日本の心

激動する時代に日本人はいかに対処したのか振りかえる。

大川周明 『日本文明の意義及び価値』

2022-03-19 20:57:22 | 大川周明


    日本文明の意義及び価値

                           大川周明

 

 吾等は屡々欧米人のために非難のを以て好戦国民と呼ばれて居る。
 されど吾等は主として嫉妬と恐怖の感情を根拠とせる
かかる非難に対して秋毫も顧慮する必要を認めぬ。

 マハン提督が既にいみじくも言へる如く、
国民は必ずしも常に貪欲のためにのみ戦ふものでない。

 そは国民的向上のためにも戦ひ、
国民的威厳のためにも戦ひ、
不義に対する憤怒のためにも戦ひ、
圧制するものに対する憎悪のためにも戦ひ、
圧制せらるるものに対する同情のためにも戦ふ。

 若し真に吾等を難ずるに好戦国民を以てする者ありとすれば、
そは未だ吾等が何のために戦へるかを知らめ人でなければならぬ。

 光栄ある三千年の歴史は吾等が国民としての戦ひは、
常に崇高なる意味に於いての戦ひなりしを最も力強く物語って居る。

 天孫瓊々柞尊が往きて治めよとの神勅を泰じ、
八重に棚引く材雲を押し分け天の浮橋うち渡りて、
此の豊葦原の瑞穂国に降臨し給ひ、
従ひまつれる神々と共に浦安の国の基を定め給ひし時より、
既に吾等は善き戦ひに勇み立つ国民であった。

 かりそめにも吾等の国民的品位を傷つけ、
若くは吾等の国民権利を蹂躙せんとするものあれば、
吾等の憤りは心の奥より発し、
愛国の血潮を総身に波打たせつ、
君国のために剣戟の鞘を仏はざるを得なかった。

 厖大なる漢帝国を目前に控え乍ら、
勇気なる神功皇后をして玄海の怒涛を渡らしめたのも之か為であった。

 呼ぶに『日没する国の天子』てふ称号を以てし、
強大を極めし隋の煬帝を驚かしたのも之が為であった。

 ウラルを超えてモスクワまでも攻入らんとせる
勝利と征服との絶頂に立てるフビライの暴慢なる威嚇を
手ひどく斥けたのも之が為であった。

 近くは清国と争ひ露国と戦ったのも亦実に之が為であった。

 独り過去に於いて斯くありしのみならず、将来に於ても正に斯くあらねばならぬ。

 国民としての権威と品位とを傷けられても、
尚はこれを忍べと命するやうな平和の神は吾等に取りて最も無用の存在である。
羲しくして強かれ。

 吾らの神は唯だこの短き一句を信仰個条として与へ給ふ生命と力との神である。
吾等の膝は断して不義の前に屈す可き膝でない。

 吾等の額は断じて届辱の烙印を甘受す可きでない。 
吾等の完全なる政治的独立が、天地と共に無窮なる可きことは、
既に建国の当初に於て天照大神によりて保証せられたる断乎たる事実で、
三千年の歴史が明白に裏書する所である。

 三千年の未来は三千年の未来を語る。

 吾等は全世界の国民に向ひ、殊には太平洋の彼岸の国民に向ひ、
最も声高らかに此の事の第一事実を語り聞かせねばならぬ。

 去り乍ら吾等の最も神聖なる誇りは、独り政治的生活に於いてのみならす、
思想、道徳、宗教、乃至芸術の如き精神的方面に於ても、
今だ曾て外来の勢力のために毫末だも自己の面目を傷つけられざりし一事である。

 吾等の歴史の初めより、
一切の亜細亜の文明は、逆捲く怒涛の勢を以て不断に吾等に押寄せて居た。

 併し乍ら巨巌の如き吾等の国民的自尊と有機的統一とは、
其等の澎湃たる思想の只中に立ちて、毅然として自己の独立を守る事を得せしめた。

 国民的精神は如何なる場合にてもまして新来の文明の奴隷となる事がなかった。
かく言へばとて吾等ら国民的態度を、かの支那人が濫りに他国の文明を蔑視し、
自ら其の固陋に甘んするが如き又笑うべき衿高と同視してはならぬ。

 他邦の人文に対して恰も素人が越人の肥瘠を見るが如く無感覚なる支那人とは痛く事変りて、
吾等は亜細亜大陸に咲香へる花を見るたびに、
常に新たなる感激に胸を躍らせて来た。

