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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

今年の「赤い羽根」

2022-10-23 23:42:01 | 地域から学ぶ

 本日の信濃毎日新聞に「問題の所在は…」で触れた問題をまた扱っていた。第二社会面の広告を除けば6割の紙面を占有している力の入れようが異なる記事である。「「一歩一歩記者はこう考えている」と題したシリーズなのだろう、その⑦は大きく「「声のチカラ」で社会に問う」と題打っている。記者の視点は「正当だ」と主張しているようにも見え。かつての同紙にはみられなかったような主観的な記事であり、違和感を覚える、ということは「問題の所在は…」でも触れた。記事内でも記者本人も触れているように、「投稿者以外の声もできるだけ幅広く聞こうと、取材対象の地域を戸別に訪問し、住民の意見を聞いた」らしく、「たかだか数百円の募金なのに、新聞記者が目くじらを立てる問題なのかね」と言う人の意見も載せている。あくまでも意見であるが、きっと記者の取材の中、あるいは「声のチカラ」で扱った以降に、同様の意見ももらっていて、記者が気にされていたのだろう、と想像する。たしかにこのような大きな扱いで触れる必要があるのか、という意見は多いだろう。そして、今回の記事で盛んに記者が触れている「赤い乳根共同
募金の取材をしていた時のことだ。実名での報道について、取材の相手方が二つ返事で「いいよ」と快諾してくれた」築北村の方の扱い方も違和感のありかである。

 そもそも匿名ではできなかったことが、実名だから報道できたようにも聞こえ、それは新聞として正しい扱い方なのだろうか。

 昔から赤い羽根の募金に対してはいろいろ言われていただろうし、問題があることは誰もがわかっている。しかし、あくまでも募金の成果を求める側なら、どのような形であろうと募金してくけることが第一だろう。強制的であってはならないが、現実的には強制的にも捉えられる。しかし、「募金である」ということはみなが承知している。したがって目安があろうと、「わたしはできない」ということができない社会に気づくべき。中には金銭的余裕があってもこのような募金に反対の方もいる。それでもあえて募金を「集金」のように行うところに、日本人らしさ、あるいは日本ではそうした募金意識が低いという結果を見る。繰り返すが日本らしいといえばそれまでなのだが、「募金」であっても「集金」でなければ集まらない現実がうかがえる。その背景を議論せずに、目安を示した「募金」だけを批判するのもどうだろう、などと思う。

 確かに「募金」という名の「集金」には違和感が強くわく。今年も10月1日以降この募金が始まった。隣組長をしているわたしのところに自治会を通して募金の回覧の催促が届いた。組長の判断だから、もしかしたら組長によって「ほたしはしたくない」という人がいれば、その隣組は募金しないかもしれない。あくまでもすべてにおいでみなさんに任された「募金」。わたしの町ではその集金した募金の納め方も組長に任されているから、マジで納入しないところがあっても不思議ではない。本当のところはどこの組がいくら募金したかなどという報告もないからわからないこと。町の共同募金委員会長名での「協力のお願い」には前年の町全体の募金額が示され、本年度目標額が書かれている。そして「1戸当りの目安」として600円と記されている。これは地域ごと異なることと思うが、いわゆる予算と同じで、前例主義になるのはある意味仕方ないこと。さらに「お願い」の中には、「自治会の慣例でお願いします」と強調されている。そして回覧通知の中には記されていなかったが、同様の「お願い」の自治会組長あて通知には「組合費等から出費される場合は…」といった具合の記述があり、戸々集金しない地域も存在することをうかがわせる。どのような形でも募金協力を求める。違和感はあって、地域としては仕方ないところがあり、そもそも赤い羽根の募金そのものを議論するべき、と思うのだが。

 さて、記事を書いた記者まで紹介する丁寧さだ。どの程度地域社会を実際に経験され、どれほど地域社会の多様さと問題を取材されているか知らないが、問題を煽るだけでは何も解決しない。


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