Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

個人と「家」

2023-12-26 23:36:54 | ひとから学ぶ

 来年度に向けて予算を組んだり、人事のことを考えたり、そういう時期である。公民館の地域の末端(分館)の役員を3年続けて担って、今年でひとまず公民館からは外れることができる。とはいえ、コロナ禍は活動が中止になったから、フルに活動したのは今年だけだ。「楽をした」と言われればその通りで、中止は裏を返せば「ありがたかった」という正直な気持ち。そう思う人は、こうした地域の役を担っていた人には多いだろう。これまた裏を返せば、そのものの必要性にもかかわる。

 わたしはもう来年度は無関係となるが、来年度の役員をお願いする際に、候補をあげてもらった方たちに順番に依頼した。みなさん優先順位一番の方たちが受けていただいたから、一人目で終わったため、ここでも「楽をした」。役員は4人。上から二人はスライドして役員になるから、新たに加わる二人だけお願いすればよい。ただし、来年お願いする候補者に単身赴任の方がいた。快く引き受けていただいたが、上部の役員会は平日の夜開催されることもある。その場合「休む」か「代理」となるが、わたしは「代理」ならほかの役員が担えば良いと考えていた。ところが、役員の中から、「引き受けたのなら引き受けた人がやってもらわなければ困る」と意見された。ようはほかの役員が「代理」で上部役員会に出席するというのは「NO」だと言わんばかり。受けた者が出られないのなら、受けた者が代理を探せということになる。そもそも上部の役員会に部外者が出席しても役割を、また地域の分館の内容を理解していなければ「意見」はもちろん「同意」も「反対」もできない。だから「役員が代理」するべきだ、とはわたしの考えだったのだが、違う意見の背景には「奥さんが出ろ」という意図が見えた。もちろんある程度内容を理解できるだろうが、本旨とはいえない。地域の分館の役員会に奥さんが出てきて発言するのも違うし、そもそも役員は「家」で担っているわけではない。ところがそれら意見の背景には「家」単位の考えが見え隠れする。ようは「昔」の地域意識である。役員は個人名なのに、トータルには「家」で受けているような感覚。

 すでに「家」という存在は希薄化しているし、そもそも今や独り身の人も多い。何世代も同居しているのは過去の話で、地域社会の構成は、家単位でみてもそこには一人か二人程度という「家」が多い。この事実を踏まえれば、当たり前に役員はその個人が担っているもので、家族とは無関係だ。確かにいまだに昔のような家族も存在するものの、それが一般的だという考えは、もう昔のこと。何より昔の考えで役員を捉えていたら、役員の担い手はいなくなる。そして事実役員のなり手がいなくて困っているわけだ。地域社会こそ、地域ごと多様であってよいわけで、それぞれ従来のやり方にこだわることなく、柔軟に変えていけばよいのに、なかなかそれができないのは頭の固い人たちがいまだ意見が強いからだ。田舎が「暮らしづらい」のはこういう事例から垣間見えるわけだ。


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