ぼんすけ日記~イイカゲンな日々~

毎日のなにげないことをぼちぼち綴ります

父の四十九日法要と納骨

2010-10-15 20:52:40 | Weblog
今月、3日に無事父の四十九日の法要を済ませました。

父の母(祖母)の法要もやっていただいた近くのお寺で、妹が法要のことなどをちょっと聞こうと思って電話をしたところ、住職さんから、どうして亡くなってすぐに知らせてこなかったんだ、と叱られてしまったそうです。

でも、そこのお寺のことを思い出したのは、父のお別れ会が清んでしばらくしてからだったんですよね。


たぶん、一周忌などはまたお世話になると思います。

ボンズもきちんと参列できました。

そして納骨ですが、普通ならお墓に入れるのでしょうけど、祖母や祖父の遺骨は大阪にある一心寺に納骨をしたので、父の遺骨もそこに納骨しようともう亡くなる少し前から妹とは話し合っていました。

一心寺は、納骨されたお骨を砕いて、それで10年に一体、仏様を建立して開眼、供養してくれるのです。

父にとって子供は私と妹、娘二人だし、自分の親の墓もありません。

今後、私たちが父の墓を建てても、私たちが亡くなれば、誰も供養してくれない。

一心寺なら、仏様になった形で、今後永遠に供養してもらえるし、私たちもお寺にお参りして、仏様を拝むことで、父の墓参りになる。

こういう供養のしかたは抵抗がある方もいると思いますが、私たちはそうすることに決めました。


一心寺には、私と妹、お嬢の三人で行きました。

土曜日の朝に出発して、その日の午後に叔父夫婦とお寺で待ち合わせて、供養、納骨を済ませました。


今回は、納骨のほかにも、大阪で美味しいものを食べて、どこかちょっと見てまわりたい・・・と事前に妹と話していたので、夕方に宿に着いて、少し休んでからは、夕食は、焼肉を食べようと、鶴橋の焼肉屋街に出かけました。。


妹が知っているお店に入って、三人で思う存分焼肉を堪能しましたよ!

普段小食のお嬢もよく食べて、びっくりしたのが、初体験のユッケがものすごく気に入った様子で、一人前を一人でペロッと平らげたことです。

三人、お腹一杯で満足でした焼肉もすごく美味しかったです。


お店は、鶴橋駅近くにある『吉田』
肉がジューシーで美味しかった!!父も一緒に食べてたかな~?



そして、二日目は奈良方面に出かけ、手前にある門真駅というところにある三井アウトレットモールを見て歩きました。

まあ、ウインドウショッピングのつもりだったんですが、お嬢を連れていたので、妹と二人で、こういうの着てみればとか前日にポシェットが壊れたので、それも買って・・・とついついお嬢に色々と買ってしまって、散財しました・・・・・。


お昼ごはんは、焼きそば、たこ焼き、モダン焼きを三人で分けて食べました。

一泊だったけど、満喫した~~~~!!

じいちゃんこういう機会をくれてどうもありがとう!!!



しかし、この旅行のために福祉センターに一泊で預けていたボンズが、なんと最後の最後で脱走して、近くguに入り込み、非常ボタンを押してしまったのでした。

店長さんがとても理解のある方で、なんとボンズを福祉センターまで送ってきてくれたのです(私の携帯に店長さんから電話が入りました。ボンズには電話番号などを書いたバッジをつけています) 
あとでボンズと謝りに行くと、本当にやさしく対応してくださって、ボンズが勝手に履いてしまった売り物の室内履きのお金だけ払ってあとはお咎めはなしでした。
それどころか、今後もなにかあれば対応しますから、とまでおっしゃってくれて、もう泣きそうでした。


つくづくボンズは地域の人たちに支えられて生活しているんだな・・・と感謝しました。




そんなこともありましたが、父の知人たちに死亡の通知も郵送したし、四十九日、納骨も済ませ、父のことはひと段落しました。


父もホッとしてるかな。

ボンズが逃げたときは、どこかから見ていてハラハラしていたかもしれません。








・・・・・ほんとにもう父はいないんだなあ・・・・・どこにも。

父が亡くなってから

2010-08-27 18:04:57 | Weblog
16日が経ちました。

リアルタイムでは記事はどうしても書けなくて、前の記事にコメントを下さっていたぽんさんへのお返事で父が亡くなったことを報告させていただきましたが、コメントを読まない方もいらっしゃるでしょうから、あらためてご報告させていただきます。

