先週の土曜日、2月21日の午後8時24分に、ボンの実家の父が亡くなりました。
末期の肺がんでした。
ボンの実家の父は、母が再婚した相手で、母よりも10以上若かったので、まだ61歳でした。
昨年の7月に、熱が下がらないので、検査をしてもらったところ、肺がんとわかって、それも末期のステージ4ということで、余命1年くらいと告げられてしまいましたが、父には、余命のことは伏せても、ガンであることは伝え、抗がん剤の治療を勧めて、父も同意し、治療を続けていました。
でも、副腎にも転移していて、手術は不可能で、抗がん剤の治療も、多少の延命効果くらいしかないだろうということだったんです。
父は、時々仮退院で実家に戻って、母と過ごしたり、沖縄に旅行に行ったり、家の用事を自分でしたりと、体力が落ちても少しづつ色々なことをしていましたが、今年の正月明けに、温泉に旅行に行った後に、また入院してから、症状が進んで、先月お見舞いに行ったときは風邪をひいて40度以上の熱を出してしまって、ベッドに寝たきりになっていたり、その後一度こん睡状態になって呼びかけてもわからない、トイレも自分で行けない状態になったりと、危なかったのです。
それでも、持ち直して、意識も戻り、今月の15日には、お嬢が作ったバレンタインのチョコレートを持っていって、それを一つだけですが、食べて喜んでくれて、ニコニコしていました。
その週の金曜日(亡くなる前日)に、母から電話があって、呼吸が辛くなって、酸素マスクをつけていて、モルヒネも始めた。危ないから・・・といわれ、私は父の病院に行きました。
ベッドから動けない父は、痰のからんだ呼吸で苦しそうではありましたが、意識はしっかりしていて、こっちをみてうなずいて、ボンの話すこともちゃんと聞いていましたし、帰りに手を振って見送ってくれました。
臨終の当日の昼に、ボンの妹と、息子(孫)が会いに行って、そのときにもしっかりしていて、手を振って別れたと聞きました。
でも、その後急に容態が急変して、意識がなくなり、夜になって息を引き取りました。(ボンたち家族は、すぐにタクシーで病院に行きました)
通夜、告別式には、ボンズも参列させました。
どうなるか、心配でしたが、ボンズはその場の雰囲気に圧倒されたのか、ずっと大人しくしていて、大きな声を出すこともなく、通夜でも、告別式でも、きちんと焼香をして、参列者にお辞儀も(勿論軍曹が一緒について介助しましたが)していました。
悲しいお別れだけど、ボンズにはいい経験だったのかもしれません。
ボンズは、冷たくなったじいじの顔を撫でて、お花を棺の中に入れ、『じいじ、さようなら』とお別れの挨拶をしました。
どのくらいわかっているのかわかりませんが、ただならぬ雰囲気だけは伝わったと思います。
お嬢は、滅多に会わない親戚のおばちゃんたちに囲まれて、人気者でしたが、ちょうど年齢的に受験の時期なので、『高校は決まったの?』『受験生だね!』などと何度も聞かれて、ちょっと困っていました。
精進落としの席で、またまた同じことを何度も言われたお嬢が、早く帰りたがったのと、ボンズの頑張りも限界だったのとで、早めに引き上げて、ボンズの御褒美に、ヨーカドーでケーキや焼き鳥を買って、帰宅してからみんなでお疲れ様会をしました。
そうそう、今回、通夜、告別式に参列するために、軍曹の実家から軍曹の両親が上京してきていて、狭い我が家に三泊三日で泊まったので、ちょこっと大変でした。
お嬢の部屋を除くと、リビングの他に、リビングと襖だけで仕切られた六畳の和室が二部屋しかない我が家に人を泊めるのは大変です。
朝、起きてご飯の支度をするんでも、隣の義両親が寝ている部屋を気にしながらで、緊張しました。
軍曹の両親はいい人で、ボンは好きなのですが、こちらの家に泊めて、一緒に寝起きするとなると、色々あります。
義両親も、疲れたと思いますが、なんとか無事に帰って行きました。
今日は、ボンの母を誘って、イタリアンレストランで一緒にランチしました。
ランチしたダイニングレストランは『カルド』
お嬢の一歳の誕生日に、両親と妹家族とでお祝いをしたところです。
ボンは、14年ぶりに行きました。
ボンは、長いこと母と二人でランチするというようなことはありませんでした。
実は母のことをずっと苦手だったのです。
子供の頃からです。
でも、今回のことがあって、もっと母と普段から付き合っていこう、と思いました。
亡くなった父も、それを望んでいると思います。
たまには、誘って一緒にご飯を食べることにします。
母は、今年の夏、父が大好きだった沖縄の離島の海に、父の遺骨の一部を散骨に行きたいそうです。
そのときに、お嬢と、ボンの妹の息子を一緒に連れて行くと言っていました(お嬢も行くといっていました)
じいじ、さようなら。
沢山お世話になりました。
ボンも、迷惑ばかりかけてしまってごめんなさい。
一度もお父さんと呼ばなくてごめんなさい。
ボンたちと出会ってからは、いい人生でしたか?