 最初に三韓文明と接したも時も、
次に支那の儒教文明と接した時も、
後に印度の仏教文明に接した時も、
吾等は他国民の追随を許さぬ敏感と、
驚嘆すべき自由なる批判的精神とを以て、
仔細に之を観察し、熱心に之を研究した。

 而して其の厳粛なる努力は、此等の文明を遺憾なく会得して、
之を国民的生命の内容として摂取し終るまで続けられた。

 盲目たる崇拝は吾等の敢てせぬ処であった。
それと同時に偏狭なる排斥も敢てせぬ処であった。

 数ある例証のうち吾等は其の一つとして大化革新当時の事情を下に述べよう。

 推古帝此かた隋唐の文明は江河を決する勢を以て吾国を風靡し、
天智天の御世に至りては制度文物の模範を悉く支那に取り、
さながら日本は小支那の如き有様となった。

 而してこの大文明の最も熱心なる歓迎者は、言ふまでもなく天智帝であった。
 大化三年に煥発せられたる庚午の詔を拝読する人は、
帝の御志が堯舜魯湯の冶跡を此国に実現し給ふに在ったことを直ちに知り得るであらう。
 
 夫にも拘わらず此の英明なる皇帝は、
吾国を以て決して支那の精神的属国たらしめ給ふ事がなかった。

 帝の御こころのうちには、大なる建国の精神が昔ながらの力強さを以て流れて居た。
 而して此の精神は帝をして百済に対する唐帝国の理由なき圧制に冷静なるを得ざらしめた。 

 帝は赫として茲に憤りを発し、
百済の請を容れて援兵を遺はし給ひ、
刀折れ矢尽くるまで唐軍と戦はしめた。

戦争は不幸にして吾軍の敗北に終った。
併し乍ら此の一戦は傲慢なる唐帝国をして嘆賞と恐怖とを禁ぜざらしめた。
かくて戦ひに於ては勝利を得たにも拘わらず、
却って彼より使者を派して和を吾国に請はしめた。

 誰か祖国の歴史を読んで此処に至る毎に、わが国民的積神の荘厳凛列して、
英雄的神経の琴線を鳴らさぬものあらうか。
此の精神は吾等をして他国の文明の摸倣者たらしめる事より救った。

 つぎつぎに人来れる文化の花が如何に美しく咲揃って居たにもせよ、
吾等の目は其美に幻惑される事がなかった。

 如何なる場合に於いて、
吾等の自由なる創作の精神が模傚のために幻惑される事がなかった。

 若し冷刻なる解剖の刀を加へて国の文明を分析する時は、一も特別に新しき要素が見当らぬ。
こは人々をして吾等の文明は何等の独創もなき
単に異邦の諸文明を取捨選択したものに過ぎぬと思はしめ易い。

 日本人は唯だ摸倣と折衷とにのみ巧みで独創の力を欠くなんと云ふ議論も此点に根差して居る。

 されどこは由々しき誤解である。
人類の精神的歴史は決して異種の思想や文明の器械的離合によりて消長するものでない。
石と材木と瓦とを寄集めただけでは千年を経ても家が出来上ぬ。
歴史の原動力は実に国民の創造力其のものである。

 既存の要素は活きたる国民情神に摂取をられて新しき全体となり、
此の新しき全体に於て於いて存せざりし
新しき生命と新しき意義とを得来るのである。

こは独り国民に於てのみならず、個人に於ても同様なる事実である。
誰か仏陀の宗教を全く新しき信仰より成ると断言し得やう。
誰かれ孔子の教を全く新しき道より成ると断言し得やう。

しかも古き娑羅門の哲学や信仰は、仏陀の人格に統一せられて新しさ生命を与へられた。

 孔子自身は述べて作らずと宣言して居るにも拘わらず、
昔ながらの支那思想は彼の人格を通過する際に全く新しき旨趣を発揮されて居た。 

 人格の創造力、これこそは世界史の開拓者である。
若し此の秘鑰を手に入れなければ、世界史の秘密蔵は永遠に吾等の前に閉ざされねばならぬ。
さらば吾等をして再び大化改新の歴史を回顧せしめよ。

 何となればこの革新は、吾国の史家によりて常に唐制模傚と呼ばれて居るにも拘はらず、
事実に於て吾等の偉大なる創造力を最もよく発揮して居るからである。

 

