ぼんすけ日記~イイカゲンな日々~

毎日のなにげないことをぼちぼち綴ります

じいじ、さようなら・・・・

2009-02-27 14:04:21 | Weblog
先週の土曜日、2月21日の午後8時24分に、ボンの実家の父が亡くなりました。
末期の肺がんでした。

ボンの実家の父は、母が再婚した相手で、母よりも10以上若かったので、まだ61歳でした。

昨年の7月に、熱が下がらないので、検査をしてもらったところ、肺がんとわかって、それも末期のステージ4ということで、余命1年くらいと告げられてしまいましたが、父には、余命のことは伏せても、ガンであることは伝え、抗がん剤の治療を勧めて、父も同意し、治療を続けていました。

でも、副腎にも転移していて、手術は不可能で、抗がん剤の治療も、多少の延命効果くらいしかないだろうということだったんです。

父は、時々仮退院で実家に戻って、母と過ごしたり、沖縄に旅行に行ったり、家の用事を自分でしたりと、体力が落ちても少しづつ色々なことをしていましたが、今年の正月明けに、温泉に旅行に行った後に、また入院してから、症状が進んで、先月お見舞いに行ったときは風邪をひいて40度以上の熱を出してしまって、ベッドに寝たきりになっていたり、その後一度こん睡状態になって呼びかけてもわからない、トイレも自分で行けない状態になったりと、危なかったのです。

それでも、持ち直して、意識も戻り、今月の15日には、お嬢が作ったバレンタインのチョコレートを持っていって、それを一つだけですが、食べて喜んでくれて、ニコニコしていました。

その週の金曜日(亡くなる前日)に、母から電話があって、呼吸が辛くなって、酸素マスクをつけていて、モルヒネも始めた。危ないから・・・といわれ、私は父の病院に行きました。

ベッドから動けない父は、痰のからんだ呼吸で苦しそうではありましたが、意識はしっかりしていて、こっちをみてうなずいて、ボンの話すこともちゃんと聞いていましたし、帰りに手を振って見送ってくれました。

臨終の当日の昼に、ボンの妹と、息子(孫)が会いに行って、そのときにもしっかりしていて、手を振って別れたと聞きました。

でも、その後急に容態が急変して、意識がなくなり、夜になって息を引き取りました。(ボンたち家族は、すぐにタクシーで病院に行きました)





通夜、告別式には、ボンズも参列させました。

どうなるか、心配でしたが、ボンズはその場の雰囲気に圧倒されたのか、ずっと大人しくしていて、大きな声を出すこともなく、通夜でも、告別式でも、きちんと焼香をして、参列者にお辞儀も(勿論軍曹が一緒について介助しましたが)していました。

悲しいお別れだけど、ボンズにはいい経験だったのかもしれません。

ボンズは、冷たくなったじいじの顔を撫でて、お花を棺の中に入れ、『じいじ、さようなら』とお別れの挨拶をしました。

どのくらいわかっているのかわかりませんが、ただならぬ雰囲気だけは伝わったと思います。



お嬢は、滅多に会わない親戚のおばちゃんたちに囲まれて、人気者でしたが、ちょうど年齢的に受験の時期なので、『高校は決まったの?』『受験生だね!』などと何度も聞かれて、ちょっと困っていました。

精進落としの席で、またまた同じことを何度も言われたお嬢が、早く帰りたがったのと、ボンズの頑張りも限界だったのとで、早めに引き上げて、ボンズの御褒美に、ヨーカドーでケーキや焼き鳥を買って、帰宅してからみんなでお疲れ様会をしました。

そうそう、今回、通夜、告別式に参列するために、軍曹の実家から軍曹の両親が上京してきていて、狭い我が家に三泊三日で泊まったので、ちょこっと大変でした。

お嬢の部屋を除くと、リビングの他に、リビングと襖だけで仕切られた六畳の和室が二部屋しかない我が家に人を泊めるのは大変です。

朝、起きてご飯の支度をするんでも、隣の義両親が寝ている部屋を気にしながらで、緊張しました。

軍曹の両親はいい人で、ボンは好きなのですが、こちらの家に泊めて、一緒に寝起きするとなると、色々あります。

義両親も、疲れたと思いますが、なんとか無事に帰って行きました。



今日は、ボンの母を誘って、イタリアンレストランで一緒にランチしました。
ランチしたダイニングレストランは『カルド』
お嬢の一歳の誕生日に、両親と妹家族とでお祝いをしたところです。
ボンは、14年ぶりに行きました。