8月11日、午前2時31分、ボンの父は永眠いたしました。

正確には、たぶん亡くなったのは2時頃です。
頃ですというのは、父が入院していたホスピスでは、とくに心拍計などをつけたりすることもなく、亡くなってからもお別れの時間を少し過ごしたあとに、医師がやってきて死亡を確認する形だったので、タイムラグがありました。





亡くなる日の前々日、父は入院していた国立病院から寝台車に乗って転院しました。
当日、主治医は夏休みのために留守で、それがボンの妹的には、よかったみたいです。妹はそうとう主治医の態度に腹を立てていて、投書箱にもクレームを書いて入れてたくらいでしたから、最期にお礼の挨拶なんてしたくなかったみたいです。

それでも、お世話になった看護士さんたちもいたし、エレベーターの前まで送ってくれて、頭を下げてくれていました。看護士さんたちにはきちんとお礼を言いました。



転院先のホスピスは、国立病院からは一時間ほどの場所にあるのですが、その間、父が急変したりしないかと、妹も私も少なからず緊張していました。

でも、父は思ったよりも呼吸も落ち着いていて、病院にいたときよりも楽そうな呼吸だったので、少し安心したり。


転院先は東京のK市にあるS病院の緩和ケア病棟でした。

緩和ケアの看護士さんや、ドクターにとても優しく迎えていただきました。

部屋は個室で、窓側に障子の戸があったり、ベッドも木目調の暖かい雰囲気で、小さなソファや冷蔵庫、ものをしまえるスペースも多く、リラックスできる雰囲気でした。

部屋に父が移されてから、主治医から呼ばれてお話がありました。

父の状態は、もう本当に最期のときに来ているということ、できるなら今晩からでも泊まってあげたほうがいいことなど。

こういう患者さんを沢山診てきた先生の言葉だけに、とても重みがありました。

そして、その日から妹が父の部屋に泊まることになりました(ボンはボンズを置いていけないので、すぐには泊まれませんでした)

部屋に戻ってから、妹の娘がやってきて、父を囲んで4人で記念写真を撮ってもらいました。
ここの病院は、入院するときに、そうやって写真をとるのだそうです。
後で写真を見せてもらうと、父は、殆ど意識がなかったはずなのに、ちゃんとカメラ目線で写っていて、ずっと苦しそうに開けていた口も写真では閉じて、すました顔をしていました(笑)



妹は、転院にも付き添って、そのまま病院にも泊り込み、夜は殆ど眠れなかったようで、翌日も私が病院に行く2時過ぎまで付き添っていました。私もその日以降は仕事を休むことにしていたので、翌日からは自分もボンズをなんとかして泊り込むつもりでした。妹は相当疲れていたようです。

父は、その日はお風呂に入れてもらったようで、ひげもあたってもらって、さっぱりしていました。
4月28日の入院から一度もお風呂に入れてあげられなかったので、きっと気持ちよかったと思います。

ただ、呼吸はどんどん苦しそうになっていました。

妹が、一旦家にもどって休んでいる間、私が父に付き添い、様子を見ていましたが、段々と呼吸が速くなっていくのがわかります。

時々、こちらのこえかけがわかるのか、手で合図をしてくれることもありましたが、だいたいは目をあけていても朦朧としているかんじで、痰がとても絡むので、とって欲しいと看護士さんに頼んで何回かとってもらうのですが、またすぐにゼロゼロしてしまいます。

痰の吸引をすると、本人は相当に苦しいので、最期が近い患者さんだと、急に呼吸の様子が変って、止まってしまうこともあるとかで、看護士さんも、とても慎重です。

そして、転院してきてから始めたモルヒネも、痰と咳を治める薬も、効いてはいるのでしょうけど、おいつかないというかんじで、モルヒネは急に量を増やすと、状態が変化することもあるらしいので、これも慎重に・・・なので、相変わらず、父はとても苦しそうでした。


夜、11時近くになって妹が旦那さんと一緒にやってきました。

父の様子を見ると、妹もやはり、もう今晩が危ないと思ったのか、私にも、このままここに残るか?ときいてきました。

私は家がとても近いので、(自転車で20分くらい)一度帰って、お嬢や旦那にもどうするかきいてくることにして、家に戻りました。

妹の旦那が車なので、お嬢を迎えに行ってくれるというので、私は、かえりがけに、お腹にいれるものを買って、急いで帰り、食べながらお嬢に、叔父さんがむかえにくるから一緒に病院にくるように伝え、旦那にももしものときは電話するから用意していてほしいと伝えて、病院に戻りました。


