東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

お祓い

2024-05-11 22:28:52 | 日記

神道

2024-05-11 22:20:29 | 日記
 神道って最初から日本を呪い封じ込めるために作られたものじゃないか?って何度も書いてるんだけどなあ。神社の人たちが日本人か知らないけど・・・。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 神社の合祀は明治39年(1906年)に始まったみたいだけど、ウィキペディアを見ると、大正3年(1914年)までで日本全国で約20万社あった神社の7万社が取り壊されたと載ってる。特に凄かったのは三重県で、県内の神社の約9割が無くなったらしい。和歌山県と愛媛県も凄かったようだ。神社の合祀は県知事の裁量に委ねられてたらしく、京都では1割程度で済んだらしい。
 
 皇典講究所は神職養成の中央機関だったらしいけど、皇典講究所は太平洋戦争の終戦後の昭和21年(1946年)に解散し、大日本神祇会と神宮奉斎会と一緒になって神社本庁に統合されたらしい。皇典講究所の総裁には皇族の人が就いていたようだけど、有栖川宮幟仁親王が皇典講究所の初代総裁らしい。
 
 皇典講究所の初代所長は山田顕義という人で、日本の最初の内閣の第一次伊藤内閣で司法大臣を務めたらしい。山田顕義は明治22年(1889年)から明治28年(1895年)まで所長を務めたようだ。次の所長は佐佐木高行という人で、明治29年(1896年)から明治43年(1910年)まで務めたようだ。次の所長は芳川顕正という人で、明治43年(1910年)から明治44年(1911年)まで務めたようだ。次の所長は鍋島直大で、明治44年(1911年)から大正7年(1918年)まで務めたようだ。それ以降も載ってる。
 
 太平洋戦争の終戦時の皇典講究所の所長は佐佐木行忠という人で、佐佐木高行の孫らしい。佐佐木行忠は皇典講究所の最後の所長で、太平洋戦争の後は神社本庁の顧問や神社本庁の統理や伊勢神宮の大宮司を務めたようだ。
 
 神社本庁ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2024-05-11 22:19:12 | 日記
 広橋家もグルなのかなあ?、やっぱり。
 
 佐賀県にあった佐賀藩の藩主は鍋島氏で、佐賀藩の最後の藩主の鍋島直大は前の藩主の鍋島直正の息子らしいけど、本当か知らない。明治7年(1874年)に佐賀の乱があって、佐賀の乱があった時は鍋島直大はイギリスに留学していて、明治11年(1878年)に帰国したらしい。その後に外務省に務め、明治13年(1880年)から明治15年(1882年)までは駐イタリア王国特命全権公使としてイタリアに住んでたらしい。日本に帰国した後は日本の近代化政策に関わったらしい。鍋島直大は明治44年(1911年)から大正7年(1918年)まで皇典講究所の所長に就き、大正7年(1918年)から大正10年(1921年)まで皇典講究所の副総裁に就いていたようだ。鍋島直大は大正10年(1921年)に亡くなったらしい。
 
 鍋島直大の妻の栄子は広橋家の出身で、広橋賢光という人の妹らしい。広橋賢光は明治43年(1910年)に亡くなったらしい。広橋家は広橋賢光の息子の広橋真光が継いだようだ。広橋真光は近衛内閣と東条内閣で内閣総理大臣秘書官を務めたらしい。
 
 鍋島直大と栄子の娘の伊都子は梨本宮守正王の妻になって、梨本宮守正王と伊都子の娘の規子は広橋賢光の息子の広橋真光の妻になったらしい。梨本宮守正王は太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。
 
 藤波家は中臣氏の系統の氏族らしいけど、藤波家は明治時代の前まで伊勢神宮の祭主を務めていたらしい。本当か知らないけど・・・。明治維新の頃の藤波家の藤波言忠という人は広橋家から藤波家に養子に入った人で、広橋賢光と鍋島栄子の兄弟らしい。
 
 伊勢神宮のトップの役職は祭主らしく、祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、カルト神道の呪いは強烈だなあ。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

伊勢

2024-05-11 22:09:52 | 日記
 神道って日本を呪い封じ込めるために作られたものじゃないか?って何度も書いてるけど、そういうことをわざわざ自分たちから暴露するなんて、有り得ないと思わない?。
 
