味の素スタジアムで東京対札幌戦を観戦。
ぐったり疲れた。GWは計画通り進行している。
日本テレビに限ったことではないが、ニュースの報道も変だ。たとえば、サッカーで仙台のクラブが勝ちました、という「ニュース」が流される。サッカーの試合は同じ日に6試合も7試合もあるのに、仙台のチームが勝った試合だけ取り上げられる。内容は、主人公の仙台が悪役のクラブに勝ちました、というだけである。ニュースの最後には仙台のファンの観客が泣くシーンで終わる。リーグの順位がどうなったか、だれが得点したか。いっさい何も伝えられない。
要するに「被災者に勇気を与えた。感動的だろ。さあ、泣け」といわんばかりである。不愉快極まりない。ニュースはニュースであるべきだと思う。客観的な事象を報道すればよくて、それをどう思うのか、何の結論を出すのかは視聴する人間の勝手である。放っておいてほしい。実際、負けたチームの大勢のファンは、別のことを思うはずである。
思考までコントロールしたがっているようだが、そんなことをする資格も権利もテレビ局にはない。地震関連でいえば、繰り返し、繰り返し、同じことを刷り込もうとする。「被災者に勇気を与えた」、「政府はまちがっている」。もういい。結論や感想は見ている側で出す話である。そこまで導いてくれなくてよいのだ。つまるところ、見ている側をバカにしているという点で、昨日のロイヤルウェディングの中継とまったく同じである。視聴者は知能水準が低いから、何もかも面倒見てやろうと思っているのだろう。大きなお世話である。
こういうテレビ局の姿勢を真に受ける人間もいる。なすがままに思考回路を支配される人もいる。自分で物事を考える習慣のない人たちである。高校野球のときは、東北高校の対戦相手の学校に「負けろ」という電話が殺到したらしい。ネットでは、ふだんサッカー見ないのに「サッカーの仙台の勝利に感動した」という、テレビ局の思惑通りの感想が立ち並ぶ。東京電力の社宅に「正義感」にかられてゴミを投げ込む人も続出する。つまり、ある程度は、テレビ局の思い通りに、マスの思考をコントロールできているということである。これは、ものすごく恐ろしいことである。1944年ごろの新聞の報道を思い出してほしいといったら極端すぎるだろうか。
ロイヤルウェディングをまちがって、日テレで見てしまった。途中から、BSでもやっていることに気がついてチャンネルを換えたが、時すでに遅しであった。日テレの中継、めちゃめちゃだった。嵐の桜井君と宮本元アナが東京のスタジオにいて、井田由美アナが現地にいるのだが、やたらとダイアナ妃などの大昔の映像が入る。
現地にいる井田由美が途中でつぶやくのだが、同時通訳をしているわけでもなく、新婦が着ているドレスの話したり、中途半端に「・・・のような話をしています」とか、要するに井田由美の存在意義がまったく不明。いなくていいのだ。圧巻は司教がスピーチを始めた途端、東京のスタジオにかわって、ふたりのなれ初めを編集したつぎはぎだらけの映像が流れ始めて途方に暮れてしまった。
結局、日本テレビは、見ている視聴者は何を見たいのか全くわかっていない。個人的には、めったにないロイヤルウェディングと、そこでしか味わえない英国的な雰囲気を体感したい。そういう意味では、途中からBSで副音声で英語放送を聴いているのが一番よかった。日本テレビの意図するところは、「見ている視聴者は知能水準の低い連中ばかりだから、こいつらには一から十まで解説つけて、ついでに、ジャニーズでも出せば大喜びするだろう。ダイアナ妃は中年に人気があるからそれもブレンドしておこう」くらいにしか思っていないのだろう。
だけど、実際そういう人もいるのだろうが、大半がそういう人ばかりとは思えない。仮に、そういう人が多くても、せっかくの生中継の時間に、そういう放送をする必要はないであろう。正しくは、恣意的な味付は不要であって、できるだけ、あるがままを流すべきであろう。何だか馬鹿扱いされて無性に腹が立つ。テレビ放送、とくに民放への不満は地震以来ピークに高まっている。テレビ局の人間は早慶出身者が多いらしいが、あんたらが思うほどにテレビ見ている日本人の知的水準は低くない。
折り返し地点を少し過ぎたあたりか。連休中に読んでしまいたい。
