Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

川の流れ

2011-09-21 12:33:42 | 自然から学ぶ

 台風の接近した朝、いつも通り歩く端の小さな一級河川の水は、比較的穏やかで水の色も若干乳白色だが透き通っていた。昨夜から雨がそれほと降っていない証拠なのだろう。梅雨前線など前線を伴わない台風系の雨は、一概にはどこで降るという特定は素人にはできない。それでもアメダスレーダーのような想定はそこそこ局地的なものも予測できるようになっている。台風がやってくる、あるいは豪雨の恐れがあるというようなときは、必ずアメダスの予測に目を通す。それだけではない、日常でも車をあまり使わなくなってからというもの、歩くことが若干多くなったから、傘を持つ持たないの判断はこのアメダスの予測のお世話になっている。もちろん完璧ではないが、ずぶ濡れになるようなことはなくなったし、折り畳みでよいのか、小径でよいのか大径が良いのか、というような判断にも使っている。アメダスのような予測ができる時代なら、聖職の碑で知られるような駒ケ岳登山の遭難などありえなかったことだ。それでも山岳遭難は今なお起るというのだから、危険に立ち向かおうとするのか、あるいはその判断の甘さなのか、人はそれぞれなのだとつくづく思う。

 流れる川の穏やかさに意外だと感じたのは、昨日の朝の川の流れとまったく違ったからだ。昨日の朝は見事に茶色く濁り、水かさもふだんの3倍ほどあっただろうか。何より色の違いは、山での変化を感じるわけだ。大量の雨が降ったというほどでもなかったが、これから台風がやってくるというのに心配が高まったときだ。災害は大きな川だけで起るわけだはなく、意外なほど小さな川でも起きる。川というほどのものでなくとも土砂を押し出すことも珍しいことではない。昭和58年の台風10号災害ではこのあたりでも小さな川の土砂流出で果樹園が埋まったところがあちこちにあった。土砂というよりは礫だったともいう。通気性があったのかもしれないが、花泥と言われるような通気性のないものは、地表面が密封されて果樹が息をできないという話もある。わたしの住むあたりでも過去に西山が崩れて土砂が流れ出たという話があるが、土地を造成した際に自ら側溝を入れようと掘ると、石が石を覆い被さるように立って埋まっている。細長いような石が先に流れ出した石の上に西から東に向けて覆い被さっているのである。ひとつの石を取り除こうとしても石と石の摩擦はもちろんのこと、覆い被さっている少しの石の出っ張りを取り除こうとすると周辺を大きく掘らないと目的の石が除けないのである。その様子に言い伝えの通り、「西山が崩れてきた土砂」という表現を実感できたわけだ。

 最近の台風系の雨では長野県内を避けるような雲の動きが多い。山岳地帯ということもあって、周囲の山々が影響しているようだ。これから通過までの間にどれほど降るかは解らないが、今朝の川の様子をみるにつけ、これまでの雨は地面が吸収してくれたようだ。まだ一定の降雨には対応できそうな様子。今回も穏やかに台風が通り過ぎてくれそうだ、そんな予感を抱いた川の流れだった。

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台風とともに北上するという経験

2009-10-09 20:34:30 | 歴史から学ぶ
 昭和57年9月13日未明、わたしは勤務先の飯山に向かって約180キロの道のりを出発した。時に台風18号が北上している中のこと、その台風を追うような行動であった。当時はいわゆる土帰月来という行動を欠かすことなく続けていた。生まれ育った地域でもない飯山、そして会社の中にも同年代がまったくいなかったということもあって、初めての出先はどちらかといえば孤独な日々。それでも勤務して数年は経っていたこともあって、先輩たちの暖かいまなざしの中で暮らしていたことは事実。頻繁に誘われる一杯であまりお金を払った記憶がない。若かったこともあって、車に乗ることが唯一の楽しみであった。自宅へ帰るという道のりが週末の楽しみであったわけである。今の若者にはちょっと考えられないような行動だったかもしれない。未明が何時のことか正確には記憶にない。家族が寝ている間に出ていたから午前2時頃のことだろうか。台風がやってきているということで、雨量による事前規制による通行止めがあることをどこかで知っていたことなのだろうが、あまり気にもせずに自宅を出た。昭和56年から数年にわたっては、長野県内で大災害が頻発した。長野県ばかりではなく全国的にもそうだっただろう。今なら地球温暖化現象と言われるが、当時ならそんな災害の頻発にくくられる理由はなかった。もう30年近く前のことである。中央自動車道が県内全線開通したばかりのころのこと、まだ長野道とか上信越道などというものは影も形もなかった。国道153号を北上し、分水嶺である善知鳥峠を越える道は流木などが目だって路面に散乱していた。未明ということで通る車はほとんどなかった。