 大化の改新が其の模範を隋唐政治に採った事は固より吾等に於いて異存のあるべき筈でない。

 然れども少しく詳細に彼我の事情を考察する人には、
それが決して単純なる唐の摸倣でなかった事は直ちに明白になるであらう。 

 漢代このかた歴史的発達のまにまに、放任されて来た支那の政治組織は、
隋唐の世に至りて次第に附随されて来た一時的要素の纏綿のために、甚だしき矛盾あり、
緊縟なる重複ありて、
殆ど領会に苦しむほど錯綜紛糾を極めて居た事は、
当時の歴史に通ずる人の既に塾知せるところである。

 支都人自身にとりてさへも、
その複雑なる制度を根本と枝葉とに分ち中心と周囲とを見出す事が至難の業であった。

 然るに吾等は極めて短日月の間に支那の政治組織を領会して之を自己の薬篭中のものとなした。

 而してこの雑駁なる制度を最も見事に解釈して、驚嘆す可き制然たる秩序を与へ、
綱挙がり目張れる八省百官の制度となし、
之に依て当時の政治的問題に最も満足なる解決を与へたのである。

 誰か単なる摸倣者に此の水際立ちて鮮かなる腕前を期待し得やうぞ。
若し之をしも摸倣と称す可くんば、天下孰れの処にか創作なるものがあらうか。

 エマソン曰く、天才の前に秘密なしと、
如何なる文明も吾等の前には秘密密であり得なかった。
如何なる思想もを吾等の前には解き難き謎であり得なかった。

而して旧を失ふ事なくして新を抱懐する新なる帰一精神は、
亜細亜文明の一切を摂取して、之を吾等が国民的生活の上に復活せしめた。

 それ亜細亜には渾然たる一如しである。
ヒマラヤの連山は、孔子の共同主義を根底とする支那文明と、
吠咜の個人主義を根底とする印度文明とを分けて居るけれど、
これは唯だ一如の面目をして益々鮮やかならしめるものに過ぎぬ。
雪山の障壁は、今だ曾て平等とを普遍とを愛する亜細亜精神の遍満を坊げ得なかった。

 而して平等と普遍とを慕う心こそは、全亜細亜民俗に通ずる伝来の思想で、
此こころ即ち彼等をして世界に於ける一切の偉大なる宗教を生ましめ、
此こころ即ち彼等とかの局限と差別とを重んじ、
目的よりは手段を求める事を好む西欧民族とを分っ所以である。

 固よりこの精神は異なれる郷土で異なれる花と咲乱れれた。
 されど其等は皆な一つ太洋に起伏する女波男波にすぎぬ。
亜細亜の任侠も、波斯の詩歌も、支那の論理も、将又印度の宗教も、
総て単一なる亜細亜を物語って居る。

 然るに此の『復雑の中に存する統一』を殊に鮮かに実現して、
亜細亜の一如を最も十全に発揮するとふ事が、常に吾等の偉大なる特権であった。

 而して世界に比類なき皇統の連綿と異邦の征服を受けざる気高き自尊と、
祖先の思想感情を保つに絶好なる島国たりし事が、
日本をして亜細亜の思想及び文明の真の護持者たらしめた。

 されば吾等の意識は全亜細亜意識の綜合である。
吾等の文明は全亜細亜思想の表現である。
日本文明の比類なき意義及び価値は実に此点に存するのである。

 

 吾等をして空論者たらしめざれる吾等の主張は
常に厳粛なる事実の上に其の根拠を求めねばならに。

 さらば吾等をして日本は如何にして
『亜細亜の一如』を国民的生活の上に実現して来たかを語らしめよ。

 

 総ての起原が知り難いように、大和民族の起原もまた知り難くある。
吾等はかの東南亜細亜の沿海諸島を進み来る間に、
印度韃靼人の血を混へたるアッカディヤ人の一部であったか、
或いはまた満洲朝鮮を経て夙くより印度太平洋に植民せる土耳古遊牧群の一部であったか、
将又カシミルの高原を過ぎり来りて、
西蔵、ネパール、暹羅(シャム)、緬甸(ビルマ)等の諸民族を形成しつつ、
ツラニヤン人の間に其姿を没せるアリヤン移住民の子孫であったかは、
今尚は揣摩憶測の雲に蔽はるゝ考古学並びに人類学上の難問である。

 

 吾等は祖先が初めて歴史に現はれた時は、既に戦争に於いて雄々しく、
平和の仕事に於て優しく、
詩歌を愛好し女性を敬愛する一個堅実なる国民となって居た。

 而してこの原始日本を吾等に物語るものは言ふ迄もなく古事記である。
寄異なる漢文を以て書かれたるこの古き書物は、今や空しく高閣に束ねられて居る。
併し乍らこは吾等の祖先の思想と行蹟とを伝へる大和民族の聖書である。
完全なる木は萌芽の前に在る。

