Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

絶望する子どもたち

2005-10-27 08:21:13 | ひとから学ぶ
 「以前なら、全ての生徒について進学なり就職先なりを定め、目標に向かって努力しようということができた。ところが、最近は自分の将来について中3にして投げてしまっている生徒がいる。」というブログ「絶望する子どもたち」を読んで、つくづくどうにもならないこの世の中を垣間見たが、絶望している子どもたちも個々皆違うんだろうと思う。その言葉だけですべての絶望している子どもたちをくくってしまってはならないし、まわりもそうした見方をしてはいけないのだろう。考えてみれば、わたしの中学時代は、まさしく「絶望」の中にあったかもしれない。まず人間不信に陥っていた。多感な時期だけに、自分の意見がなかなか通らなくなると、投げやりになる。けっこう投げやりになる性格であった。けして勉強すればできない、というとんでもない馬鹿ではなかったが、その勉強をやらなければならない、という意味を理解できなかった。「将来などどうにでもなるさ」程度に捉えていて、何になりたいとか、何をしたい、というような希望はなかった。まさしく「やけくそ」な日々であった。先日、中学の生活記録が一冊だけ保存してあって開いてみた。そこは最初から最後までほとんど白紙である。そこに担任の赤い字が躍っている。「○○、返事をしろ」とか「○○」とただわたしの名前を呼ぶ先生の言葉があった。考えてみればとんでもない生徒であった。しかし、別に先生が嫌いであったわけでもないし、何を考えていたのか、開きながら思い出しだが、思い出せない。それが中学3年の時の生活記録なのである。人間不信から少し回復傾向になった要因は、まず自分の好きなことだけをした。まずもってやたらに詩を書いた。ほとんど社会批判的なものであったが、しだいに田舎の暮らしとか、風景を扱うようになり、今で言う「環境」への興味というか、保全意識は強かった。しかし、いずれにせよ勉強ということに嫌気がさしていて、とても進路をまじめに考えるという心理状態になかった。「あわてることはない」と自分の中で思えれば、もう少し間近に迫った進学という質問の回答にあせることはなかったかもしれない。
 また、人間不信からの回復初期には、今でははやらないことだが、文通というのを盛んにやった。「ひとり旅」でも紹介した京都の石仏の知人は、そのころの文通仲間であったし、当時からのつきあいは今でもけっこう続いている。そんなさまざまな人たちの言葉をもらいながら、大人社会の矛盾は矛盾として、良い面も捉えなくてはいけないと思うようになった。しかし、少し遅いというか、あわてなければ、期間をおいて進路を見直せばよかっただろうが、すぐそこに迫った進路をかなり投げやりで選択したことを今でもよく覚えている。なにより「人とは違うところに行けば(進学)よい」というのが選択理由であった。今では珍しくないかもしれないが、当時としては、大人の言うことはきかないし、好き勝手だし、それでいて、不良とは違った。意外にも現代でも子どもとしてやっていけそうな、先進的な人間だったのかもしれない。まさしく進路に対しては、絶望的な捉え方をしていたことは事実である。

 そして今、わたしの会社で働く人々の顔を見ると、やはり望みを絶たれてしまった様子が伺われる。絶対的に将来の展開はないし、いずれ不要となって閉鎖せざるを得ない業務を扱っている。「今をなんとか」と思えるだけ、絶望に打ちひしがれる子どもたちよりはましなのかもしれない。しかし、大人がそんな世界にいて、子どもたちに何を望めといえるだろう。そしてもっと厄介なのは、絶望している子どもたちの親が、子どもたちに何も示せないほど何も考えていないケースがほとんどである。わたしとしては、「好きにすればよい」としか言えないだろう。いずれ10年後は、あるいは20年後は明るい未来があるなどと、今の状況からいえるわけがない。ただ、大人の絶望を子どもたちに与えてはならないし、子どもたちが自ら決断していくしかないわけで、大人の悪い世界をどんどん教えてやればよい、とは、わたしの経験からである。
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