今日はあるお客さんの全国表彰受賞のお祝いの祝宴であった。妻には「忘年会が無いといったじゃない」と言われ、忘年会と間違われた飲み会であるが、明らかに忘年会ではない。長年務めていただいた功績に対する評価を受けての受賞なのである。ごく身内の8人ほどでの集まりではあったが、市長さんやそのお役所の方たち、また受賞者との深い縁のある方たちが集まった宴会の席であった。コロナ禍を経て、なかなか飲み会が復活しないことについては、先日触れたとおりだ。しかしこうした仕事上のお客さんとの懇親の席は、むしろコロナ禍以前以上に今年は多かった。その締めくくりの今日だったように思う。
その席でも話題になったのは「地域性」だった。諏訪とか下伊那とか、木曽、松本といった地域との比較の上にある「伊那」である。そうしたなか、今までの認識がいろいろ間違っていたことにいくつか気づいた。長くこの地で仕事をしてきたのに、「そうだったんだ」と何度口にしたことか・・・。ここは「富県」と思っていたエリアが、実は東春近であったりして伊那市内の旧村境界は複雑に入り組んでいることをあらためて知ったところ。伊那市と言えば南箕輪村との境界域が複雑に入り組んでいて、認識しづらいことは周辺の人も、また市内の人でも気づいていること。そうしたなか、東春近には西山に共有山があるといい、また美篶の共有山が新山にあったりと、旧村エリアで捉えると、村から遠く離れたところに山を持っていたところが多いようだ。なぜ遠いところに山が必要だったかといえば、やはりカリシキ山が必要だったということなのだろう。とはいえ、東春近からみれば、西山は天竜川の向こう側の山。また美篶から見れば新山は天竜川の支流では最も大きいとされている三峰川の向こうに位置する。大きな川を隔てても欲しかった「山」なのである。なるほどと納得できるのは、東春近には川向こうの西春近の中に「木裏原」という飛び地の集落が存在する。天竜川の右岸だからみな「西春近」なのかと思えば、なぜか東春近が存在するのも、東春近の共有山が西山にあるというのだから理解できる。こうした複雑な地域は、けして珍しいわけではないだろうが、とりわけ伊那市域には顕著のような気がする。そしてそれが市域の人々の根幹にいまもって根付いていて、集落ごとの意識に影響している、とはわたしの考えだが、興味深いところで、ちゃんと調べられるといいのだが・・・。