 日本の歴史は古事記に現はれたる『神ながらの道』が、不断に実現され往く道筋である。
吾等に敬虔と歓喜とのこころを以て、古事記を通して吾等の祖先の思想信仰を研究し
且つ之に関する徹底せる理解を得ねばならぬ。

 さて古事記の叙述は世界観の叙述を以て始まって居る。
吾等は曾て或る学者が、旧約の世界観と古事記のそれとの類似を聞いた。
されど世の中に箇程の誤解は多くあるまい。

 旧約の思想は天地を以て超越的一神の創造に帰するものである。
然るに古事記は決して天地の創造を説かぬ。
そはたゞ天地の啓発、天地の展開のみを説く。

 古事記は其の開巻に下の如く述べて居る。

 天地の初発の時、高天原に成りませる神の御名は、
天御中主神(あめのなかぬし)、
次に高御産巣日神(たかむすび 高皇産霊神)、
次に神産巣日神(かみむすび 神産霊神)。
 この三社の神はみな独り神成りまして、御身を隠し給ひき。

 次に国稚く乳脂の如くして海月なす漂へる時、
藁牙のこと萌騰れるものに因て成りませる神の御名は、
宇麻志阿斯訶備比古遲神(うましあしびひごろ 美葦芽彦舅神)、
次に天常立(あめのとこたち)神この二柱の神も独り神成りまして、
御身を隠し給ひき。

 次に成りませる神の御名は、
国常立(くにとこたち)神、次に豊雲野(とよくもね)神、
この二柱の神も独り神成りまして、御身を隠し給ひき。

 次に成りませる神の御名は、宇比地邇(うひぢに)神(泥土根神)、
次に妹須比智遲(いもすひぢに)神(沙土根神)、
次に角杙(つねくび)神、次に妹浩杙(いもいくくび)神、
次に意富斗能地(たほとのぢ)神(大殿道神)次に妹意富能斗弁神(いもたほとのべ神、大殿辺神)、
次に た母陀琉(たもだる)神(面足神)、
次に妹阿夜訶志古泥(いもあやこしこぬ)神(綾惶根神)、
次に伊邪岐神、次に妹伊那美神。

 

 この意味多き一節は、混沌CCHaosが宇宙Cosmosに成り往く道筋を述べて居る。
天御中主神は中心生命、神産霊高皇産霊の両神は宇宙の生成力の神格化である。

 そは決して宇宙に超在するものあらで、
内在せる生命力と力とが、自らの意志によりて神となったのである。

 この生命と力とが動き始めて、
浮脂の如く海月の如き混沌の中に、次第に秩序が展開されて往く。
美葦芽彦舅神は、無形は形式を得来る最初の開展原理の神格化である。

 美(うまし)は、美称、彦舅(ひこぢ)は男性の尊称、
葦芽は春来たりて萌え出づる壮んな葦の若芽である。

天常立国常立の二神は、
かくして展開せられたる天地の神格化、
豊雲野神は国土の生成力の神格化である。

 泥土根沙土根の二神は、大地未だ定まらず沙泥相混ずる国土成形の第一段の神格化、
角杙活杙の二神は、大地将に固定せんとする国土形勢の第二段の神格化、
大殿地大殿辺
の二神は、大地瀬く凝固せる国上形成の第三段の神格化、
面足綾惶根の二神は、円満に成就せられたる国土の神格化である。

 而してこれを男女神に分けて居るのは、一個の神格を男女の両名より命名せるもの、
換言すれば一個生成の力を能動所動の両面より神格化せるものに外ならぬ。

 例へば欠くる所なく具はれる国土と云ふ方面は面足神(おもあるのかみ)てふ男神として、
嘆美し畏敬すべき国土と云ふ方面は綾惶根神てふ女神として表現されたのである。 

 

 この宇宙の生命と力とは、更に伊奘諾伊奘冊の男女両神として現はれた。

 古事記の語るところに依れば、この両神は交互生殖によりて先づ大八島国を生み、
次で山神、木神、火神、風神、海神、石神、上神、他几百の諸神を産み、
更に伊奘諾神は女神を待たずして自ら一挙手一投足の間に百千の諸神を産み、
然る後に此等諸神の一切を統率すべき神を生んだ。

