「稗」と聞いても知らない人は多いかもしれない。稗をわざわざ作ったのは、昔のことである。『長野県史民俗編』の第二巻(二)から南信地方の稗の耕作の項を紐解くと、明治末期から大正時代を最後とし、遅くとも昭和10年ころまでには作ることを終えた。稗が作られたのは水田地帯よりも畑作地帯が盛んだっただろう。いわゆる焼畑では1年目にそば、2年目に稗や粟、3年目に大根、といった具合に耕作がされたものである。水稲ではないから水が無くとも育つ。稲作技術が低かった時代には、稲より強かったからこれを代替えとしたところもある。冷たい水でも育つから水口に植えられることも多かった。今わざわざ稗を作る人は稀である。そもそも「稗抜き」とか「稗取り」と言われるほど、田の草の中でも稗は王様、いや悪玉である。稗を放っておくと大変なことになる。米の収量が落ちるのはもちろんだが、そのまま種が水田に落ちると、翌年の景色は想像にたやすい。したがって田の草取りなどしなくなった現在でも、稗が見えれば取らざるをえない。そしてその稗の処理も気を使わないと、種を落としてしまうと苦労も水の泡となるわけである。まだ小さいうちに稗を取れればよいが、今どきの俄か耕作者には、小さいうちに稗を見分けるのは難しい。もちろんわたしも定かではない。
先日富士見町へ仕事ででかけた。山際の道端で今まで見たこともなかった施設というか空間を見つけ、思わず写真に納めた。長方形のその穴は長辺が1メートル余、短辺は50センチ余といったところだろうか。窪みの深さは50センチほどのもので、ようは生ごみでも埋めようかという穴である。立て看板が無ければ目に留まることもなかったが、その穴の脇に立札が3枚立っていて、そのうちの1枚に「稗捨場」と書いてある。ほかの2枚も古さから見ると同じくらい年数を経ているが、文字は既に読み取れない。唯一文字がはっきりと残っていた「稗捨場」になるほどとは思ったが、我が家のあたりではこのようなものを見た記憶はない。それぞれの家で稗処理の場を考えていたとは思うが、共同の稗捨場など聞いたことがなかったのだ。こういう施設がよそにもあるのだろうか、と例のごとく検索してみるがほとんど事例はない。その中に「穂稗捨場」という単語が唯一現れた。平成5年に発行された『原村誌下巻』の目次一覧の中に見つけた。さっそく同書を所蔵している図書館に足を運んで調べてみると、記述はわずかであるが、その意図がはっきりした。次のように書かれている。
農道添いの三角地や区有地の一部分に、深さ四〇センチメートル幅六〇センチメートル長さ一・五ないし二メートルぐらいの穴を掘り、「穂稗捨場」の札を立てた。このような捨場は、明治時代より毎年一定場所に何カ所も作られた。水田から抜きとった穂稗はここに捨てられた。牛馬をもつ者には、とった穂稗を飼料にした者もいたので、捨場にはいくらも捨てられなかった。
記載されている『原村誌』の原村は、それこそ「稗捨場」を見た富士見町の隣の村である。この八ヶ岳の麓に広がる地域には、こういう施設が設けられていたということなのだろう。まさにこの記述通りの空間が富士見町で見ることができたわけである。穴の中には稗の姿はなかった。もともと稗を作った理由に、馬の餌として作ったというものがある。この記述にもあるように、捨て場にはそれほど捨てられなかったのかもしれない。それでも共同のこうした施設が作られたというのだから、それほど稗がたくさん生えてきたということなのだろう。
同じような場所が他にもあることがわかりありがたいです。なかなか諏訪の地を訪れる機会はないのですが、また探してみたいと思います。