Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

駅という境界

2008-02-22 22:37:07 | 歴史から学ぶ
 わたしの利用している駅の駅舎にある財産登録票を見ると、「T9.12」とある。この駅が開設されたのは大正11年のことだから、まだ開設される前から数えること、88年経過している建物である。当時のまま現在も姿を残す駅舎は、長い間地域の人々と共に存在してきたわけである。『多摩のあゆみ』129号において、「変わりゆく駅風景」という特集を組んでいる。東京郊外の駅周辺の変化を捉えているわけである。青梅線拝島駅の歴史が語られているなかで、初代の駅舎が開設されたのは明治27年という。そして二代目の駅舎になったのが大正14年というから、わたしの利用している駅舎よりもあとのことになる。拝島駅はこの春に一新して五代目になるという。周辺の環境が変化すればするほどに駅の姿も変化する。東京近郊の駅はそうした変化をしてきたわけである。

 そこへゆくと人口が減少していく、そして鉄道利用者が減少していく環境では、駅の姿は変わらない。それだけ古い駅舎がそのまま残ることになる。飯田線にはそんな古い駅がたくさんある。88年といえば人の平均寿命より長い。とすればできたときからの駅をずっと知っている人はほとんどいないだろう。当時は駅員もいて普通の駅だったのだろうが、今や無人化していて駅舎そのものもこれほど大きくなくてよい。したがってもし老朽化で建て直しという話しにでもなれば、ごく簡単な待合室程度のものになってしまうのだろう。通勤上で利用している伊那市駅までの間には、白くペンキで外装を塗られた駅舎がいくつも見受けられる。それほど古いという意識をさせない雰囲気を醸し出しているが、化粧された裏にはずいぶんとしわが見える。とくに待合室内の中は往時をしのばせるほどの黒みを帯びている。

 同誌の中で佐藤美知男氏は「昭和40年代の多摩東部の駅」の冒頭でこんなことを述べている。「駅は橋に似ていると思っている。ある世界から別の世界へ行く通過点であり、人が集って別れ、散ってゆく場所である。だから駅の建物は具象として心のよりどころにもなる」という。百年近い歴史の中で、世の中は大きく変化してきた。駅ができて以降前半は戦争という世界にたたずんだ。当時駅は出征するための入り口であった。それを最後に帰らぬことになった人もいるだろう。そして出征先から帰還すれば、それはふるさとへの入り口でもあった。そうしたドラマの入り口、境界にあったものが駅なのである。毎日こうして駅を利用していると、車の移動にくらべれば自らの住空間は狭い範囲となる。それは駅という窓口を通してよそとつながるからだ。そこへゆくと車の場合は特別な境界意識を呼び起こさなくなってしまう。せめて橋を渡って別のムラだったりすると少しは意識するだろうが、必ず同じ駅の窓口を通過するのとはだいぶ違う。そういう意味で、都会以上に境界がはっきりしている地方でありながら、そこに住む人たちは自らの暮らしの中での境界を見失っているに違いない。だからこそ境界意識の基本が行政界になってしまうわけである。
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