富士見町には仕事でよく縁がある。コケリンドウを発見したのは5年前の7月上旬のこと。仕事で訪れた立場川近くで昼をとっていて見つけたもの。昨年も立場川近くを通ってこの時期に立ち寄ってみたが、コケリンドウの姿を見ることはできなかった。今年は立場川からは離れたところの現場を訪れたこともあって、立ち寄ることもできなかったが、天候不順のこの季節に訪れるのが恒例だ。今日も県内では土砂災害警戒情報が出るほど局地的な雨が降っている。富士見町でも雷雨に見舞われて、予定していた仕事ができずに帰路についた。
今年は富士見町だけではなく、隣接する原村にも足を運んでいる。さきごろ「“今ではお目にかかれないモノ”3」で原村の冊子型パンフレットについて触れたが、同時代に仕事で原村を訪れていることを思い出した。原村といえば災害に見舞われることなどそうはない地域であるが、昭和57年8月に発生した台風10号は原村に災害をもたらした。その復旧に関わって8月末から9月上旬の1週間ほど、現地に入った。まだ長野道が開通していない時代であるから、当時勤務していた飯山市からは菅平越えで上田に出て、和田トンネルを経て諏訪に入ったものだ。そもそも仕事で高速道路を利用するなどということはなかった時代である。
今日訪れた地区は、今でこそ矩形に整備された水田が広がるが、当時はまだ未整備の時代だったのだろうが、あまり記憶にはない。そんな整備された水田を見て気がつくのは、この地域独特な水田と水路の関係が垣間見えた。地形勾配が25分の1ほど。用水路には落差工というコンクリート二次製品が設けられ、勾配調整をしている。その落差工が設けられるたびに、水路が曲折するのである。必ず落差工の上部で右に曲がり、落差工の下部で左に曲がる。沿っている道路は真っ直ぐなのに、水路は落差工のたびに右、左という具合に曲がるから、蛇行しているのである。これは落差工を設けると、その下側で法が大きくなるため、法先まで水路を追うと法分が道路肩より偏心するために起きる。ほかの地域では道路も水路も真っ直ぐになるように、残地で調整するのだが、なるべく無駄な土地を出さないように、という意識が高いと、道路を蛇行させるわけにはいかないので、水路を蛇行させることになるのだろう。ところが、水田への掛け口から10メートルほどの間に落差工を設け、その先に水田の排水先を求めるため、水田の辺も排水口があるところで曲がる。すると律儀に稲を植えると、畝もそこで曲がるのである。ほ場整備がされて3反以上もあろう水田なのに、畝は蛇行するのである。こんな具合に整備された水田は、よそでは見たことがない。せっかく整備するのだから畝は真っ直ぐにしたいところなのだが、構造上それを許さないのである。そもそも掛け口から10メートルもないうちに排水口を設けるという構造そのものが、他では見ない例である。思うに標高が高いということもあって、冷たい水を回避するために、掛け口と排水口を接近させ、補給するとき以外は、用水が水田に入って冷えさせないような意図があるのだろう。しかし、そのために水路が蛇行し、畝も蛇行するという構造は、今の時代には似合わない。蛇行すれば労力にも関わるし、水路に至っては継ぎ目から漏水をお越しやすい。地元が欲した構造なのか、それとも施工主体の担当者の好みだったのか、その実は今となっては解らないほど、以前の整備だそうだ。
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