Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

報われない時代

2008-02-19 12:36:39 | ひとから学ぶ
 このごろになってそんなテレビドラマを好むようになったわけではないが、家にいるとあまり重たくないドラマをいくらでも見る。昔から好きなものが水戸黄門、あるいは大岡越前なんていう時代劇の単純なものである。そしていわゆるサスペンスものの2時間ドラマというものも時間さえあれば頻繁に見る。内業をしながら見るには理解しやすいということもあってバックグラウンドには最適である。その横で妻は寝転んで転寝をしているが、寝転んで何も考ええずに見られれば、そんな幸福なことはない。そんな勧善懲悪的なドラマを見ていると、妻は「また見ている」とひやかしを入れる。

 ところがこうした単純なドラマは、年寄り向きである。若者はどう捉えているのだろう。先ごろ深夜のテレビドラマでは特別高い視聴率をとったSPが終わった。すでに次のドラマが始まって何回か経過しているが、次へ次へと期待させたドラマでは珍しくわたしも興味を持った。しかし、最終話には意味ありげなラストがあったように、本当の年寄りにはちょっと解りづらいドラマ仕立てであったに違いない。大雑把に捉えれば、前述した水戸黄門が年寄り向けのサスペンスなら、後者は若者向けのサスペンスとなる。単純なストーリーと意味ありげなストーリー、どちらも好んで見ている者として分類をしてみたわけであるが、ごく当たり前のことでもある。少しはストーリーに変化が欲しいと思うものの、おおかたのサスペンスものは、登場人物の人数がだいたい決まっているから意外と単純である。犯人が予想できる、だから単純になる。2時間ドラマの多くは、前者の水戸黄門系ドラマに入る。

 昔も意味不明なドラマはいくらでもあっただろうが、サスペンスものに限らず最終話が悲劇で終わるケースは少なかったはずだ。もちろん今もその傾向は強く、主人公が死んでしまうというドラマはそう多くはない。しかし、死んでしまったとしてもストーリー上報われていればなんら問題はない。視聴者は涙を流して「うんうん」と頷けば、一応正当な終わりである。ところが、最近のドラマなんかを見ると報われないドラマがけっこう多いとともに、意外とそんな報われない世界が受け入れられている。勧善懲悪というと悪がこらしめられて、善が勝つというものだろうが、わたしにしてみると、ただそれだけではハッピーエンドとは捉えられない。例えばSPの主人公、どう考えても主人公がハッピーエンドというスタイルではない。ようは虐げられた世界の中で力を発揮するから視聴する側は楽しいのかもしれないが、報われた境遇ではない。そんなドラマをわたしも楽しいと思うが、どこかで報われない部分は気持ちの中に残る。だからこそ楽しいのかもしれないが、それが受け入れられる時代背景には、悩み多き世界がうかがわれる。もちろん昔だってそういうドラマ仕立てはいくらでもあった。子どものころ好んで見ていた「大江戸捜査網」。「死して屍拾うものなし」という合言葉は、闇の世界を現しているが、あくまでも報われない人たちが主人公である。裏を返せば、大学の抗争が流行ったなんていう時代は、まさに報われない人たちにとっての勧善懲悪的な世界であったに違いない。しかし同じような報われないかつてのものと現代のものは違うような気がする。報われなくとも明らかに勧善懲悪が見えていたドラマと、報われないとともに勧善懲悪が予想し難いドラマの違いだろうか。だからこそ、再放送でない現代の「水戸黄門」が好きなのだ。

 PS 本当はTBSで放映される月8シリーズでは、「大岡越前」が「水戸黄門」以上に好きなのだが、シリーズに最近は登場しない。なぜ大岡越前が良いかというと、水戸黄門より穏やかな仕立てだからだ。時代がそれは求めないのだろうか。
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