Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

拭えないこの後の時代を憂い 後編

2024-03-08 23:05:23 | ひとから学ぶ

拭えないこの後の時代を憂い 前編より

 それにしても、わが社の会計検査へのかかわり方は、わたしが生業に着いた半世紀近く前と何も変わっていない。お客さんとの関係から、どれほど手間をかけても、これに対する報酬はない。前編でも記したように、約2週間ほど、出先の要員の半数以上がこれに終始した。したがって通常の業務は止まったままだから、当然のことこの年度末の忙しさがさらに忙しくなる。民間の意識であれば、赤字になることに時間をかけるはずもない。

 かつてなら該当物件にかかわった皆が物件に間違いがないように見直し、そして掃除をしたり、周辺整備をするというのは当たり前だった。ところが今はコンプライアンスがものを言う。発注側と受注側が対等であるならば、できあがったものへの発注側への検査に、受注側が関わることはあり得ない。ようは昔のような関係者全員での準備は過去の話なのである。ところがいまだにわが社のかかわり方に変化はない。いったいわが社とは「何者なのか」と、知らない人々には映るだろう。今回も竣工書類に関してデータを依頼したところ、受注者側の社長は「なぜ必要なのか」と担当者に注意したという。既に受注側が納めた物件に対して「会計検査だから」といって手を貸す必要など「ない」というわけだ。受注側は、発注側の意図通りにモノを納め、検査して納めたもの。いまさらそこに手間(費用)を要す必要が無いのは、ごく当たり前な意見だろう。ようはかつてのような役所と業者の関係はそこにない。これもまた当たり前のことと言えるが、それほど世の中は変わっている。かつての慣れあいのようなものはまったくなく、対等といえばその通りで、文句のつけようもない。しかし、それほど割り切られた社会で、地方の自治は成りたつのか、と問われると、わたしは疑問である。

 今や勤務時間に対しての統制も厳しい。たとえ建設会社であっても、残業がたやすくできる時代ではなくなった。正当なルールに沿って雇用関係が築かれる。おそらくわたしにはまだ見えていないが、農業の分野でもいわゆる法人のような空間ではそれが当たり前になっているのかもしれない。個人農家が、いまだに農作業時間に制限が無いのとは、まったく異なるのである。したがって会社組織においては、環境は様変わりしてきている。いっぽうでわが社はどうかといえば、確かにかつてに比べれば改善されてきているが、世間のしわ寄せが「ここにきている」と言っても差し支えないほど、昔と変わらない。結局すべてのコンプライアンスが正統化されれば、この社会は動作不能となる。なぜならば、カバーできない世界が必ずあるし、人手不足は一層それを顕在化させる。伸縮性のない社会、あるいは応用力のない社会へと進み、それを受け止める人々がいなくなった時、社会の崩壊、あるいは破裂が見えてくるのではないかと危惧するのがわたしのひとり言であって欲しいと、願うだけである。


コメント    この記事についてブログを書く
« 拭えないこの後の時代を憂い... | トップ | 無形民俗文化財の違和感 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ひとから学ぶ」カテゴリの最新記事