ボンたち姉妹をちゃんとお嫁にだしてくれてどうもありがとう。
生きているうちに、親孝行できなくてごめんなさい。
またいつか会いましょう。
末期の肺がんでした。
ボンの実家の父は、母が再婚した相手で、母よりも10以上若かったので、まだ61歳でした。
昨年の7月に、熱が下がらないので、検査をしてもらったところ、肺がんとわかって、それも末期のステージ4ということで、余命1年くらいと告げられてしまいましたが、父には、余命のことは伏せても、ガンであることは伝え、抗がん剤の治療を勧めて、父も同意し、治療を続けていました。
でも、副腎にも転移していて、手術は不可能で、抗がん剤の治療も、多少の延命効果くらいしかないだろうということだったんです。
父は、時々仮退院で実家に戻って、母と過ごしたり、沖縄に旅行に行ったり、家の用事を自分でしたりと、体力が落ちても少しづつ色々なことをしていましたが、今年の正月明けに、温泉に旅行に行った後に、また入院してから、症状が進んで、先月お見舞いに行ったときは風邪をひいて40度以上の熱を出してしまって、ベッドに寝たきりになっていたり、その後一度こん睡状態になって呼びかけてもわからない、トイレも自分で行けない状態になったりと、危なかったのです。
それでも、持ち直して、意識も戻り、今月の15日には、お嬢が作ったバレンタインのチョコレートを持っていって、それを一つだけですが、食べて喜んでくれて、ニコニコしていました。
その週の金曜日(亡くなる前日)に、母から電話があって、呼吸が辛くなって、酸素マスクをつけていて、モルヒネも始めた。危ないから・・・といわれ、私は父の病院に行きました。
ベッドから動けない父は、痰のからんだ呼吸で苦しそうではありましたが、意識はしっかりしていて、こっちをみてうなずいて、ボンの話すこともちゃんと聞いていましたし、帰りに手を振って見送ってくれました。
臨終の当日の昼に、ボンの妹と、息子(孫)が会いに行って、そのときにもしっかりしていて、手を振って別れたと聞きました。
でも、その後急に容態が急変して、意識がなくなり、夜になって息を引き取りました。(ボンたち家族は、すぐにタクシーで病院に行きました)
通夜、告別式には、ボンズも参列させました。
どうなるか、心配でしたが、ボンズはその場の雰囲気に圧倒されたのか、ずっと大人しくしていて、大きな声を出すこともなく、通夜でも、告別式でも、きちんと焼香をして、参列者にお辞儀も(勿論軍曹が一緒について介助しましたが)していました。
悲しいお別れだけど、ボンズにはいい経験だったのかもしれません。
ボンズは、冷たくなったじいじの顔を撫でて、お花を棺の中に入れ、『じいじ、さようなら』とお別れの挨拶をしました。
どのくらいわかっているのかわかりませんが、ただならぬ雰囲気だけは伝わったと思います。
お嬢は、滅多に会わない親戚のおばちゃんたちに囲まれて、人気者でしたが、ちょうど年齢的に受験の時期なので、『高校は決まったの?』『受験生だね!』などと何度も聞かれて、ちょっと困っていました。
精進落としの席で、またまた同じことを何度も言われたお嬢が、早く帰りたがったのと、ボンズの頑張りも限界だったのとで、早めに引き上げて、ボンズの御褒美に、ヨーカドーでケーキや焼き鳥を買って、帰宅してからみんなでお疲れ様会をしました。
そうそう、今回、通夜、告別式に参列するために、軍曹の実家から軍曹の両親が上京してきていて、狭い我が家に三泊三日で泊まったので、ちょこっと大変でした。
お嬢の部屋を除くと、リビングの他に、リビングと襖だけで仕切られた六畳の和室が二部屋しかない我が家に人を泊めるのは大変です。
朝、起きてご飯の支度をするんでも、隣の義両親が寝ている部屋を気にしながらで、緊張しました。
軍曹の両親はいい人で、ボンは好きなのですが、こちらの家に泊めて、一緒に寝起きするとなると、色々あります。
義両親も、疲れたと思いますが、なんとか無事に帰って行きました。
今日は、ボンの母を誘って、イタリアンレストランで一緒にランチしました。
ランチしたダイニングレストランは『カルド』
お嬢の一歳の誕生日に、両親と妹家族とでお祝いをしたところです。
ボンは、14年ぶりに行きました。
ボンは、長いこと母と二人でランチするというようなことはありませんでした。
実は母のことをずっと苦手だったのです。
子供の頃からです。
でも、今回のことがあって、もっと母と普段から付き合っていこう、と思いました。
亡くなった父も、それを望んでいると思います。
たまには、誘って一緒にご飯を食べることにします。
母は、今年の夏、父が大好きだった沖縄の離島の海に、父の遺骨の一部を散骨に行きたいそうです。
そのときに、お嬢と、ボンの妹の息子を一緒に連れて行くと言っていました(お嬢も行くといっていました)
じいじ、さようなら。
沢山お世話になりました。
ボンも、迷惑ばかりかけてしまってごめんなさい。
一度もお父さんと呼ばなくてごめんなさい。
ボンたちと出会ってからは、いい人生でしたか?
ボンたち姉妹をちゃんとお嫁にだしてくれてどうもありがとう。
生きているうちに、親孝行できなくてごめんなさい。
またいつか会いましょう。