 国道19号の松本市新橋まではふだんなら自宅から未明なら約1時間。この日は大雨の中だったからもう少し時間がかかっていただろうか、午前4時ごろのことだったのだろう。当時は大賑わいだった松本ドライブインを過ぎたあたりで国道19号が通行止めのことを知る。大型車のドライバーの話す声を聞いたのかわたしから聞いたのか記憶にないが、長野県内のほとんどの道路は通行止めだという。あと知ったことであるが、前日の夕方から雨量による事前規制によって長野市七二会から東筑摩郡生坂村間は通行止めになっていた。自宅に引き返そうと思ったところ、大型車のドライバーの話によれば和田峠が通行できそうだと知る。18キロのうちまだ半分まで至っていなかったが、諏訪まで向かい和田峠を越えるルートをとることにした。国道20号のえ塩嶺峠道もかなり荒れていた。下諏訪から和田峠道を登り始めるがさすがにこの道しか長野方面と連絡する道がないということで、豪雨の中であったが通行する車が何台かあった。それでも峠を越えると川のようになった路面、そして流れ出してきた砂などふだんにはない姿の道で、通行止めになっていないことが不思議なほどな状態であった。山間を越えればあとは支障になる道路はなく、なんとか飯山までたどりついたが、まだ夜明け前のことだった。すでに台風が通過したあとの天候回復の兆しが見え、嵐の後という雰囲気があちこちに見えていた。穏やかに新しい一週間が始まると思われたそんな飯山の朝が少しざわついていたことはどこか記憶にある。

 会社に出勤すると千曲川の支流の樽川が朝方決壊したという。会社に飯山市木島の人もいて穏やかに始まるであろうと思った一週間が、一転水害対策の対応に追われる一週間に変わったのである。いや一週間ではなく、しばらくは災害の対応で終わった。

 Akiさん(田舎暮らし在宅ワーカーの日々)が「台風18号」でこんなことを述べられている。「昨日の夕方のうちに、飯田線の運休が決まり、学校も休校となったので、子どもの送迎の心配はなくなった」と。Akiさんは大鹿村から最寄の駅まで子どもの送迎をしているのだろう。考えてみれば、あの大鹿村から小渋川に沿って松川町まで降りてくる道を、台風の最中に送迎する家庭がたくさんいたらそれを考えただけでも「休校するべき」と思う。長野県内には同じような日々を送る人も多いだろう。ようはふだんは何事もないことが当たり前のように通っている道、そして行動には、「安全」が当たり前という意識がある。しかし、危機管理という面から捉えれば、危険なときは動かないという考え方は当たり前である。若かったころ、そんなことは意識もせずに台風とともに北上するという行為を何度も繰り返した。伊那谷の人間にとっては県庁が北の端にあること、そして台風は北上が当たり前という動きの中で、わたしに限らず多くの人が同じような経験を積んでいるはず。

 ところでこの台風18号でのデータを読み起こしてみる。降り始めからの雨量は阿南町262mm、南信濃村257mm、鹿教湯224mm、佐久187mmといったもので水害を受けた飯山は107mmだった。台風としては並みの勢力だった。決壊した木島地区は千曲川水面より低い。樽川の水は千曲川の水位が下がり始めても増水し、決壊によって千曲川の水が逆流した。879戸と対岸の飯山市常盤なども含めると千ヘクタールほどが浸水した。台風18号では諏訪湖が増水して旅館街が水没した。実はこの年は台風10号でも県内で災害を被っている。諏訪湖の浸水はこの18号が二度め。長崎の集中豪雨もこの年のことである。
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台風18号

2009-10-08 06:03:01 | 歴史から学ぶ
 台風が来ている。昨夜から朝方にかけての接近、そして台風前方に雨を降らすということで、事前に災害に備えた注意が呼びかけられた。朝から電車はすべてストップ。近県を見渡してもおおかた公共交通はストップしている。学校関係もほとんど休校が前日のうちに言い渡せられて、静かな台風の日の始まりだ。こういうケースの場合、無理に通勤するのも危険を伴うということにもなるのだろう。できれば動かないことで事前の防御となる。とはいえ仕事に追われているわが社ではそんなことは言っていられない。



