Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

田舎のいじめは大人まで

2006-06-13 08:08:05 | ひとから学ぶ
 息子がいじめられて中学での部活動の部長を辞めたということは今までにも何度か触れた。中学に進学すると、いくつかの小学校からの卒業生が集まる。だからそれまで縁もなかった子どもたちと一緒になるのだが、実はいじめた子どもたちの多くは、同じ小学校から進学した子どもたちだった。とくに中心となった子どもの1人は、比較的家も近く、小学校のころは毎朝わたしの家に寄って息子を呼んで行ってくれた、当時としてはいわゆる仲の良い友だちのように見えていた。ところが中学でいじめられるようになると、息子も必ずしも当時から仲が良いというほどのものでなかったということを言うのである。そのころからいじめへの前兆があったようである。

 彼だけではない。〝死ね〟と言う子どもたちには、やはり同じ小学校から進学した近くの友人もいた。わたしの印象では、むしろ身近であった同郷の仲間がそんないじめの中心にいたと思える。直接彼らの言い分を聞いたわけだはないから、母と「息子も悪かったのではないか」などということを当初は言っていたかもしれない。それほど身近であったわけだ。

 では自分の生まれ育った空間は、あるいは友だちはどうだったのかと思い出すと、口をそれほど聞かない友だちはいても、いじめをしようとか、いじめられてしまったという覚えはない。当時の子どもたちには、共有する空間があったし、そこからはずれていたとしても、それをそう意識するほど大人びていなかった。ところが、今の子どもたちは、グルーピングされた中で行なわれる遊びについていけない、あるいは入ろうとしない子どもをまず第一にはずそうとする。例えばゲーム機で遊ぶとか、カードで遊ぶといった際に、グルーピングされた仲間と同等な備えを持っていないと、そこでもうはずされてしまうのだ。かつて息子はゲーム機を欲しいといった。ところが父母がためらっている間に、息子は自ら「もういらない」と割り切っていた。価値観の違いを認識したのか、あるいはすでに仲間はずれされていたからそこまで執着しなかったのか、そのへんはすでに昔のことでよくわからない。いずれにしても、それがいじめへの第一歩だったとしたら、その関係をいかに本人がクリアーするかだけである。

 地域で生きていく以上、大人になってもそうした仲間とのつき合いは必要だ。しかし、この多様な社会で子どものうちからわだかまりを持つと、大人になってもなかなか消えないものだ。いつしかそんなわだかまりが解消できればよいが、いっぽうではそんなちょっとしたことが大きな影になることもある。「同じ地域である」という意識の中で、どう割り切ることができるかということもこれからは必要となる。

 秋田県藤里町の事件が大きく報道されている。ほとんど隣接している家の母親が隣の家の子どもを殺してしまうという悲惨にも見える事件である。奇異にとらわれがちだが、どこで起きても不思議ではないとわたしは思っている。とくに旧来からではなく、新たなる住居地域、それも田舎であった場合は、人づきあいは難しい。だからといってよそ者を排除するものでもないが、長いつきあいとは異なり、新たなる隣接者を迎える際には、もし隣に自分とはまったく違う価値観の人がやってきたらどう思うだろう。地域の融和を必ずしも価値あるものと思っている人たちばかりではない。ほころび始めた糸口はなかなかつくろうことはできなくなる。いや、そうすることに力を注ごうという人は大変少なくなった。必ずしも人口が増えればよいとか、観光客が入ればよいとかいうものではなく、受け皿としての自らの空間をまず認識する必要性は高い。

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