いのか、というような判断にも使っている。アメダスのような予測ができる時代なら、聖職の碑で知られるような駒ケ岳登山の遭難などありえなかったことだ。それでも山岳遭難は今なお起るというのだから、危険に立ち向かおうとするのか、あるいはその判断の甘さなのか、人はそれぞれなのだとつくづく思う。
流れる川の穏やかさに意外だと感じたのは、昨日の朝の川の流れとまったく違ったからだ。昨日の朝は見事に茶色く濁り、水かさもふだんの3倍ほどあっただろうか。何より色の違いは、山での変化を感じるわけだ。大量の雨が降ったというほどでもなかったが、これから台風がやってくるというのに心配が高まったときだ。災害は大きな川だけで起るわけだはなく、意外なほど小さな川でも起きる。川というほどのものでなくとも土砂を押し出すことも珍しいことではない。昭和58年の台風10号災害ではこのあたりでも小さな川の土砂流出で果樹園が埋まったところがあちこちにあった。土砂というよりは礫だったともいう。通気性があったのかもしれないが、花泥と言われるような通気性のないものは、地表面が密封されて果樹が息をできないという話もある。わたしの住むあたりでも過去に西山が崩れて土砂が流れ出たという話があるが、土地を造成した際に自ら側溝を入れようと掘ると、石が石を覆い被さるように立って埋まっている。細長いような石が先に流れ出した石の上に西から東に向けて覆い被さっているのである。ひとつの石を取り除こうとしても石と石の摩擦はもちろんのこと、覆い被さっている少しの石の出っ張りを取り除こうとすると周辺を大きく掘らないと目的の石が除けないのである。その様子に言い伝えの通り、「西山が崩れてきた土砂」という表現を実感できたわけだ。
最近の台風系の雨では長野県内を避けるような雲の動きが多い。山岳地帯ということもあって、周囲の山々が影響しているようだ。これから通過までの間にどれほど降るかは解らないが、今朝の川の様子をみるにつけ、これまでの雨は地面が吸収してくれたようだ。まだ一定の降雨には対応できそうな様子。今回も穏やかに台風が通り過ぎてくれそうだ、そんな予感を抱いた川の流れだった。