ぼんすけ日記~イイカゲンな日々~

毎日のなにげないことをぼちぼち綴ります

父が亡くなってから

2010-08-27 18:04:57 | Weblog
16日が経ちました。

リアルタイムでは記事はどうしても書けなくて、前の記事にコメントを下さっていたぽんさんへのお返事で父が亡くなったことを報告させていただきましたが、コメントを読まない方もいらっしゃるでしょうから、あらためてご報告させていただきます。

8月11日、午前2時31分、ボンの父は永眠いたしました。

正確には、たぶん亡くなったのは2時頃です。
頃ですというのは、父が入院していたホスピスでは、とくに心拍計などをつけたりすることもなく、亡くなってからもお別れの時間を少し過ごしたあとに、医師がやってきて死亡を確認する形だったので、タイムラグがありました。





亡くなる日の前々日、父は入院していた国立病院から寝台車に乗って転院しました。
当日、主治医は夏休みのために留守で、それがボンの妹的には、よかったみたいです。妹はそうとう主治医の態度に腹を立てていて、投書箱にもクレームを書いて入れてたくらいでしたから、最期にお礼の挨拶なんてしたくなかったみたいです。

それでも、お世話になった看護士さんたちもいたし、エレベーターの前まで送ってくれて、頭を下げてくれていました。看護士さんたちにはきちんとお礼を言いました。



転院先のホスピスは、国立病院からは一時間ほどの場所にあるのですが、その間、父が急変したりしないかと、妹も私も少なからず緊張していました。

でも、父は思ったよりも呼吸も落ち着いていて、病院にいたときよりも楽そうな呼吸だったので、少し安心したり。


転院先は東京のK市にあるS病院の緩和ケア病棟でした。

緩和ケアの看護士さんや、ドクターにとても優しく迎えていただきました。

部屋は個室で、窓側に障子の戸があったり、ベッドも木目調の暖かい雰囲気で、小さなソファや冷蔵庫、ものをしまえるスペースも多く、リラックスできる雰囲気でした。

部屋に父が移されてから、主治医から呼ばれてお話がありました。

父の状態は、もう本当に最期のときに来ているということ、できるなら今晩からでも泊まってあげたほうがいいことなど。

こういう患者さんを沢山診てきた先生の言葉だけに、とても重みがありました。

そして、その日から妹が父の部屋に泊まることになりました(ボンはボンズを置いていけないので、すぐには泊まれませんでした)

部屋に戻ってから、妹の娘がやってきて、父を囲んで4人で記念写真を撮ってもらいました。
ここの病院は、入院するときに、そうやって写真をとるのだそうです。
後で写真を見せてもらうと、父は、殆ど意識がなかったはずなのに、ちゃんとカメラ目線で写っていて、ずっと苦しそうに開けていた口も写真では閉じて、すました顔をしていました(笑)



妹は、転院にも付き添って、そのまま病院にも泊り込み、夜は殆ど眠れなかったようで、翌日も私が病院に行く2時過ぎまで付き添っていました。私もその日以降は仕事を休むことにしていたので、翌日からは自分もボンズをなんとかして泊り込むつもりでした。妹は相当疲れていたようです。

父は、その日はお風呂に入れてもらったようで、ひげもあたってもらって、さっぱりしていました。
4月28日の入院から一度もお風呂に入れてあげられなかったので、きっと気持ちよかったと思います。

ただ、呼吸はどんどん苦しそうになっていました。

妹が、一旦家にもどって休んでいる間、私が父に付き添い、様子を見ていましたが、段々と呼吸が速くなっていくのがわかります。

時々、こちらのこえかけがわかるのか、手で合図をしてくれることもありましたが、だいたいは目をあけていても朦朧としているかんじで、痰がとても絡むので、とって欲しいと看護士さんに頼んで何回かとってもらうのですが、またすぐにゼロゼロしてしまいます。

痰の吸引をすると、本人は相当に苦しいので、最期が近い患者さんだと、急に呼吸の様子が変って、止まってしまうこともあるとかで、看護士さんも、とても慎重です。

そして、転院してきてから始めたモルヒネも、痰と咳を治める薬も、効いてはいるのでしょうけど、おいつかないというかんじで、モルヒネは急に量を増やすと、状態が変化することもあるらしいので、これも慎重に・・・なので、相変わらず、父はとても苦しそうでした。


