今年の漢字は「死」だ。お義母さんと父を亡くし、ふたつの死体を見た。また、死体こそ見なかったが、ボランティアに出かけた被災地のがれきに供えられた花に、おびただしい死を見た。ものすごい数の「死」が、今年あちこちであった。日本でも、海外でも。
といって、死を忌み嫌ってばかりいるのではない。この一年、死を身近に感じて、いよいよ、死が実は「生」と一対であるという風に確信している。ペットの動物や金魚のように、人間とて例外ではない。思うよりも実はあっけなく、死はそこにある。そこら辺にある。そこらへんに転がっている。
死をいくら忌み嫌っても、それを逃れることはできない。だれでも死ぬ。死なない人間はいない。今年、くしくも夏に姪が生まれたが、生まれることも死ぬことも実は表裏一体なのではないか。適当に生まれて、寿命が来たら、死ぬ。ごく当たり前の自然現象なのである。健全な死生観というものがあるとしたら、そういうことなのだろう。
とりあえず、生きているうちが華という見方もできる。父が死んだのが77歳。伯父も伯母も77歳で死んだ。叔父は末期のがんで62歳で死んだ。祖父は69歳で死んだ。いずれにしても家系的に長命ではない。いま47歳だから、せいぜい30年くらいか。最後の数年は使い物にならない可能性が高いから、25年。そのうち活動しているのは15年くらい?もうあっというまである。せいぜいしっかり働いて、せいぜい遊ばせていただくことにする。
親逝きて、いよいよ己の未熟知る