 台風について日記を検索しても意外に記事が少ない。災害が発生すると仕事が忙しくなる会社にいるのに、自ら意外と思ったりする。会社に入ってから記憶に残る台風はいくつもある。しかし、それが何年の何号とまでなるとほとんど記憶にない。近年にあった平成16年の台風18号だけが災害と台風を結んでくれる唯一であったが、昭和57年と同58年の名前が思い出せない災害も記憶に深いものである。調べてみると、図にも示したような台風18号と台風10号であった。長野県内で大きな災害をもたらしたものはこのほかにもあるが、この三つの中でも昭和58年の台風10号格別なものだった。なぜこんな経路の台風が大災害をもたらしたのか、ようするに台風は経路だけでは一概に図れないということになる。9月28日に長崎県に上陸した台風は高知県宿毛市で温帯低気圧になった。このとき秋雨前線を刺激して集中豪雨を起こさせた。大型のものなら前線を引き連れていってくれるものをこのときは刺激して自らの仕事を終えたようなものだった。9月29日信濃毎日新聞朝刊には「死者行方不明5人に」とある。どこでというものではなく全県において死者行方不明が点在した。長野市の西に位置する信州新町の国道20号線沿いの街中心が水没したのは29日午前未明のこと。そしてこれで終わったかと思ったころである。29日抜けるような青空が広がった。ところが下流域はそんな抜けるような天候の下、洪水が見舞ったのである。翌日の30日の信濃毎日新聞一面は「千曲川堤防決壊」というものである。29日の朝方、飯山市常盤の柏尾橋上流付近の堤防が決壊した。収穫間際の水田地帯は見事に湖と化したのである。このときわたしは今はなくなってしまったが、飯山市の出先に勤務していた。実は前年の昭和57年にも飯山市は水害に見舞われている。図に示した台風18号である。このときも千曲川堤防が決壊間際だったのだが、千曲川支流の樽川で決壊して、千曲川合流点の水位が少なからず下がったおかげなのか、本川の堤防は保たれた。しかし、昭和58年に決壊した常盤堤防ではあちこちで水が吹いていたという。飯山市常盤が見渡せる関田山脈の中腹から決壊の様子をカメラに収めたのは昭和58年の台風10号の際だった。どこか探せばその写真のネガがあるのかもしれない。樽川決壊地点の災害復旧にまだ会社に入ったばかりだったわたしは、右往左往したことを昨日のことのように思い出す。

 いっぽう昭和58年の台風10号は全県に大きな被害を出したが、とくに伊那谷南部を中心に大きな爪あとを残した。北の県境の飯山から約1ヶ月にわたり南の端の下条村の災害現場に入ったのも記憶に深く残る。伊那谷といえば「三六災害」と言われる未曾有の災害が今でも語り草である。その災害が起こったのは、ちょうど日記に記そうとしているダム「美和ダム」が竣工して数年のことである。せっかく建設されたダムであったが、降雨継続時間が長かったため、機能を果たせなかったという事実がある。最大流入量からみれば十分に容量があったはずなのに、大きな道具をもてあましたのか、想像を超える継続降雨だったのかというところである。いずれにしても三六災害は梅雨前線豪雨によるもので、かなりの長雨のあとの豪雨だった。この三六災害に匹敵すると言われた昭和58年の台風10号だった。下伊那郡内だけで農林水産省の耕地災害箇所が三千地区を越えていた。その後これほどの災害は起こっていない。

 さてもう一つ記した平成16年の台風18号は、わたしが長野の出先にいたときのもの。前述の二つの台風災害にくらべたら些少なものであるが、遠路赴任していたわたしにとっては、生活を狂わす大きな出来事であったことは事実。大河をほこってきた千曲川は旧豊野町地先において狭隘な谷に入る。どうしてもここで流れはとどまり、上流域の長野市一帯にかけて湛水被害をもたらす。ちなみにこの地先に、長野県でもっとも話題に上る浅川ダムの本川が合流する。いずれにしても図に示すように、これらの台風が経路的にはあまり被害をもたらすようなイメージで辿ったわけではなかったことは、あらためて気象庁の過去データから開いてみて解った(図はそのデータをわたしが白図に概略落としたもので正確ではない)。それと「18」という数字が頻繁にイメージに湧くあたりが訳ありなのだろうか。それにしても今回の18号、このあたりでの被害は少なそう。
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