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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

消えた村をもう一度⑰

2007-02-07 08:12:57 | 歴史から学ぶ
 牟礼村は、長野市の北隣にあった村で、北信五岳のひとつ飯綱山の東麓に広がる北東に傾斜して展開する地域である。長野市から見ると、北側の尾根向こうという感じで、背後にある村という印象である。鳥居川をはさんで北側に位置する三水村とは密接な関係にあって、中学は組合立の飯綱中学がある。飯綱山の麓にある飯綱高原を観光の中心として位置付けてきた。昭和59年に送っていただいたパンフレットの表紙を飾るのは、その麓にある霊仙寺湖であり、遠望するのは北信五岳の黒姫山や妙高山である。B5版×4を折り込んだもので、8ページある。表紙を開くと丹霞郷(たんかきょう)の写真が広がり、次いで春夏秋冬の歳時記が綴られている。この当時は霊仙寺湖畔に温泉施設はなかったが、後に天狗の館と言われる温泉施設が開業された。

 パンフレットでも紹介されている丹霞郷は、長野市境にある平出地区にある。昭和8年にこの地を訪れた日本画家の岡田三郎助が、「丹い(あかい)霞がたなびくようだ」と、その景色を絶賛したことから「丹霞郷」と名がついたという。そのあかい花とは桃の花のことをいう。例年、5月の連休ころから花が咲き始めるようだが、平出で仕事にかかわっている同僚に、丹霞郷のことを訪ねると、リンゴのイメージしかない。当時のパンフレットには桃の花2万本とあるが、現在の飯綱町観光協会のページから調べると、平出の桃は10ヘクタールに1700本とある。2万と1700ではその数がだいぶ異なる。しだいに桃からリンゴに転換してきたのだろうか、わたしにもリンゴのイメージが強い。

 中学に限らず農協なども「飯綱」という一体的な地域名を使ってきたこの牟礼村と三水村は、2005年10月1日に飯綱町となった。7600人余の村は、合併して13000人余の町となった。もともとそうした一体感があったからすんなり合併したかというと、そうでもない。牟礼村の合併に向けた足跡をのぞいてみると、2004/7/25における合併の是非を問う住民投票の結果は次のようであった。

    「三水村と合併」 2208票
    「自立」       1480票
    「長野市と合併」 827票 投票率は71.35%

 その後、2005/3/11における村議会では、村から提案された三水村との合併の是非を問う住民投票条例案に対して、賛成7、反対7の賛否同数となり、議長裁決で否決とされた。住民投票と議会のねじれ現象で揺れ、一時は合併は無理かと思えたが結果的には合併にこぎつけた。住民投票の結果にもあるように、長野市とも隣接していて、そう遠い地域ではない。いずれ長野市へ・・・という流れもあるのだろう。ちなみに、合併相手の三水村の北端にはやはり北信五岳のひとつ斑尾山がそびえる。二つの山の相向かいの傾斜地の村がひとつになったわけだ。

 写真は、飯縄山の麓の高坂という集落の戸隠道の入り口に立つ馬頭観音である。碑の高さは70センチ近くあるものの、像そのものはとてもコンパクトなもので、風化していて表情までは把握できない。稚拙といえば稚拙であるが、風貌はどうみても鉄腕アトムといったところだ。かろうじて「昭和廿四年」と読める。牟礼村には馬頭観音が多いが、わたしの住む伊那谷のものとは表情が異なる。加えて、像を象ったものが多い。



 消えた村をもう一度⑯

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