 その神こそは光華明彩にして六合の内に照徹し給ふ天照大神である。

 是の如き古事記の記事は、
往々にして吾等の祖先の恣まゝなる空想の所産と斥けられ易い。
されども唯だ其人の浅はかなる見識を自自するものに過ぎぬ。

 物の表面に蹉かすして、能くその内面を見得る人々は、
この簡朴なる象徴的記述のうちに、尽きざる醍醐味を見出すであらう。

 古事記は正しく次の如く語らんとするものである。
宇宙は諾冊二神として自己を顕現し、
之によりて国土山川草木地水火風、さては一切の万物を展開し、
最後に其等の一切を統一する究竟の原理として活動を始めたと。

 

 これが取りも直さず吾等の祖先の世界観であった。
少くともその世界観の根底たりし思想であった。

 かくして宇宙に内在する最後の一原理は、
天照大神てふ神格として彼等に現はれたのである。

 

 さて彼等は日本国の天望を以て天皇大神の子孫とし、
彼等自身は此国を経営せよとの神を蒙むりて、
天孫に供奉し来れる神々の子孫と信じて疑はなかった。
此の信仰は動かし難き真理を語って居る。

 日本国に於ける天皇の地位は、
さながらに宇宙にける天照大神の地位である。

 宇宙の一切が天照大神によりて統一せられたる全体の中に於てのみ
存在の意義があるやうに、
総ての日本人は天皇によりて統一せられたる国家の中にてのみ存在の価値がある。
日本の皇室をして世界の不思議たらしめたのは実に此の思想である。

 帝国大学名誉教授チエムパレン氏は
『新宗教の発明』と称する近著に於いて、吾国にて幾多の天皇がせられ、
幾多の天皇が弑せられたこと、武家政府か皇室を窮境に委して顧みざりしことをべて、
日本の天皇崇拝は近時の発明なりと断言し、
凡そ国民の君主を遇するに倨傲なりしこと日本人に過ぐるはなかったとさへ言って居る。

吾等は茲にかかる誤解を事々しく論する必要を認めぬ。
ただチエムパレン氏の主張に対する活きたる反証を挙げれば十分である。
 
 その反証とは奈良の正倉院である。
多くの人々に看過せられてるけれども、
吾等の見るところを以てすれは
正倉院ばかり力強く皇室の尊厳を証明するものは他に求め難いと思ふ。

 正倉院は人の知る如く奈良東大寺大仏殿の後にある皇室の宝蔵で、
今を距る千百五十余年の昔に作られた木造の建物である。
奈良朝の天子は一つには大仏に寄進のため、
又一つにはかくして永く後世に伝へんために、帝室の御物をこの宝蔵に収めをた。
而して建物も其中の宝物も共に聊かかも変らず今日まで遺って居る。

 

 戦国時代又は他の時代に於いて、
若し横暴なる人間が押入らうとへ思へば容易く破り得た木造の建物であるにも拘はらず、
更に左様の事はなくして、
中に納めらた火鉢の内には、千年前の灰までが其儘に残って居る。
これ程の不思議が凡そ世に多くあらうか。

 而してこの不思議は皇室の尊厳を以てせすに何を以て解き得るか。
吾等は之をチエムパレン氏に質し度い。
皇室の力は見えざる所に働らく。

 木曽に育てる無学の武将義仲が、東山北陸の野式士を従へて京都に侵入し、
あらん限りの乱第を振舞った時でも、
天皇法皇の前には只だ拝伏する外何事もし得なかった。
彼等は夫とも知らすに法皇の御輿に向って散々に射奉つた。

 されど『是は院にて渡らせ給ふぞ、過ち仕るな』との一言に、
悉く馬より下りて畏まった。
 彼等は又夫とも知らで主上の御船に矢参らせた。
されど『是は内にて渡らせ給ふそ』との一言に、
等しく馬より下りて大地に俯れ伏した。

 而して皇室に対する此の厳粛なる感情は吾等の歴史を通じて間断なく流れて居る。

 かくして吾等は皇室を中心として比類なく強固なる共同生活を営んで来た。
而して其間に自尊の精神を養び、忠義の感情を燃え立たせて来た。
四囲の自然はまた歓ばしき感化を吾等に与へた。

 波打てる黄金の田野、銀の如く朗かな空気の色、
己がじゝ芽出度き姿を競へる島々の趣、
白簾を懸くる山々の翠色、
絢爛たる四季の推移、
総て此等の美しき自然は、その典雅なる純一と、ロマンチックな醇精とを吾等の魂に刻み付けた。

