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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

結局、民俗学はどこへ⑤

2009-12-28 19:27:08 | 民俗学
「結局、民俗学はどこへ④」より

 『日本の民俗』全13巻(吉川弘文館/2009/12/10発行)の締めは「民俗と民俗学」である。三つの討論についてわたしなりの感想を綴ってきたが、三つ目は「国家と民俗」というテーマである。古家信平筑波大学大学院教授の問題提議に始まり、佐野賢治神奈川大学教授、伊藤純郎筑波大学教授、安井眞奈美天理大学准教授が中心となった討論が展開されている。

 国家と言うか行政による指導によってわたしたちの暮らしは大きく変化を遂げてきた。すぐに頭に思い浮かぶのは「生活改善」というものである。かつてにくらべると身の回りでこの活字が躍ることはないが、時おり目にするのは葬儀の際に返礼の印刷に必ずこの言葉が見える。すでに「生活改善」という言葉が人の口からあまり聞かれなくなった現在でも、葬儀の返礼だけには生きているのも不思議なことなのだが、それだけ葬儀に対しては多くのふだんは無関係な人も関係者として繋がっているという現実が見えるわけだ。この生活改善については現代史でも民俗学の中でも多く触れられてきた。それだけ人々の暮らしという面に影響してきたことなのだろう。古家氏は国家が影響を与えた事例として、取り上げばあさんやバリアフリーというものを上げている。例えばバリアフリーについて「そのかわりに、私たちが持っていた「奥」というものがなくなりました。ここは人が最期を迎える場であるし、それから妖怪、座敷わらしをはじめとして、口承文芸の中でも非常に重要な、民俗的な想像力がかき立てられる空間でもあった」と言うように実際の生活の技術的なものだけではなく、民俗意識的な部分にも影響を与えてきたわけである。そして「民俗の消滅あるいは残存という見方ではなく、国家の改革としての圧力というものにいかに対応しているのか。そういった経過を通して動態的に民俗を捉えていく必要があるだろう」と述べている。

 さて討論を通してわたしがあたらためて気がついたことを二つほどあげてみよう。安井氏は生活改善のことに触れて「国が改良竈を薦めたからといって、農家の女性たちはすぐに「じゃ、そうしましょう」とはならなかった。生活改善普及員の女性たちに改良竈を薦められ、そのよさを実感し、「そんなふうに変えてみたいな」と思わなければ変わらない」と示しているように生活改善の歴史が長いように、人々が簡単に国家の流れに沿ったわけではないのである。このことを現在で見てみると、国の方向にかなりのスピードで順応するようになってきている。このごろの不景気も手伝ってそのスピードが鈍化したこともあるが、しばらく前の新しいものに追従していく国民性は、国の統制もし易かったといえるだろう。ようはさまざまな技術の外部化によって、頼るのは自分の知識よりも専門的な情報というように変化したと言える。また同じく安井氏は「土間は不衛生なので水道を設置した台所に変えようとなる。しかし、農家の女性たちにとっては、農作業から帰ってきて土足のまま炊事の準備ができる土間は大変便利なわけです。ですから、土間は残したまま、部分的に台所を改善していく」と述べており、単純に受け入れるのではなく応用がそこにはあったと言える。その応用がなぜ起きたかと捉えると、国の施策に対して例えば普及員のような人が介在していたことが上げられるだろう。今は国の施策は営利目的の民間が直接的に担うようになった。葬儀にしても葬儀屋が介在すると同時に、多くの人々が葬儀屋に頼るようになればスピード化はもちろんのこと、応用力が減少していくのは想像にたやすいのである。

 国家の施策を末端で動かしている行政のあり方も指摘している。佐野氏は「地域の実情に合うかどうかという判断ができる首長はじめ、地元の有志が非常に少なくなって補助金行政、補助金浸けになっていて、来ればなんでもいただく。しかし現在ではその補助金でさえ人員削減のため、申請もできず、また使いこなせない自治体が出てきている。宮本常一の場合でも、佐渡だとか、対応できる有志がいたところは地域振興策が成功しているのですが、そうでないところはうまくいきませんでした」と。そして「柳田のいう「有志」は、「青年」を指しました。若さも意味しますが、地域改良の志のある人を「青年」と言っています」と続け、「我々民俗学徒は地域のどういう人たちと一緒に組んでやっていくのかが問われます」。かつての「青年」が今の地域にとってどういう人たちに代わっているのかが糸口だと言うのだ。明らかに地方にあって有志というような人たちはいなくなっている。人のために働くという人はまったく居なくなったといっても良い。合理的で経済性を貫くとどうしてもそうならざるを得ないし、それが強いてはスピード化にもなっている。地域のあり方も問われている中で、今後そうした有志がどういう人たちに代理されていくのか、それとも不在となるのか、地域社会の将来を左右することになるのだろうか。