12時過ぎくらいだったと思います。お嬢も、二人の娘の子たちも病院について、みんなで父を見守っていました。

それからも、また呼吸が変り、殆ど息が吸えていないような、とても浅い呼吸になりました。

鼻の先や、足の先の血行が悪くなっているのか、白っぽくなっていて、触るとつめたくなってきています。


もうボンの旦那も、ボンズも呼んだほうがいいだろうということで、妹の旦那がまた車で迎えに行ってくれました。

妹が、『もうすぐ、ボンズも、〇〇さん(旦那)もくるから、じいちゃんもうちょっと頑張って!』と励ましていましたが、父は、ある瞬間から呼吸をしなくなってしまいました。

私たちがよびかけると、一回だけ、浅く息をしました。

そして、口を閉じると泡が出てきて、それきり完全に呼吸をしなくなりました。


こういうときに、なにを思ったらいいのか、どう考えたらいいのか、ほんとうにわからないものですね。

私は、荒涼とした場所にぽつんと置いていかれたような、ものすごい寂寥感で、体がしびれるくらいいたたまれなかったです。
父がまだそこにいるのに、ものすごく遠く感じました。
自分が見捨てられるような感覚になりました。

なぜなんでしょう?


しばらくの間、そこにいたみんなが泣いていました。

少し遅れて、ボンズや旦那たちがやってきて、買ってきてもらった日本酒で父の末期の水をとりました。




しばらくして、当直のドクターがやってきて、死亡確認していきました。
それが、2時31分でした。

それから看護士さんに介助をしてもらって、父の湯灌と、化粧を施しました。

アロマオイルの入ったお湯でタオルをぬらして、みんなで順番に体を拭いていきました。

(このときには、ボンズは旦那に家に連れて帰ってもらいました。まだ ボンズには、こういうときに長い間待っているということができないので)

とてもいい香りで、気持ちが癒されるように感じました。

お化粧も、もう一度ひげをきちんと剃って、クレンジングから乳液、下地もつけてあげて、ファンデーション、おしろいをつけると、亡くなってからどんどん悪くなっていた顔色がすっかり血色がよくなったように見えるのです。

口紅も、生前の唇の色に近いものを看護士さんが選んでつけてくれました。

仕上がった父の姿は、お世辞でなく男前でした。

亡くなると、筋肉の緊張がなくなるからなのか、顔に殆どシワがなくなってしまって、10歳くらいも若返った感じに見えました。

湯灌や、メイクのときは、みんな悲しいんだけど、なんだかヘンなテンションになっていて、やたら冗談を言って、父に話しかけたり、笑ったりしていました。







父の場合、通夜と告別式という形ではなく、亡くなった日の翌日の昼頃から、お別れ会をしました。

そして、そのまま斎場に運んで荼毘に附しました。

お別れ会も、ほんとうに家族だけで行いました。

父が、生前妹に少しそういう意向を話していたことがあるらしいのです。

なので、父は亡くなってから一日半であっというまに遺骨になりました。


妹も私も(特に妹)色々とやることがあって、じっくり悲しむ暇がなかったんですが、わたしはぼちぼち、一人のときに別れを惜しんでいます。

最期にお世話になったホスピスは、二日間だけでしたが、そこに父が入れてほんとうによかったと思っています。

父自身がどうだったかは、聞くことができる状態ではなかったけど、家族にとっては、ホスピスの対応がとても温かくて、満足のいくものでした。

特殊な施設だからか、ネットで見ても口コミなどもみかけないし、探している人にとってはなにを目安にすればいいのか、よくわからないと思います。

ホスピスがもっと一般的になれば、家族の心の負担も大分減るのかな、と思いました。






10月に、父の遺骨を、父の父母の遺骨があるお寺に納骨に行きます。
それまでにやらなくちゃならないことがあるので、これからぼちぼちやっていきます。

こうやって、父が亡くなった日のことを書くこともそのひとつでした。
自分にとってはやらなくちゃならないことだったので。


お嬢のHPにも、父のことでいろいろ記事があるので、そちらも合わせて読んでみてください。

http://lyze.jp/suzuran0918/diary/1/entry/67/?c=&d=


父の病状

2010-08-08 21:46:13 | Weblog
大変ご無沙汰してしまいました。

その間にもいろいろなことがありましたが、前々回に父の入院のことを書いたので、その後のことを書きたいと思います。

ごく軽い脳梗塞で、病院に入院していた父ですが、その後さらに二回の脳梗塞を起こして、片目は全く見えなくなり、もう片方もぼんやりとしかみえない状態になり、さらに、三回目の脳梗塞で、ほぼ寝たきりの状態になりました。

