Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

通りゃんせ

2008-02-21 18:27:00 | つぶやき
 通りゃんせ 通りゃんせ
 ここはどこの 細道じゃ
 天神さまの 細道じゃ
 ちっと通して くだしゃんせ
 御用のないもの 通しゃせぬ
 この子の七つのお祝いに
 お札を納めに まいります
 行きはよいよい 帰りはこわい
 こわいながらも
 通りゃんせ 通りゃんせ

とは童謡の「通りゃんせ」である。江戸時代には「御用のないもの」という部分が「手形のないもの」だったと中日新聞2/19「童謡の風景」で触れている。そして「こわい」は「硬い」を意味するのではないかと解く。ようは行きは体が動くからよいが、帰りは疲れてしまって大変だというような意味だという。なるほどと思うが、こうした歌を解こうとすると、なかなか違和感のある部分が多い。天神様の境内がどれほど広いかわからないが、階段が何百段もあるかもしれない。それなら帰りは膝が笑ってしまって危険かもしれない。そうだきっと階段の数が多いから登りは良いが下りは大変なことになるやもしれない。お宮なら下ってお参りすることはない、上ってお参りが普通だ。例えば金比羅さんにお参りに行って、年よりはなかなか上まで上るのは大変である。帰りのことを考えて途中までであきらめるなんてうケースも珍しくはない。きっとこの歌の舞台は階段の多い天神さんなのだ。

 『ウィキペディア(Wikipedia)』では「遊廓に行った男が(行きはよいよい)遊女に梅毒などの性病をうつされた(帰りはこわい)という説もある」という。「行きはよいよい 帰りはこわい」についてどういう意味なんだ、という問いをしてまた答えているページがたくさんある。しかし、よく考えてみると、それ以外にも違和感のある言葉がある。たとえば通ろうとしているものは、「ここはどこ」と質問している。どこかへ迷い込んだのか、それともひやかしなのか。そして「天神さま」への道だと聞くと「通して」と願う。その迷いのない願いは、やはり天神さまへ向かおうとしていたが迷ってしまったのか、であるならば「ここはどこ」などとなどという質問の仕方にはならないだろう。さらに「用のないものは通さん」といっているのに、用事をしっかりとお参りだという。やはり天神さん、あるいは天神さんでなくとも趣からそこが参るべくお宮であると認識していたが、確認の意味で「どこ」と聞いたのだろうか。そんな流れの中に「行きはよいよい 帰りはこわい」となるからその言葉に違和感が生まれてしまう。基本的には地獄への通り道みたいなもので、「通らない方が良いが、通るなら責任は持ちませんよ」と言っている印象である。
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