Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

大町霜月祭り

2009-12-27 19:03:02 | 農村環境

  平成2年12月17日

 

  昭和61年12月17日

 

  何度か報道されていて記憶のどこかにあったが、遠山霜月祭りの大町遠山天満宮で開かれていたものが、来年から休止するという。現在13世帯30人という大町は、天龍村平岡から旧南信濃村和田へ遠山川をさかのぼると、左岸側にある最初の集落である。とはいっても左岸側は急峻な山となっていて、右岸側を走っている国道418号からは向こう側に集落があるという印象が浮かばない。10年ほど前に遠山川を跨ぐ橋が架かって向こう側に集落があるだろう、と通る人たちに認識されるようになっただろうが、そうでもなければ日中でも日陰になっていて逆光側の右岸側からはまったく影の世界になってしまう。

  そんな大町に初めて訪れたのは昭和61年のこと。もちろん霜月祭りを見に行ったのであるが、前述したように始めてでそれも夜ともなると、左岸側の明かりがほとんど見えないような集落へどうたどり着けば良いのか迷ったものである。当時は大町へ跨ぐ橋はなく、名古山から渡る橋があったものの、わたしの記憶では尾之島から入ったように思うが定かではない。今年は23日に祭りが行われたようであるが、当時は17日が大町の祭りの日だった。一度休止していたものを昭和53年に再開したといい、それからしばらくは17日に行われていたようだ。27日信濃毎日新聞社会面にルポルタージュとして記事が掲載されたが、それによると再開当時は30世帯だったという。だからわたしがはじめて訪れたころもほぼそのくらいはあったのだろう。当時でも舞手がいなくて他所から来た人たちにも舞手となって参加して欲しいという声がかかったものである。その後よそ者でも舞うことができる場所として知られるようになったと記憶する。和田から尾之島、そして大町とこの一帯の霜月祭りには同じ顔が主宰者に見える。禰宜さまが同じ人が担っているからだったのだろうが、この23日の祭りを写した信濃毎日新聞紙上の写真に、当時の禰宜さまの顔が写っている。

  初めて大町を訪れた直後、仕事で隣の十原(とっぱら)に何度か訪れた。そこで関わった方に坂本さんという活発な方がおられて、大町の祭りでも盛んに舞手となっていた坂本さんがいた。あれからもう20年以上経っているから、当時からさらに変わっているのだろう。仕事で縁のあった須沢でも祭りが休止となって久しいが、世帯がなくなってしまえば仕方のないこと。縁があったところに限ってそんな道を歩んでいかれることが少し複雑な思いでもある。


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