ボンは、長いこと母と二人でランチするというようなことはありませんでした。
実は母のことをずっと苦手だったのです。
子供の頃からです。

でも、今回のことがあって、もっと母と普段から付き合っていこう、と思いました。

亡くなった父も、それを望んでいると思います。
たまには、誘って一緒にご飯を食べることにします。


母は、今年の夏、父が大好きだった沖縄の離島の海に、父の遺骨の一部を散骨に行きたいそうです。

そのときに、お嬢と、ボンの妹の息子を一緒に連れて行くと言っていました(お嬢も行くといっていました)




じいじ、さようなら。
沢山お世話になりました。
ボンも、迷惑ばかりかけてしまってごめんなさい。
一度もお父さんと呼ばなくてごめんなさい。
ボンたちと出会ってからは、いい人生でしたか?
ボンたち姉妹をちゃんとお嫁にだしてくれてどうもありがとう。
生きているうちに、親孝行できなくてごめんなさい。

またいつか会いましょう。


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14 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
安らかに (ぽん)
2009-02-27 19:07:23
無事に葬儀も滞りなくおくれてお父様もよろこんでおられるとおもいます。

まだ少し召されるには早い年齢だったかもしれませんが、家庭も持てて娘達に見送られて幸せな人生でしたよ。

お嬢さんにはおせっかいな親戚のおばちゃんたちは災難だったね。

ボンさんもお疲れ様でした。

お父様のご冥福をお祈りします。
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ぽんさん、コメントどうもありがとう! (ボン)
2009-02-27 20:42:51
父が、母と結婚したとき、年齢はまだ30代前半でした。

その年齢で、急に高校生の娘の父になるということは、本当に決心がいったことでしょう。

30年近くの間には、いろんなことがありました。
父が出て行ったこともありました。
でも、亡くなるそのときに父がボンと妹の父でよかったと思います。
父もそう思っていてくれたら嬉しいです。

お嬢は、もっと世間の波にもまれなければなりません。

どこに行っても、世間一般のものさしで見られるのですから、そのたびに凹んでいてはこれから生きていけません。
マイノリティーな生き方を選んだのだから、それなりの覚悟は持ってほしいです。
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ご冥福をお祈りします (あやの)
2009-02-27 22:36:49
61歳はまだ亡くなるのには早すぎる歳ですね。
お母様ひとりになって寂しいと思うので、
時々食事とか誘ってあげて下さいね。
72歳の姑は舅が亡くなって18年経ちますが、
寂しいみたいで・・・。
だからしょっちゅう我が家に来みたいです。

どこにでもうっとうしいおばさんっていますね。
私も親戚の集まり苦手です。
結婚、子供いろいろうっとうしかった。
いつも聞き流してました。
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ご冥福をお祈りいたします。 (aria)
2009-02-28 08:18:40
61歳とは随分若くして逝ってしまわれたんですね。家族に見守られながらの最期だったということですね。沖縄の海に散骨。素敵な儀式だと思います。ボンさんも忙しく大変でしたね。
いつかは必ず訪れる死をどうやって迎えるのか・・永遠の課題ですね。
お嬢さんやボンズ君もいろいろ考えることがあったでしょう・・・

めったにあわない親戚さんたちなら、答えにくい質問はその場で適当にあしらっておいていいと思います。向こうは挨拶みたいなつもりで言ってるんだと思うし・・・

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Unknown (Guppy)
2009-02-28 10:53:19
お父さま、残念でしたね。
でも、きっとボンさん達と過ごせて幸せだったと思いますよ。
実は、うちも姑が暮れの31日に亡くなりました。
納骨まで落ち着かない日々を送りましたが今は大分落ち着きました。
しばらくは慌ただしいでしょうが、どうかお身体を大切に。
ボンズ君も無理しません様に。
ご冥福お祈りいたします。
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Unknown (ノエル)
2009-02-28 15:37:20
お父様のこと、お悔やみ申し上げます。
最後にボンさんが、お父様に語りかけてる言葉に、じ~んときました。
そう言えるようになるまでには、きっといろいろおありだったでしょうね。
でも、ボンさんたちに見守られ、旅立つことができて、喜んでおられることと思いますよ。
ご冥福をお祈りいたします。

コメントへのお返事にある、お嬢さんに対しての
『どこに行っても、世間一般のものさしで見られるのですから、そのたびに凹んでいてはこれから生きていけません。
マイノリティーな生き方を選んだのだから、それなりの覚悟は持ってほしいです。』
を読んで、ボンさん、すごいな~と思いました。
また、お母様との距離が、少し縮まったりと、いろいろ考えられたのでしょうね。
ボンさんも、お疲れ様でした!
お体に気をつけてくださいね。

