Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

色あせた食べ物

2005-10-12 08:14:44 | ひとから学ぶ
 こんな文を読んだ。
 「わたしたちの子どものころは、食べ物もなかったから、何でも食べるものがあれば幸せだった。だから食べ物を粗末にしてはならない。おいしくないから食べないとか、もっとうまいものを食べたいなんて贅沢なことを言うとバチが当る、などとお説教しても、現代の子どもたちや孫たちには通用しない」
 「バチが当たる」という言葉を最近聞かない。「何が当たるって」、と聞きなおされてしまう。外食があたりまえの時代である。ひどい場合は、学校へ弁当持参の際に、コンビニの弁当を持たせるということもあるという。無理もないといえば無理もない。息子の中学に新任できた先生が、常にコンビに弁当で、半年も立つのにご飯を炊いたことがないなんてことが、少しも珍しくないのだから。家族の団らんパターンが、昔なら家族みんなで家庭で食事をする時間だったのだろうが、今では休日に外食に出て、好きなものを食べる時間になってきている。それがパターン化して、毎週のようにそうした団らんを過ごす家庭も少なくない。母親が夕食を作る、いや、母親と限定すると問題の多い現代なら、父親でもよい、子どもでもよい。いずれにしても家庭で食事をするということがどれほど価値観が下がっているか、知らない間にずいぶん家庭内は変化している。多くは、家庭に年寄りが不在であるからだ。同じ家にいても、年寄りが同じテーブルにいない。とすれば、価値観が変化しても当然であるし、食事は家で作るものというあたりまえの繰り返しが、まったくあたりまえではなくなってしまっている。外食産業のこれほどまでの成長は、まさしく家庭の変化を後押ししているし、家族の家庭での役割がなくなり、家は個人の好き勝手な空間と化してしまっている。いやそんなことはない、と言われる人もいるだろうが、日々そうした家庭になりつつある。もっとわたしたちが、いや、もっと高齢の人たちがそういうことを嫌がらず、説いていってほしい。
 ところで、時折息子が弁当を持っていくときがあるが、「うちの弁当は緑だ、もっと色が欲しい」という。弁当のおかずの色が人と違うというのである。他の人は何が入っているのかと聞くと、茶色い色が入っているという。ハンバーグとか肉とか、そういう類のもののようである。そこへ行くと、家で採れた野菜がたくさん入っているから、まさしく緑色なのである。「玉子だって入っているからいいじゃないの」と母が言っても、納得しない。そうはいっても人の弁当だって冷凍ものの肉類の加工品が、解凍して入れてあるのはだいたい予想がつく。「それよりずっと新鮮だし、自家産の玉子なんだぞ」と何度言ってもダメである。
 食卓というのは、確かに物のない時代には派手ではなかった。そして色も地味であったし、今にくらべれば美味しさは優先ではなかった。前文のように、食べられることが第一だったわけである。今の家庭の食卓は、自家製作のものがまず少ない。加えて、自家製としても、手がそれほど加わっていない。自家の材料ではないから、種を蒔いて育てて、そして食卓に、という長い時間がそこにはないのである。息子がまだ小さかったころ、友達が家に来ても喜ばないのである。なぜかというと、おやつが気に入らないのである。たとえばサツマイモで焼き芋にしてあげても納得しない。スナック菓子などに慣れきっているから、そんなものは望まないのである。生まれたときから、購入品が並べられた食卓を目の当たりにしているのだから、当たり前であるが、田舎の、それも家が農家であってもそれが一般的になってしまった。地産地消なんていうが、まず、自家産自家消費という姿を農家が取り戻してほしいものである。
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