夜、11時近くになって妹が旦那さんと一緒にやってきました。

父の様子を見ると、妹もやはり、もう今晩が危ないと思ったのか、私にも、このままここに残るか?ときいてきました。

私は家がとても近いので、(自転車で20分くらい)一度帰って、お嬢や旦那にもどうするかきいてくることにして、家に戻りました。

妹の旦那が車なので、お嬢を迎えに行ってくれるというので、私は、かえりがけに、お腹にいれるものを買って、急いで帰り、食べながらお嬢に、叔父さんがむかえにくるから一緒に病院にくるように伝え、旦那にももしものときは電話するから用意していてほしいと伝えて、病院に戻りました。


12時過ぎくらいだったと思います。お嬢も、二人の娘の子たちも病院について、みんなで父を見守っていました。

それからも、また呼吸が変り、殆ど息が吸えていないような、とても浅い呼吸になりました。

鼻の先や、足の先の血行が悪くなっているのか、白っぽくなっていて、触るとつめたくなってきています。


もうボンの旦那も、ボンズも呼んだほうがいいだろうということで、妹の旦那がまた車で迎えに行ってくれました。

妹が、『もうすぐ、ボンズも、〇〇さん(旦那)もくるから、じいちゃんもうちょっと頑張って!』と励ましていましたが、父は、ある瞬間から呼吸をしなくなってしまいました。

私たちがよびかけると、一回だけ、浅く息をしました。

そして、口を閉じると泡が出てきて、それきり完全に呼吸をしなくなりました。


こういうときに、なにを思ったらいいのか、どう考えたらいいのか、ほんとうにわからないものですね。

私は、荒涼とした場所にぽつんと置いていかれたような、ものすごい寂寥感で、体がしびれるくらいいたたまれなかったです。
父がまだそこにいるのに、ものすごく遠く感じました。
自分が見捨てられるような感覚になりました。

なぜなんでしょう?


しばらくの間、そこにいたみんなが泣いていました。

少し遅れて、ボンズや旦那たちがやってきて、買ってきてもらった日本酒で父の末期の水をとりました。




しばらくして、当直のドクターがやってきて、死亡確認していきました。
それが、2時31分でした。

それから看護士さんに介助をしてもらって、父の湯灌と、化粧を施しました。

アロマオイルの入ったお湯でタオルをぬらして、みんなで順番に体を拭いていきました。

(このときには、ボンズは旦那に家に連れて帰ってもらいました。まだ ボンズには、こういうときに長い間待っているということができないので)

とてもいい香りで、気持ちが癒されるように感じました。

お化粧も、もう一度ひげをきちんと剃って、クレンジングから乳液、下地もつけてあげて、ファンデーション、おしろいをつけると、亡くなってからどんどん悪くなっていた顔色がすっかり血色がよくなったように見えるのです。

