Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

異論を挟めない地域の伝統

2014-07-30 23:50:44 | ひとから学ぶ

 夏休みに入るこの時期、地元では地域ごとに「夏祭り」などという催しが盛んだ。それは自治会単位の小さなものから、行政エリア単位の大きなものまでいろいろである。例えば行政単位で行なわれるものも、よその祭りには目を向けさせないとばかり日が重なる。何を主旨としているかといえば、マチの活性化策のひとつとみてとれるが、かつての農村では子ども達はともかくとして、大人たちにとっては無用の祭りだったかもしれない。わたしの子どものころはそんな祭りはほとんどなかったと記憶する。そして息子も楽しんだからわたしも恩恵を受けたわけであるが、自治会単位の祭りはまさに自治会(実際は公民館)が主催するものだ。しかし集まるのは子ども達が主。ようは子ども達のために自治会の役員が苦労する、という図式なのである。毎年続けているからそれを「辞めよう」などと口にする者など現れるはずもない。毎年のように役員が入れ替わり、引き継がれていく自治組織によく見られる事例だ。子ども達にとっても毎日がお祭りのようなこの時代にあって、自治会がこうした祭りを主催することの意味を、自治組織の子ども達であるというアピールなのだろうか。大人になってもこの地域を忘れないようにという。このシステムと言おうか考え方そのものに違和感を抱かずにはいられない。たとえばかつてならムラの祭りは大人たちが自ら楽しもうと企てたもの。その祭りを目当てに、子どもたちも楽しんだわけで、ムラのあるいはマチの祭りの情景に子どもたちが選択して登場していたわけである。子どもたちのために行なわれた催しではないのである。

 長崎での事件が世間を賑わせている。子どもたちの大人へのわだかまりは高まっているのかもしれない。この国が大人と子どもの間にずいぶんな壁を築いてしまったのは悲劇かもしれない。わたしも我が子との距離が正しかったとはとても言えないが、もしそれを埋め合わせるような大人や地域の子どもたちへのアピールのひとつが地域の子どもたちのための催しだとしたら、どこか違うのではないかとわたしは思う。

 盛んに自治組織に関する部分でコメントをいただいている。小市民さんからは「地域にこだわるのもいいですが、それだけではなくてたとえ地理的な距離が離れている人でもさまざまな視点で考えを同じくする人が集まればいい」と言う。公民館活動の末端組織の活動を見ると、まさに地域にこだわったものであり、そのうえで特定の人達だけが恩恵を受けるシステムが当たり前のように続けられてきた。そしてそれを負担するのは住民不公平なく一様なのだ。不平があるなら「参加しろ」ということになるだろうが、特定の人達に限定されるような流れを当たり前のように引き継いできたのも事実で、そこにはそれを打開するような動きはなかったと言える。そもそも公民館活動は末端組織として必要なのか、と問う。公民館活動が不要だとは言わないが、広範な中で小市民さんが言われるような同じ主旨に賛同する人たちが活動することをサポートする、そんなためにあれば良いもの。わざわざ地域から協賛金とばかりに活動費を集めておいて、それを末端地域の特定の世界で使い切るという活動は明確に不要だとわたしは思う。


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