食物を口から摂取することもできなくなりました。

そして、以前から懸念されていた、膀胱の検査を7月のはじめにやっと受けることができたのですが、その結果が、末期の膀胱がん、そこから浸潤した前立腺の癌と言う最悪の結果になりました。

妹を相談して、緩和ケア病棟を申し込むのと同時に、セカンドオピニオンに相談したり、民間療法のクリニックを訪ねてみたりしたのですが、父の全身状態があまりにもよくないということで、どの治療も効果が期待できないという結果になり、あとは緩和ケアの治療をしていくだけということになりました。

三箇所ほどあたっていたうちの一箇所の入院許可が下りたので、明日父は転院します。

ボンの家からそう遠くないところにある閑静な緩和ケア病棟です。

そこで残りあまり多くは無い余生を父はすごすことになります。

これからは、痛みや苦しみをできるだけ軽減して、ゆったり過ごすことが目的です。

でも、父は、どこがどのくらい痛いのか、これからどういうことをしたいのかということも、自分から言うことができません。

言い残したいことも伝えられません。

それがとても気の毒です。

でも、今までの国立病院ではしてもらえなかった手厚い看護をきっとうけることができると思うので、ボンも父のもとにできるだけ行くようにして、最期のときをゆったりと過ごしてもらいたいと思います。


父が会いたいと思っている人に会えるように、ボンや妹で思いつく人については父にたずねて、お見舞いに来てくれるように頼みました。

昨日は私たちの母(父からすると離婚した元妻)がお見舞いに行ってくれました。

今日は、父の弟が滋賀県から二回目のお見舞いに来てくれました。

父は、アニメプロダクション時代の同僚に最期に会いたいという気持ちはないようです。
これも確認しました。

そのころのことというのは、父にとってある意味特別のことなんだと思います。

特別だからこそ、今の状況では合いたくないんじゃないかとボンは思います。


そのうち、父のアニメプロダクション時代のこともすこしづつ書いていこうと思います。







最近、やはり、ボンの小さい頃の父とのことをよく思い出します。
11歳くらまでしか一緒にくらしていなかったのですが、そこまででもいろんな思い出があります。

先日も妹と二人で父の枕元で、昔のことを話ました。

思春期には父とは暮らしていなかったのですが、ボンは今、軍曹に対して思春期の反抗期みたいな気持ちがあります。


父はさびしい人生ではありませんでした。

ボランティアで障害を持つ方と関わり、いろいろなお手伝いをさせてもらい、地域の方たちともそれなりにかかわって、普段は部屋にいることが多かったものの、ひきこもるようなこともなく、それだから、今最期を迎えようとするこのときも沢山の人から気にかけてもらって、見守ってもらっています。

父は幸せなんだと思います。

これからの日々、父が平和でおだやかであることを望みます。

私も、できるだけ心を乱さないで、穏やかに父と過ごして生きたいと思います。




バースデーカラオケだった

2010-05-30 22:11:49 | Weblog
今日、実は私の誕生日でした。
何歳になったかって?いや~~~もういい年ですよ!だって16歳と14歳の子の母ですよ?
推して知るべしってことですよ!
15歳で長女を産んでいれば今まだ31歳ですけどね。そんなドラマティックな人生ではなかったし、どっちかというと結婚したの遅かった?今の時代はそうでもないけど、当時は遅いほうだったな。

というわけで、今日はたっての自分の希望通り、家族でカラオケに行ってきました。

うちの場合、カラオケに行くなら、ジョイサウンドのとこじゃないと駄目なんですよね。
いろんな機種があるなかで、ジョイサウンド。
なぜかというと、他の機種だと、ボーカロイド系の曲が歌えないのです。
お嬢も私も、全体のほぼ9割がボカロ曲なので、ジョイは必須です。