 吾等の精神的沃土は見事に耕やされて、
善き種の蒔かれる準備は調ひ、
豊かなる収穫を得べき希望は熟した。 

 さる程に人文発展の機運は漸く熟して、今を距る千六百年の頃ほひより、
亜細亜大陸の精華と一部とべき支那文明と接触し始めた。

 吾等は厳粛なる努力によりて此の新来の文明を研究し、
能く之を同化して国民的繊緯の一部となし、
他年燐然たる花を咲かすべき文芸道徳の素地を造り上げた。

 吾等の芸術的天分はこの新しき文明に刺激せられて非常に急速の進歩を遂げた。
吾等は支那の文字を仮りて自己の言語を写すことを発明し、
所謂万葉仮名を作りて国語の文体を其儘に保持するの道を拓き、
次で平仮名、片仮名を発明し、
茲に象形文字の桎格を脱し、音標文字によりて思想を発表することを得せしめ、
之によりて国文学の発達を策進した。

 吾等はまた支那文明の核心たる儒教を取入れて道徳的生活を充実せしめた。
儒教の道徳は素と家族を単位とする共同生活の理想を説くものに外ならめ。
従って吾等の道的琴線は容易に之と共鳴する事が出来た。

 その教ゆる人倫五常の道、
父子君臣の義は、
文字なき文学なき吾等によりて適切なる言語に発表せられて居らなかったけれど、
実生活の上に於ては既に実行し来れるものに外ならなかった。

 例へば人君の民を視る父母の如し、
僭怛(サンダツ、いたみ悲しむ)の愛あり、忠敬の教あり、
葡萄の教ありと云ふような理想は、
直ちに吾が皇室の建国以来の理想其者を言表はしたものであるである。

 されど此の共同生店の大義も支那に於ては十分に徹底せしめられなかった。

 吾国にては民族の主が直ちに政権の主であったけれど、
支那に於てはく趣きを異にして居る。

 支那の政治は優れる力を有する一の人種が、
他の弱き人物を支紀するもので、決して一の人種が自ら治めるのてはない。

 

 こは支那の歴史が明かに証明する所である、
是の如き事情は支那に於ける君臣の関係を以て唯だ外部の威力によりて保たれるものたらしめた。

 家人父子の心を以て一国を経営する理想はあっても、
王侯将相豈種あらんやと豪語し、
革命を以て天与の権利と信し、
甚の心に於て悉く将門純友なりし人民に対して、
真に家父の心を以て君臨する事は、
支那の帝王に取りては殆ど不可能の理想であった孔孟の主眼は
王者の道を闡明するに在ったから貢の教説は為政者の為にしたものが多い。

 されば儒教精神に支配をられた漢代に於ては、
君主の理想を説く事に於て最も高潮に達して居た。  

 試みに漢の刑法志を開き見よ。

 古人言あり、満堂を飲むに、一人あり隅に向って悲涙すれば、
即ち一堂これが為に楽します。
王者の天下に於ける猶ほ一堂の上の如し、故に一人其平を得ぎれば之が為に心悽愴たり。

 誰か之を読んでその偉大なる観念にうたれぎるものぞ。
而も此の崇高なる理想を実現するのは、孔孟の郷土なる中華国民にあらで、
実に吾が日本国の役目であつた。

 恐多き事ながら、吾等は、明治天皇の大御心に於て、
儒教が待焦れし王者の理想の最後の完成を拝し奉るものである。 

 為政者の教訓が主となって居た儒教は、
当然の結果として臣民の君主に対する道徳を説く事が少なかった。
そは家族道徳を説く事に於ては殆ど遺憾なきに拘はらす、
国民道億を説く事に於ては最も不十分であった。

 それのみならず偶々孔孟の説き及べる臣子の道は、
吾等の国民性とは相容れぬものであった。

父の場合には三度び諫めて聴かれずば即ち従ひ、
君の場合には三度び諫めて聴かれすば即ち去れと言ひ、
君、君たらずば、臣、臣たらすと云ふが如き思想は、吾等の精神と背馳するものであった。

 

 かくて吾等は儒教の此の一面を訂正し且補充して、日本的儒教を造り上げた。
かくの如くにして儒教は吾国に於て最も美しき実を結んだのである。
支那を見よ。
孔孟の郷土を見よ。
支那は今や家族の集団に過ぎなくなった。
支那には国家なくして唯個々の家族あるのみに過ぎぬ。
彼等の至高の善は孝門である。
彼等の最大の罪悪は先祖の祭りを絶つことである。
而して国家のためには指一本だも喜んで動かさうとせぬ。

 