連休の予定。遠出したかったが、娘たちは土曜日も学校があったり、緑の日があったりでどこにも行けない。
29日 ランニング
30日 授業参観、味スタ
1日 散髪
2日 ランニング
3日 家族でホテル宿泊
4日 味スタ
5日 娘の球技大会
6日 健康診断(出勤)
7日 ランニング
8日 味スタ
要するに大した用事はない。ひとりでスーパー銭湯でも行くか。
久々に東北に出張した。行き先は秋田。秋田、青森しか今は行けない。
で、朝4時に起きて、羽田発、大館能代空港行きを利用したんだが、たまげた。
ボンバルディアの次に小さい飛行機で、バスで飛行機の下まで行って、タラップで搭乗するんだ。
飛行機好きにはたまりまへんわ。一番右の写真はタラップを登りきったところで撮った写真。
これで、屋根がなかったら、マッカーサ-だ。
ちなみに、角館を思い浮かべて行った大館だが、桜はつぼみ状態。まだ開花していなかった。冬が寒すぎたのだと。米代川沿いにはフキノトウが腐るほど植わっていた。
何で集団登校するのか。意味が分からない。うちの近所の小学校も集団登校している。10人くらいぞろぞろ大人が引率して小学校まで行くのだが、何の意味があるんだろうか。
鹿沼の事故。本当に悲惨である。かわいい盛りのお子さんをなくした親御さんの気持ちは察するに余りある。運転手はてんかん持ちだったとかで、個人的にはあまり責める気になれない。友人に同じ病気の人がいて、メディアで報道されるほど単純なものではないらしい。
もし、仮に、集団登校でなかったら。そう思ってしまうのだ。もしかしたら、ひとりかふたり、不幸にして亡くなっていたかもしれない。しかし、集団登校でなかったら、6人も亡くなっていないだろう。それは間違いがない。無意味に、集団登校のせいで、死ななくてもよかった複数の命が失われているのだ。
川口のときにも、同じような問題提起があったはずなのに、かたくなに集団登校が励行される理由は何なのだろうか。誘拐事件に巻き込まれないため?日本では、最近、長いこと小学生の誘拐事件は聞いたことがない。
0-3の大敗。何やってんだか。
お祭り的な雰囲気は好きだけど、勝ってといわないまでも、いい試合してこそだもんね。
今日はわざわざ千葉まで行って、時間の浪費だったと思う。
HFIPを必死こいて読んでいる。Dale Carnegie の、あの本である。
いろいろ反省することが最近多くて、つみほろぼしに読んでいる。昼休みも、近所のカフェでみっちり読んでいる。たまたま、そのカフェで、会社のアメリカ人のAくんに見られてしまった。
彼は、この本を何十回も読んでいるそうで、大ファンなんだと。別の作者の啓発本も推薦されてしまった。
いちど、この本についてディスカッションしましょ、なんて言われて、後に引けなくなって読み込んでいる。いい機会だからAくんとお友達になって、ついでに英語教えてもらうつもり。
4月から、上の娘は後楽園、下の娘は中野坂上まで電車通学している。下の娘は電車もあまりひとりで乗った経験がなかったから心配していたが、細身に重い荷物を負って、毎日喜々として学校に通っている。
恥ずかしい話だが、ワシは電車通学の経験がない。高校まで徒歩と自転車だったし、大学はバイクで通った。
電車通学のよいところは、電車の中でかなり勉強ができることである。電車の中ほど勉強に適したところはない。就職してから電車の中でかなりの量の本を読んだが、読書にも最適だ。
もうひとつの憧れは通学沿線の男女交際であろう。ワシには決してなかった青春。娘たちに訪れますように。
ラジオはオールドメディアでもなんでもない。常にレギュラーなメディアである。震災で見直されたなんていう意見もあるが、元々、もっと取り上げられていい。
ネットもテレビも携帯電話も停電になれば何の手助けにもならない。災害時には新聞も読めない。最後に役に立つのは電池で長時間聴けるラジオである。
バカ騒ぎ番組しかやらないテレビが地デジ化するからって命に関わるような大騒ぎだが、テレビなんてライフラインでもなんでもない。ラジオがあれば十分である。
ラジオはテレビと違って、長時間聴いても疲れない。テレビは見れば見るほどバカになるが、想像力を要するラジオは聴けば聴くほど賢くなる。これは本当の話である。