東北発 歴史調査隊

明治維新の嘘を暴くブログです。

チベット

2023-10-30 22:57:30 | 日記
 疲れたなあ。
 
 第一次桂内閣が明治34年(1901年)から始まって、第一次桂内閣、第一次西園寺内閣、第二次桂内閣、第二次西園寺内閣、第三次桂内閣と続いて、第三次桂内閣は大正2年(1913年)まで続いたようだ。桂太郎と西園寺公望が交代で総理大臣に就いてた時代を桂園時代というらしい。
 
 桂太郎には、お鯉という妾がいたらしいけど、お鯉は安藤照という女性で、東京の出身で小久江家から安藤家に入った後に芸妓になったらしく、その後に桂太郎の妾になったようだ。お鯉は昭和9年(1934年)にあった帝人事件の後に出家して妙照尼と名乗り、昭和13年(1938年)に東京にある五百羅漢寺の住職になったようだ。
 
 東京都目黒区に五百羅漢寺があって、HPがある。天恩山羅漢寺というみたいだけど、明治41年(1908年)に今の場所に移ったらしい。羅漢寺は鉄眼道光の開山らしい。河口慧海は明治23年(1890年)に羅漢寺の住職になったようだけど、明治24年(1891年)に羅漢寺の住職を辞めて僧籍返上したらしい。その後に、また僧籍を取ったようだ。河口慧海は日本人で初めてチベットに行ってきたらしい。本当に日本人か知らないけど・・・。
 
 河口慧海は明治30年(1897年)に日本を出発してチベットに行って、明治36年(1903年)に帰国したらしい。帰国した次の年の明治37年(1904年)に「西蔵旅行記」を出版し、また日本を出発してチベットに行って、大正4年(1915年)に帰国したらしい。河口慧海はチベットにいって、たくさんの仏教関連のものを持ち帰ってきたらしい。河口慧海は大正10年(1921年)には僧籍返還したらしいけど、経典の翻訳や研究をしたり、仏教やチベットに関する著作を続けたようだ。
 
 多田等観という人は岩手県花巻市に疎開してたらしいけど、多田等観は浄土真宗本願寺派の法主だった大谷光瑞の援助を受けてチベットにいたようだ。多田等観はダライ・ラマ13世とも懇意にしてたらしい。浄土真宗本願寺派はチベットと交換留学もしていたようだ。
 
 ウィキペディアで調べると、ダライ・ラマは1642年にチベット政府の長になって、1959年までチベット政府の長だったようだ。チベットのラサというところにポタラ宮という宮殿があるらしい。今のダライ・ラマは14世のようだ。
 
 ポタラ宮ですか・・・。
 
 
 火をつけるか
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