 明治維新の話は嘘の気がするけど、明治維新の後に宮家が増えたらしく、太平洋戦争の後に昭和天皇の兄弟の宮家以外は皇籍離脱したらしい。この人たちを旧皇族というらしい。
 
 祭主は伊勢神宮でのみ置かれてる役職らしいけど、ウィキペディアで調べると、祭主は伊勢神宮で行われる大祭で奉幣使として行って、祝詞を奏上して、天皇の意思を神に伝える役目の人らしい。
 
 明治維新の後、久邇宮朝彦親王から皇族の人が伊勢神宮の祭主を務めるようになったらしい。本当か知らないけど・・・。ウィキペディアで調べると、久邇宮朝彦親王が伊勢神宮の祭主だった期間は明治8年(1875年)から明治24年(1891年)までで、次の祭主が有栖川宮熾仁親王で明治24年(1891年)から明治29年(1895年)までで、次の祭主が賀陽宮邦憲王で明治29年(1895年)から明治42年(1909年)までで、賀陽宮邦憲王の後は臨時祭主が置かれ、多嘉王と久邇宮邦彦王と鷹司煕通が臨時祭主に就いたようだ。多嘉王が祭主になって大正8年(1919年)から昭和12年(1937年)まで続けて、その次も臨時祭主が置かれて梨本宮守正王が昭和12年(1937年)から昭和20年(1945年)まで続けて、梨本宮守正王が太平洋戦争の終戦時の伊勢神宮の祭主らしい。本当か知らないけど・・・。賀陽宮邦憲王と多嘉王と久邇宮邦彦王と梨本宮守正王は久邇宮朝彦親王の息子らしい。
 
 太平洋戦争の後は天皇の娘が伊勢神宮の祭主を務めるようになって、今の伊勢神宮の祭主は上皇の娘の黒田清子らしい。久邇宮邦彦王の娘が昭和天皇の皇后の香淳皇后で、今の天皇は久邇宮家と繋がってるらしい。久邇宮家も太平洋戦争の後に皇籍離脱して久邇家になったらしいけど、インターネットで調べると、今の久邇家の人は伊勢神宮の大宮司らしい。
 
 三重県伊勢市にある伊勢神宮の内宮は皇大神宮というらしく、御神体は八咫鏡らしい。伊勢神宮の内宮で天照大神を祀ってるのか知らないし、天皇の祖先は天照大神ではない気がするけど、カルト神道の呪いは強烈だなあ。
 
 伊勢神宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか

京都

2024-05-11 22:06:02 | 日記
 昭和の初め頃には農村や漁村では貧困が問題になってたらしいけど、そういうのって、わざとやってたのかなあ?。
 
 神社の人たちもグルなんでしょ?、やっぱり。
 
 稲荷神社の総本社といわれる京都にある伏見稲荷大社では宇迦之魂と佐田彦大神と大宮能売と田中大神と四大神を祀ってるらしい。伏見稲荷大社の千本鳥居の奥には稲荷山があって、稲荷山には鳥居がたくさんあって、ミニチュアの鳥居もたくさんあって、お塚といわれる場所がたくさんあるらしい。稲荷山が今のようになったのは明治以降らしいけど・・・。伏見稲荷大社も秦氏の人が創建したことになってるらしい。
 
 高山昇という神道家の人がいて、ウィキペディアで調べると、群馬県の今の吾妻町の出身で、大宮巌鼓神社の神職の息子らしい。本当か知らないけど・・・。高山昇は日本各地の神社の宮司を務め、大正13年(1924年)に伏見稲荷大社の宮司に就いたらしい。高山昇は稲荷山に禊道場をつくったり、神道を学ぶ学生のための稲荷神社奨学金を設立したり、附属稲荷講社を設立したようだ。昭和4年(1929年)には東京都西東京市に東伏見稲荷神社を創建したらしい。
 
 高山昇は昭和11年(1936年)に稲荷神社の宮司を退き、皇典講究所の専務理事に就いたようだけど、次の年の昭和12年(1937年)に退任して、その後は神奈川県藤沢市に移住したようだ。昭和18年(1943年)には藤沢市に鵠沼伏見稲荷神社を創建したらしい。その後も乃木神社の社司を兼務したり、神社局参与、神祇院参与、大日本神祇会顧問に就き、昭和20年(1945年)に乃木神社社司を退任して、新しく出来た神社本庁の顧問になったようだ。高山昇は昭和25年(1950年)に亡くなったらしい。
 
 伏見稲荷大社ですか・・・。
 
 
 火をつけるか