Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

コントラスト

2008-02-26 12:16:44 | つぶやき
 どんよりした空の下、雪か雨かとそんなことを考える。空の様子では雨になりそうな気配。どんよりというからには、黒々した雲が、頭上そう遠くないところに差し掛かっている、だれにでも想像できそうな空である。家の中で聞こえはしないが、外へ出ると、常日ごろにも増して騒々しい。「ゴー、ゴー」という音が耳に障る。伊那谷を南北に走る高速道路が、山際に接近して走り、加えてその道路上の大型車が目視で確認できるような場所では、そうした道路上に巻き上がる路面とタイヤの摩擦音が反響して聞こえる。このことには以前にも触れた。かつてなら物静かな空間だったものが、車というものか登場するとともに、日夜騒音が行き交う空間へと変化した。そんな空間を、より一層強く感じる今朝であった。

 どんよりしていても、陽射しが降り注いでいるよりもなぜか視界が広がる。山々は雪を降らしているようで、霞んでいるにもかかわらず、下界の視界が意外とよい。なぜなのだと思うとともに、それは自分の視力に応じているのだろうと察知する。ようは視力が悪いと、まぶしい日差しは知らず知らず苦手になっているのだ。このごろよく思うのは、コントラストのはっきりした地面を見ると、影の部分がかつてより見にくい。あたりまえのことだと今までは思っていたが、どうもそれだけではない。例えば日の当たっている地面に窪地があって黒く影になっているとしよう。日の当たっている地面とその窪地は、まったく別世界で、窪地の中の様子はまったく闇の世界となってしまう。これは写真の世界と同じで、その暗い部分は、なかなか写しだすのは難しい。結局その暗部を見せようとすれば、フラッシュをたくこととなる。こんな操作に慣れてしまうから当たり前だと思っているのだが、まだそれほど視力が低下していなかったころには、あまり意識したことではない。ようは視力が低下し、モノを見るにも目を細めるようなしぐさになるとともに、光の加減をそうした動作でするようになっていたわけである。そしてそうしたしぐさを長い間しているうちに、体の慣れとでもいうべきか、目の慣れとでもいうべきか、自分の体と意識、そして行動という部分で「当たり前のこと」と判断するようになってしまったのではないだろうか。それとカメラを持つということもそうした意識を育ませているように思う。

 ということで、どんよりしている世界の方がわたしの視界ははっきりする。不思議なことに、音が普段になくはっきり聞こえると、視力もいつになく良いような錯覚に陥る。騒々しいという印象を持ち、駅へ向かう。狭い道を、後ろからやってくる車の音がすぐに認識できる。もちろん少し振り返ると、その車の姿もはっきりする。「今日は頭の中がすっきりしている」とそんな印象を持つのだが、本当はふだんと変わりない短い睡眠時間で疲れもたまっているはずである。コントラストのない空間にふだん見えないモノが見える。そうなのだ、明暗がはっきりしていない方が、物事が見え、また判断ができるはずなのだ。
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