 公共のためには一毫を抜くことだも之を厭ふ。
偶々慈善を行ふものあれども、
そは之に由て更に大なる応報を期待する利己的打算を動機として居る。
彼等は家族の外に共同生活の意義を解せぬ人間と成り果てたのである。

利己主義が跳梁して富者益々富み貧者愈々窮するのも当然である。
国運の悲しむべき衰頽も必然の結果である。
これが果して孔孟の本意であらうか。
吾等は断して否と答へる。
孔孟の精神は其の郷土に於て亡んた。
而して誤解せられたる孔孟の精神は其の郷土を亡ばした。

儒教の至深の生命は吾等の国民的生活に於て復活し、
その至高の理想の実現は、吾等によりて完成せられねばならなかった。
 
 儒教によりて代表せらるる支那文明の渡来より約二百五十年を経て、
欽明帝の第十三年には印度文明の精華と称すべき仏教が伝来した。

 もと仏教は既に継體帝の御時に吾等に伝へられ、
殊に梁より帰化せる司馬達等は大和国坂田原に於て熱心に之を信じ、
且恐らくは之を伝道して居た。
されど此時に於ては吾国民は仏を呼ふに『韓人神』の名を以てし殆ど念頭にも置かなかった。

 

 然るに欽明帝の御時に至り百済国王が特使を派して仏教を吾が皇室に勧奨するに及び、
この新しい宗教を如何にす可きかと云ふことが、
国家全体の大問題となった。

 而してこの問題の解決を殊に困難ならしめたのは、
余りに強き国民性其者であった。

 当時廟堂に勢力を振へる蘇我氏は、印度を始め支那朝が昏な仏を信するに、
独り吾国のみ之を信ぜぬ理由がないと主張し無批判的に仏教を取入れやうとした。

 然れども物部氏を筆頭とする国粋論者は極力これに反対した。
彼等の理由とする所は、吾が皇室は由来天地祗を祀るを以て恒典として来たのに、
今更かかる蕃神を拝まば天神地祗の御怒り目当りなる可しと言ふにあった。

 然るにこの衝突は信仰問題として以外に政治的意味を含んで居たから、
茲に蘇我物部氏の激しき確執となり、事態は愈々紛糾を極めて来た。

 物部氏の主張は『神ながらの道』を以て一個の宗教とする見解に立てるものであった。
而して千二百年後の今日に於ても、吾等の周囲には尚ほ多くの『物部氏』が居る。

 併し乍ら神道を以て一個の宗教となし、
之を仏教又は基督教と対立せしむるは決して正しき見解でない。
神道は決して宗教にはあらで日本国の構成原理であり且規定原理である。 

 換言すれば神道は国民的生店の根本主義である。
国民としての総ての日本人は神道によりて生存し、
同時に神道に日本人の国民的生活の上に実現せられねばならぬ。

 されば神直は常に吾等に向って善良なる政冶、
厳粛なる道徳、高尚なる宗教を要求して居る。
 何となれば日本国民が此の三方面の生活に於て向上して行く事は、
取りも直さず神道の月ざる内容を発揮し行く事になるからである。

 
 今翻って仏教渡来以前の宗教を見よ。
行はれたりしものはだ素朴なる自然崇拝と祖先崇拝とに過ぎなかった。
かかる原始的信仰がいつまで精神の要求を満足せしめ得よう。

 史を繙きて欽明帝の朝に及べば、
伊勢大神言の斎宮たりし帝の皇女が、
皇子と慇懃を通じて其職を解かれたる記事を見るであらう。

 更に進んで敏達帝の時に至れば、再び同一不祥事が繰返された事を知るであらう。

 こは何事を吾等に教へるか。
それ天照大神は皇室の祖神として無上の崇敬を仏はれたる神である。
然るに今や之に仕へ奉れる皇女にして、処女の神聖を保ち得ぬものを生じた。

 一葉落ちて天下の秋を知る。
彼等は此の一事によりて
宗教としての祖先崇拝は最早過去のものとなった事を明白に知り得るのである。
彼等の道徳的生活は儒教によりて向上させられた。
 