口紅も、生前の唇の色に近いものを看護士さんが選んでつけてくれました。

仕上がった父の姿は、お世辞でなく男前でした。

亡くなると、筋肉の緊張がなくなるからなのか、顔に殆どシワがなくなってしまって、10歳くらいも若返った感じに見えました。

湯灌や、メイクのときは、みんな悲しいんだけど、なんだかヘンなテンションになっていて、やたら冗談を言って、父に話しかけたり、笑ったりしていました。







父の場合、通夜と告別式という形ではなく、亡くなった日の翌日の昼頃から、お別れ会をしました。

そして、そのまま斎場に運んで荼毘に附しました。

お別れ会も、ほんとうに家族だけで行いました。

父が、生前妹に少しそういう意向を話していたことがあるらしいのです。

なので、父は亡くなってから一日半であっというまに遺骨になりました。


妹も私も(特に妹)色々とやることがあって、じっくり悲しむ暇がなかったんですが、わたしはぼちぼち、一人のときに別れを惜しんでいます。

最期にお世話になったホスピスは、二日間だけでしたが、そこに父が入れてほんとうによかったと思っています。

父自身がどうだったかは、聞くことができる状態ではなかったけど、家族にとっては、ホスピスの対応がとても温かくて、満足のいくものでした。

特殊な施設だからか、ネットで見ても口コミなどもみかけないし、探している人にとってはなにを目安にすればいいのか、よくわからないと思います。

ホスピスがもっと一般的になれば、家族の心の負担も大分減るのかな、と思いました。






10月に、父の遺骨を、父の父母の遺骨があるお寺に納骨に行きます。
それまでにやらなくちゃならないことがあるので、これからぼちぼちやっていきます。

こうやって、父が亡くなった日のことを書くこともそのひとつでした。
自分にとってはやらなくちゃならないことだったので。


お嬢のHPにも、父のことでいろいろ記事があるので、そちらも合わせて読んでみてください。

http://lyze.jp/suzuran0918/diary/1/entry/67/?c=&d=


父の病状

2010-08-08 21:46:13 | Weblog
大変ご無沙汰してしまいました。

その間にもいろいろなことがありましたが、前々回に父の入院のことを書いたので、その後のことを書きたいと思います。

ごく軽い脳梗塞で、病院に入院していた父ですが、その後さらに二回の脳梗塞を起こして、片目は全く見えなくなり、もう片方もぼんやりとしかみえない状態になり、さらに、三回目の脳梗塞で、ほぼ寝たきりの状態になりました。

食物を口から摂取することもできなくなりました。

そして、以前から懸念されていた、膀胱の検査を7月のはじめにやっと受けることができたのですが、その結果が、末期の膀胱がん、そこから浸潤した前立腺の癌と言う最悪の結果になりました。

妹を相談して、緩和ケア病棟を申し込むのと同時に、セカンドオピニオンに相談したり、民間療法のクリニックを訪ねてみたりしたのですが、父の全身状態があまりにもよくないということで、どの治療も効果が期待できないという結果になり、あとは緩和ケアの治療をしていくだけということになりました。

三箇所ほどあたっていたうちの一箇所の入院許可が下りたので、明日父は転院します。

ボンの家からそう遠くないところにある閑静な緩和ケア病棟です。

そこで残りあまり多くは無い余生を父はすごすことになります。

これからは、痛みや苦しみをできるだけ軽減して、ゆったり過ごすことが目的です。

でも、父は、どこがどのくらい痛いのか、これからどういうことをしたいのかということも、自分から言うことができません。

言い残したいことも伝えられません。

それがとても気の毒です。

でも、今までの国立病院ではしてもらえなかった手厚い看護をきっとうけることができると思うので、ボンも父のもとにできるだけ行くようにして、最期のときをゆったりと過ごしてもらいたいと思います。


父が会いたいと思っている人に会えるように、ボンや妹で思いつく人については父にたずねて、お見舞いに来てくれるように頼みました。

昨日は私たちの母(父からすると離婚した元妻)がお見舞いに行ってくれました。

今日は、父の弟が滋賀県から二回目のお見舞いに来てくれました。

父は、アニメプロダクション時代の同僚に最期に会いたいという気持ちはないようです。
これも確認しました。

そのころのことというのは、父にとってある意味特別のことなんだと思います。

特別だからこそ、今の状況では合いたくないんじゃないかとボンは思います。


そのうち、父のアニメプロダクション時代のこともすこしづつ書いていこうと思います。







最近、やはり、ボンの小さい頃の父とのことをよく思い出します。
11歳くらまでしか一緒にくらしていなかったのですが、そこまででもいろんな思い出があります。

先日も妹と二人で父の枕元で、昔のことを話ました。

思春期には父とは暮らしていなかったのですが、ボンは今、軍曹に対して思春期の反抗期みたいな気持ちがあります。


父はさびしい人生ではありませんでした。

ボランティアで障害を持つ方と関わり、いろいろなお手伝いをさせてもらい、地域の方たちともそれなりにかかわって、普段は部屋にいることが多かったものの、ひきこもるようなこともなく、それだから、今最期を迎えようとするこのときも沢山の人から気にかけてもらって、見守ってもらっています。

父は幸せなんだと思います。

これからの日々、父が平和でおだやかであることを望みます。

私も、できるだけ心を乱さないで、穏やかに父と過ごして生きたいと思います。