 さて、たまたま政権が交代したわけであるが、この本に記述されたものは、それ以前のものである。果たして今捉えると国家と民俗とはどうなんだということを改めて聞きたいところである。

 終わり

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3 コメント

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一年、ご苦労様でした。 (BLs)
2009-12-31 21:26:00
民族学という学問も今までは博物学の中の一部門のようにしか思っていませんでした。
私の好きな自然科学とか生物学とかもそのように受け止められるのかもしれませんが。
以前、trx_45さんが「生物などの分野も縦割りである」というようなことを書いておられましたが、一つのことを分析・検証する場合には、そういった分解(縦割り)が必要なのでしょうが、実際に学問というものは異分野との連携が必要なのではないでしょうか。政治や官僚構造にも同じことが言えると思います。
一番気になったことは、池谷氏の「絶滅した原因ですらあまり分かっていないということに気がつきました。」というところです。このことが民族学の中で検証できていれば、民族学はもっと重要な学問へと向上できるのではないかと思います。それにはやはり他分野との連携が必要なのでしょうね。
いろいろと今年一年私にとってtrx_45さんの日記は、とても為になりますし、日々の楽しみの一つです。本当にありがとうございました。明日からもよろしくお願いいたします。
PS:一度お会いしてお話してみたいですね(笑
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こちらこそありがとうございました (trx_45)
2009-12-31 23:08:40
Blsさんに納めのコメントをいただき感謝です。
おっしゃるとおりなのでしょう。何の世界もそうなのだと思いますが、わき目もくれずただ一点に集中している人もいて、初めて解明されるものもあります。ただ、場合によっては他分野のことに触れる、あるいは口を出すことで気がつくこともあります。もちろんわたしのように凡人に言えることであって、それこそ極めている人たちには論外かもしれませんが。

ふだんとても本を読む時間もなく、本屋でただ背表紙と、あるいは書評をどこかで見ながらまさにさまざまな分野に横断的に視点をおいているものや、また意外なごくありきたりことを深くえぐっているものを見ると「読みたい」と思いながらそのままに時をやり過ごしています。
PS.で書かれていますが、ここに書いているような豊富な人間ではないことがばれてしまいますので、ためらいますね(笑)。
返信する
「生活改善運動」いちお専門 (山間僻地)
2010-01-16 01:20:57
どーも、ヘキチです。
長々書きなぐってきたこのシリーズも、
いちおこれが最後のツッコミです。

おかげで、自分なりに「民俗学」を位置づけられました。

さて、「生活改善運動」をいちお専門とか言っている輩としては、ツッコミます。
>この生活改善については現代史でも民俗学の中でも多く触れられてきた。
★私の調査研究ではほとんど聞いたことが無いので、って言っても、「農政」と言われる領域の話で、いまあわててググッて見たら、ネット上に山のようにあって、時代は変わったなと感じています。

質問生活改善に関するお勧めの面白い文献はありますか?

>ようはさまざまな技術の外部化によって、頼るのは自分の知識よりも専門的な情報というように変化したと言える。
★これが大変大きな問題だと考える。
結局、合理化を追い求め、「自分の頭で考える」をせづ、「自分でやって失敗する」と言う経験がないからでしょう。

>明らかに地方にあって有志というような人たちはいなくなっている。人のために働くという人はまったく居なくなったといっても良い。
合理的で経済性を貫くとどうしてもそうならざるを得ないし、それが強いてはスピード化にもなっている。地域のあり方も問われている中で、今後そうした有志がどういう人たちに代理されていくのか、それとも不在となるのか、
★ほぼ全面的に同意します。で、不在と言う状況で、どうするのよ?
★だから、私はこの状況を変えるという意味で、農家への国家からのダイレクトの直接所得保障を支持します。
混乱は変化への第一歩です。

ではでは
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