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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

日本の農業と多面的機能

2008-02-04 20:12:38 | 民俗学
 このごろ知人の息子さんの卒論を拝見した。「日本の農業と多面的機能」というものだが、農学の卒論ではない。経済学からみた日本農業ということになる。多面的機能を前面に出して農業はただの産業ではないということを旗印としている現在の農政。そんな多面的機能の捉えかたを世界の視点で概観するとともに、多面的機能を維持発揮させるための日本の政策とそれに添った取り組みを捉え、まとめとしている。そんななかで、日本とヨーロッパでの多面的機能の違いを示している。日本においては多面的機能のうち、洪水防止機能が大きな役割と捉えられている。いっぽうヨーロッパでは大気浄化機能や生物多様性保持機能を重要視しているという。この違いは、日本が稲作農業が中心であったことによるところが大きい。水田には畦畔というものがある。農業を知らない人はそんなものがあると意識しているかどうか知らないが、おそらく大方の国民は畦畔というものも知らないものとなっているだろう。それほど農業を、稲作をしている人が減少してきている。それはともかくとして、この畦畔があることにより、水田は降雨を貯めることができるわけである。水の張っていない水田なら、300坪あれば約200トンから300トンほど水を貯めることができる。まさに洪水調整機能である。日雨量で大きい(高さのある)畦畔なら300ミリを吸収することができる。例えば、耕作している水田だとしても100ミリ程度のところに降雨があれば200ミリ近い雨量は流出することなく水田内で吸収可能なわけである。現実的には、転作割合が40パーセントほどあれば、60パーセント程度しか水田での機能は保持できないだろうが、転作していても排水口が止められていれば流出することはないし、乾燥しているだけ吸収力も大きくなる。したがって、地目「田」である以上は1㎡あたり200ミリ程度は必ず吸収してくれると計算してもよいだろう(現実的なダム機能について正確なデータはあるだろうがここでは簡単なイメージで捉えるものとする)。300坪で約200トンなら、1ヘクタール当たり2000トン、10ヘクタールなら2万トンという水が貯められることになる。おそらく稲作が中心であった時代なら、養い水の量に変化はあっただろうが、その吸収力はかなりのものだったはずである。それだけ管理もされていたからである。ところが、耕作地の管理が滞るとそうはいかない。もちろん耕作地の減少ということもある。200トンもの水を吸収していた土地が、いきなり降った雨を直接的に排水してしまう施設に変化したりする。いかに戦後から数十年の間に比較すれば環境が変化しているかということになる。

 そんな洪水調整機能ではあるが、そうした機能を持つ土地を減少させてきたことに対しての規制は甘い。いかに多面的機能を洪水調整機能と言い換えたとしても、施策との矛盾は明らかだろう。だからこそ限定的な機能ではなく「多面」という曖昧な言い回しが好まれるわけである。多様な意図があるとした方が、聞こえがよいといえばその通りである。ヨーロッパとは明らかに異なる日本らしい農業施策を進めることになるのだろうが、卒論において「景観の維持のためには一定の人口とコミュニティーが維持され農業活動が行われることが大切である。しかしながら、農業が過度に集約化されると、過放牧による草地の減少や生垣や林の伐採などで既存の景観が悪化するような事態が起こるのである。このようなことは生物多様性にも当てはまることはいうまでもない。そのためEU諸国が重視する多面的機能を適切に発揮させるためには、単に慣行的な農業を維持すればよいということではなく農業の集約度を適切にコントロールする必要がある。こうした前提に立てば、その効果が一律に及ぶ関税や価格支持が、多面的機能の適切な発揮の上で、最適な政策手段となりえないのは明らかである。」と述べていて、明らかにその違いがうかがえる。まとめにおいて「日本が高度に経済発展を遂げた稲作農業国という世界にあまり例をみない国であることから、多面的機能の発現形態やその認識のされ方が世界の他の地域では見られない特徴を持っていることがWTO交渉とその背景の分析で分かった」と述べる。いかに日本は特徴ある農業国かということが理解できる。

 さて、知人は息子さんがとりあげた多面的機能の発揮という面での国の施策「中山間地域等直接支払制度」に触れて、「ムラとしての農家を解体してついに個々の農家を国家が掌握することとなった」という。例えば「ヤマが他所より寒いとすれば、自分の所の田植えが遅い分だけ暖かい所で早乙女をして稼いだことや、飼料とする草がないために牛馬を飼うことができないサトではヤマから家畜を借りてきた」といい、互いにないもの、あるいは欠点とか利点をムラというひとつのかたまりとして相互補完してきたのが、従来の農業だったというのである。ところがそうした農業は消え、個々の農家ごとに国の施策に対応するようになって、ムラという集団的な補完作業はなくなってしまった。ようはムラとは言うものの分断した個々を相手の農業に変化してきた。「人々はむきだしの個として国と向き合うことになった」と知人自らの論文にまとめている。その最たる施策を直接支払いであると明言したが、わたしの意見は少し異なった。

 続く
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