今や彼等は更に新しき力ある信仰によりて宗教的生店の充実を図らねばならぬ。
さらば仏教を如何に可きか。

この問題の解決はわが聖徳太子の任であった。
而して太子ならでは何人も果し得ぬ重任であった。
吾等をして先づ太子伝補註の一節を引照せしめよ。 

 神道は道の根本、天地と与に発り、以て人の始道を説く、
 儒道は道の枝葉、生黎と与に発り、人の中道を説く。

 仏道は道の華実、人智熟して後に発り、人の終道を説く。
強いて之を好み之を悪むは、是れ私情なり。 

 こは固より太子の言葉を忠実に伝へたものでない。
 されどそは最もよく太子の精神を語るものである、
その神道を根とし、儒を枝葉とし、仏を華美とし、
三者相扶けて日本国てふ一大樹を成せる所以を説き、
然る後に濫りに一を好み他を悪むが如きは私情なりとの鉄案を下すところ、
真に虚空をして稀有と叫ばしめねば巳まぬ概がある。

 かくの如くにして印度文明の精華は吾等の生命に取入れられた。
而して吾等の精神的文明は限りなく豊かにせられ且高められた。

 仏教は火の原を燎く勢を以て弘まって住った。
聖徳太子の後一世紀を過ぐれば、天子自ら三宝の奴と称し、
国費を以て京都及び諸国に寺院の建立せらるるあり、
醇乎たる大和民族の間より幾多の高僧を出だして、
日本固有の精神と印度宗教との渾一は次第に成就をられて来た。

 此の点に於て特に吾等の注意を惹くものは行基其人である。
 彼は其の足跡殆ど六十余州に遍く、
常に声高らかに岡弥陀仏の名号を唱へて街衢を行き、
市の如く其後に従ふ道俗を済度するの傍ら、
橋梁を架し溝渠を通じ堤を築き地を拓くなど、
在らゆる方法を講じて衆生利益の本願を全うし、
実際的に仏教と国民生店とを結合せるのみならず、
驚く可き高遠なる形而上学によりて、
理論的にも日本思想と印度思想との統一を図った。

 彼は法華経の本地垂跡説を根底として、
日本の諸神は悉く諸仏の権化なること、
諸仏も本地に於ては同一にして、
其等は唯だ独一の真理の異なれる表現であると考へた。

こは実に日本的仏教の最初の試みであった。

 彼の本地垂迹論は固より単に第一勝たるに過ぎぬ。
されど此第一勝は踰え難き障礙を除き去りて全勝の道を開いたものであった。
仏教が善き意味に於ても悪き意味に於いて日本化せられ了ったのは平安朝に於てである。

而して平安朝末期より鎌倉時代に至りて、
法然親鸞道元日蓮等の偉大なる宗教的人格に於て、
仏陀の蒔き給へる信仰の種は、印度にも支那にも類ふべきものなき美しき実を結んだ。

 かくて仏教は其郷土に於て匸び、
支那に於て亡んだにもは拘わらず、
極東の彩花島裡にてのみ今尚ほ国民の生命と共に栄え、
その汎神論的信師と、観念論の哲学とは、此国の文化の一切の方面に面影を留めて居る。

 如上の粗雑なる叙述によりて知り得る如く、
吾等の文明は直ちに亜細亜文明の統一であった。

 吾等は過去に於て接触せる一切の文明を摂取して不断に高度の文化を展開して来た。
これが旧日本文明の意義及び価値である。

 今や全亜細亜を表現する日本は、更に一個の新しき文明と接触を始めた。
そは歴史と遺伝とを誇り、
文明を以て自己にのみ属すべきものと自負する欧羅巴人の文明である。
吾等は此の新しき文明、及び其の根紙たる基督教を、
曾て吾等の祖先が支那及び印度の文明を摂取せる如く、
遺憾なく同化して国民的生命に取入れる事が出来やうか。

 而して亜細生の表現者たる日本が、遂には世界の表現者たる日が来るであらうか。
而して『神ながらの道』の最後の実現を成就し得やうか。

 此の問題に対して正しき答案を造るためには、
吾等は日本西教史、並に日本西学史、
殊には現代の傾向を仔細に研究せねばならめ。

 こは他日更に一篇と成して必ず諸君の批評を仰ぐ存念であるが、
若し吾等をして単に結論だけを提出する事を許すならば、
言下に答へて下の如く言ふ。

 日本文明の完成は取も直さす世界文明の完成を意味すると。

 見よ、今や講会の椅子は無智の俗漢によりて占められて居る。
軽率なる哲学は思想界を攪乱して居る。
低調なる趣味は芸術界に跳梁して居る。
何人も決して軽々しく楽観してはならぬ。
されど吾等は遂に最後の希望を失はぬ。

 吾等はこの希望に励まされて、物質界に於て固より、
精神界に於ても常に、勇み立ちて善き戦ひを戦はねばならぬ。

            (『大陸』第三号、大正二年九月)  



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