Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

住宅地周辺の不幸

2008-02-24 11:34:02 | 農村環境
 現代人は人とのかかわりに癒しを感じない。せいぜい寝ている赤ん坊を見つめるときと、泣かない赤ん坊をあやすときくらいかもしれない、それを感じるのは。ということで現代人は人間ではなく、動物、いわゆるペットに癒しを感じるものだ。芸能人なら犬やネコを飼うのは当たり前というくらいに癒しを人間外に求める。気持ちは十分に解るが、今や普通に暮らす人々もそういう傾向である。ストレスがたまる人間社会ということになるわけであるが、いっぽうで人間とのかかわりを忘れてしまって、なかなか相互作用ができなくなってもいる。それを現すものとして非婚とか、独居老人、今や老人だけではなく多くの独居世帯になっている。長い間のそうした関係は、自然と身につき、ほかの世界はことごとくストレスに感じるようになる。そして人事ではなく、自らもそうした流れにやり易さを覚えたりする。

 このごろ伊那市近郊の現場を歩く。わたしの現場はほとんど農村地帯にある耕作地、あるいはその周辺である。市近郊であるから耕作地帯が広がっていても、周辺には新たな住宅が点在、あるいは団地化していたりする。そんな地帯の水田の脇を歩くと、ふと犬の糞が視界に入る。「危ない」と思って踏もうとしていた地面から焦点をはずすと、その横にも違う塊が並ぶ。よその犬が排出した場所に同じように排出する犬だから、ひとつあれば二つあるのがごく普通のことである。気がついてから周辺を見回すと、けっこう犬の糞が目立つ。道端であるからこういうこともあるのだろうと視線を耕作地からはずすと、やはり近在に新規の住宅があちこちに見える。犬の散歩には糞をした際の処理を考えて道具を持ち歩くのが常識なのだが、そんな当たり前の常識が消えうせる。住宅地内なら排出された糞が目立つものの、土の上にされた糞は目立たない。混住地帯というのは、犬の散歩をする人たちにとっては好条件なのか。犬が糞をするとその量は大きさにもよるがけっこうな量となる。もちろん土に還るものだからゴミとして出すよりは土に還した方が環境負荷は少ない。狭い住宅地内で土に還すのが嫌なら、水田や畑地帯の中に捨ててしまえば簡単である。その一つの方法として「散歩をして糞をしてくる」という意識がないともかぎらない。あまり思いたくはないが、こうした耕作地周辺に住んでいる人たちのなかで、犬の散歩に出て糞をそのままにして帰る人たちは、耕作地をゴミ捨て場とでも考えているのだろうか。



 冬季間はこうした耕作地に農家も足を踏み入れないが、耕作している時期にこれほど犬の糞をされると迷惑なものである。せめて埋めて行ってくれればよいが、むき出しの状態では、こうした行為に出る不特定多数の人たちへの不信感も生まれる。今や非農家が農村地域の環境維持のために関わって欲しいという国の流れである。例えば農業用水路であれば、その管理作業に非農家も参加したら銭を出すなんていう補助制度もある。しかし、現実の農家と非農家の関係など理解していない人たちの考えに違いない。農業を知らない人たちの増加に伴い。この関係を好転させる策も見えなくなっている。そして耕作者にもストレスがたまるばかりとなる。
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