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大変でしたね (留美)
2009-02-28 18:25:53
ご愁傷様でした。
良いお父さんだったのですね。
ちょっと早いお別れでしたが、最後まで
皆さんとお別れできて良かった。
私の実父も同じ年で亡くなりました。
私が中学生の頃、脳疾患で倒れて20年。
入退院の繰り返しで、あまり思い出がなく、
ぼんさんが羨ましいです。

お母さんとランチ。ステキです。
お父さんには何よりの供養だと
思います。ぼんさんの暖かい気持、きっと
お父さんにも通じるはず。
看病お疲れ様でした。
無理せずゆっくり休んでください。
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コメントどうもありがとうございます! (ボン)
2009-03-01 18:48:56
あやのさん
あやのさんのお姑さんも、未亡人でしたね。お寂しいでしょうね、それで息子っちくんにしょっちゅう会いにくるんですよね。
母は、もともと割烹料理中心の飲み屋さんをしているので、父がいなくなっても、一人っきりで寂しいと感じるのは、休日家にいるときくらいだと言っていました。
それでも、最近はずっと毎日病院に通い続けていて、それがばったりなくなって、気が抜けていると思います。
月に一度くらいは誘って一緒にご飯を食べようと思っています。

お嬢に対しての親戚の言葉は、なにも特別なものではなくて、挨拶のようなものです。
お嬢にもそういう風に言って聞かせ、これからもどこでもそういうことはあるのだ、と言いました。
なんでも避けて通っていたら、生きていけないですよね。


ariaさん
父が、火葬場の釜から出されてきたときに、母は悲鳴を上げていました。
ショックだったんでしょうね。
骨になってしまうと、本当に人間って小さくなってしまうから。

みんなで拾骨して、最後に残った灰を母は、ティッシュに包んでしまっていました。

じいじは、海が大好きだったから、沖縄の海にまいてあげるのは本当にいい供養になると思います。


Guppyさん
Guppyさんのところも、お義母さんが亡くなられたんでしたよね。
お疲れ様でした。
年末の忙しい時期で大変でしたね。
ようやく落ち着いたところですか。

ボンズは、予想以上に頑張りすぎたせいか、このところ不調です。
三日くらい前から、熱をだしたり、ちょっと下がったり、今日も39度近くまで上がってしまったので、休日診療の病院に行ってきました。
インフルエンザではないようですが、つらそうです。
早く治るといいんですが・・・。


ノエルさん
ボンの母が、父と暮らすようになった最初のころ、まだ父は、30代の前半で、とても高校生の娘二人の父親に・・・なんて思えなかったことでしょう。
それでも、頑張って働いて、ボンも妹もきちんとお嫁に出してくれました。
あまりにも若かった父をどうしてもお父さんと呼べなくて、母が呼んでていた愛称で呼び続けてしまい、子供が生まれてからはずっとじいじと呼んでいました。
それでよかったのかどうか、今もわかりませんが・・・。

お嬢は、これから世間のいろんな目にさらされると思うし、揉まれていくことでしょう。
いつまでも親が守ってやれるわけではないことも、本人もわかっていると思います。
少しづつ、世の中のことを学んでいって欲しいです。


留美さん
お久しぶりです。
留美さんのお父様も、うちの父と同じ年に亡くなったんですね。
61歳というのは、本当にまだまだ若いです。
父は、仕事をリタイヤしたあとに、沖縄の離島に移り住みたかったようです。
自然が大好きで、海が大好きな父でした。
母とは、今まではあまり付き合いをしていなかったのですが、これからはもっと会って話しをしようと思っています。
父がそう仕向けてくれたのかもしれませんね。







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私も。。 (なぎ)
2009-03-01 21:53:38
ボンさん大変だったのですね、お悔やみ申し上げます。
ボンさんとはこんな所にも共通点が、、
実は私の実家の父も私が高校生の頃の再婚で、母よりも7つ年下の30代でした。
30代の初婚でいきなり2人の子持ちになるのは大変だったと思いますが、私も色々と複雑な気持ちを持ち続けて今に至ってます。
3日前に狭心症のため入院していて、大事には至りませんでしたが、ボンさんのこの日記を読んで私も考えさせられました。

でもボンさんはちゃんと親孝行したんだと思うし、お父様もきっと天国で喜んでいると思いますよ!
これからはお母様との交流も楽しんでいけるといいですね♪
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何と言って良いか・・ (ふじこー)
2009-03-01 23:44:55
まずは、お父様のご冥福をお祈りします。

ボンさん、お疲れ様でしたね。お父さん、気持ち分かってましたよ、きっと。
これからいつも見守ってくれていると思います。
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