Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

ため池慣行のムラ⑨

2011-11-15 22:58:38 | 民俗学

ため池慣行のムラ⑧より

7.防災工事

 平成7年の記録に次のようなものがある。「堤の出口のところが以前の災害で破損してそのままになっている。何年も前に陳情を重ねたがそのままになって現在に至っている。区の仕事計画の中には毎年もられていたが、工事順位の先のものがあり、それが終わってからということになっていた。区長S村議の骨折により県議のMさんに頼んで下され、区長、代理者Tの3名が現地視察をして下さる。村-地方事務所-県を通して改修するように働きかけるという約束をして下さる」というものである。「以前の災害」とは前回触れた昭和58年に起きた台風10号災害のことである。その後の平成7年までの記録から推測すると、アト(余水吐)がクンデ(崩落して)その下に続く水路にも影響し、余水がため池下にある水田に溢れていたようだ。昭和50年代の航空写真で確認すると、前半まではため池とため池の間にある水田も、またため池の上部にある水田も耕作されていたようだが、昭和50年代後半になるとどこも耕作放棄地に変わったようだ。昭和50年代がとくに作業条件の悪い土地の耕作が諦められるような転機の時代だったといえる。ということで耕作放棄されていたため、緊急に改修を要するに至らなかったということになるだろうか。文面からは、いわゆる自治会が上部機関に補助事業を依頼する場合の一般的なスタイルがうかがえる。優先順位、村議、県議、というキーワードが重視される時代の光景である。

 三者立会いの中で取り上げられた要点も記されている。

①災害直後なら工事の手続きができやすかった。
②耕地課に話しをして今年度中に工事を実施する。
③土砂がくんで来た土を平らにして田圃とするのには面積が少ない。洞の耕作者全員が共同でやるなら受益者40%負担となる。
④耕地課の方が実にくるので草を刈っておいてほしい。
⑤余水溝の方の工事費は受益者の負担はかからない。

 ①はいわゆる国の災害復旧事業に申請するにも直後でなければ申請はできないということを意味するだろう。耕地課とは当時の県の出先機関である。③から推測するに崩落した土砂はそこそこ多かったと思われるが、おそらくため池直下にあったため池の受益者の水田に残土を均したらどうかという話し合いが出たのだろう。直下の受益者の水田は1畝にも満たない小さな水田であったから、そこに処理するのは無理だろうという意味だったのではないか。そして洞全体なら・・・となるわけだが、上のため池と下のため池の間にある水田のことを指し、ここで耕作する人たちはため池の水利権の無い人たちであり、難航することは必至と考えられるわけである。負担割合の話がいくつか登場するが、この時点で県単事業を前提にして話が進められていたようだ。そもそも県議が登場する時点でそういうことになるのだろう。村単独補助では大きすぎる規模だったといえる。

 この③の問題は、後に洞にある関係者も含めた会議に発展する。水田とともに整備をしたらどうかという働きかけである。しかし、ため池の受益者ではないという実態から、やはりそこまでの整備には至らなかった。すでに耕作放棄されていたという実態が、整備への意欲を欠いたといえる。

 続く


コメント    この記事についてブログを書く
« ため池慣行のムラ⑧ | トップ | ため池慣行のムラ⑩ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

民俗学」カテゴリの最新記事