今日の私のセットリストですが、もうあんまり覚えてない。
終わってしまうと忘れるほうなので・・・・。

覚えてるだけアップしてみます。


※マジックナンバー(アニメ、こばと。の主題歌)
※プラチナ(アニメ、カードキャプターさくらの主題歌)
※魔理沙は大変なものを盗んでいきました(東方の二次創作曲らしい)
※炉心融解(ボカロ、鏡音リンの曲)
※ピアノ×フォルテ×スキャンダル(ボカロ、MEIKOの曲、OSTER・Project)
※恋色病棟(ボカロ、初音ミクの曲、OSTER・Project)
※ダンシング・サムライ(ボカロ、がくっぽいどの曲)
※サンドリヨン(ボカロ、初音ミク、KAITOの曲、お嬢とデュエット)
※ググレカス(ボカロ、がくっぽいど、巡音ルカの曲、お嬢とデュエット)
※オワタ(ボカロ、初音ミクの曲)
※ロミオとシンデレラ(ボカロ、初音ミクの曲)
※亡国覚醒カタルシス(アリプロの曲)
※メリッサ(ポルノグラフィティ、鋼の錬金術師の主題歌)
※ガッチャマンの主題歌
※修羅礼賛(ボカロ、初音ミクの曲)
※ハト(ボカロ、初音ミクの曲)


ほんとはヒャダインさんの曲、スーパーマリオでウエスタンショーとかゴルベーザ四天王とか歌いたいんだけど、ゲームのアレンジ曲って著作権の問題もあるし、たぶんカラオケにはならないよね・・・・。


やっとこれだけ思い出した・・・・今回はいつもの今井美樹とかユーミンとか歌わなかったなあ・・・それも歌おうと思ったら、三時間じゃ足りない。
四人で三時間ってどんだけ短いんだよ~~~~。

次回はボカロ曲ばかりじゃなくて、懐かしアニソンとか、昔の歌謡曲とか歌おうかな。
五番街のマリーとかジョニーへの伝言とか勝手にしやがれとかいいよね~~。

うわ~~~年齢が!!!ばれる!!!

でも、30代のいさじさんも懐かし歌謡をよく歌ってるし、年齢じゃなもんね。

いさじさんといえば、カラオケで歌うのをニコ生で配信してくれていたのですが、なんか通信量がバカにならないとかで、休止するそうです。
せっかくニコニコ動画のプレミアム会員になったのに、残念・・・・。



なんか今回はとくに超マニアックな内容でスミマセン。
いつもコメントくださっている方たちもさすがに今回の記事にはコメントしずらいことでしょう。

もうスルーしちゃってください。



そうそう、ボンズも5曲くらい歌いましたよ。

彼は、YouTubeでなぜかボカロ曲をよく聴いてまして・・・・私やお嬢の影響なのかはわからないです。本人に確かめようがないからね。

でも、『ミクの曲』とか言いながら検索してるしなあ・・・・(笑)

どっから見つけてくるのか、初音ミクやリン、レンが歌っている、『翼をください』とか『旅立ちの歌』とかよく観てて、『オワタ』もボンズが観てたやつなんですよね。

家族でボカロ厨ってとこですね。

軍曹は興味なさそうで、今回も超懐メロばっか歌ってましたけど。

次回はお嬢と二人で行って、5時間は歌いたいです。



誕生日プレゼントですが、お嬢がメガネくれました。
本を読む用の老眼鏡・・・・・そうだよ・・・・私はもともと遠視だったんで、早いうちから老眼なんだよ~~~~~~ばかやろ~~~~~!!・・・・・はっ・・・・取り乱して申し訳ありませんでした。


ボンズがカラオケでハッピーバースデーの歌を歌ってくれました!
でも、はっぴばーすでーでぃあぼんず~って自分の名前言ってたけどね(笑)


帰りにいつもの琴海でラーメン食べてきました。
楽しい誕生日になりました。


久しぶりの更新&父の入院

2010-05-15 23:19:35 | Weblog

一ヶ月以上放置していましたが、ボンは元気です!

ただ、先月末から父が入院しています。

軽い脳梗塞になってしまって、右半身が不自由になりました。

最近リハビリが始まって、かなり手足も動くようになったのですが、つい三日ほど前に左の目の奥の血管が詰まってしまって、その後遺症により、左目がほとんど見えなくなりました。

これは、今後回復が難しいそうです。

手術などの治療法もあるようですが、それほどの効果は望めないそうだし、感染などのリスクもあるそうなので、あまり勧められないというようなことでした。

 

結局、目のマッサージと、血行を促す薬品の点滴だけをすることになりました。

まだ片目だけの状態になれない父。

見えなくなったこともショックだし、見えない状態にも不自由を感じていて、落ち込んでいました。

あさってまた病院に行きますが、ちょっと慣れているといいな。

 

 

父の知人関係のごく一部にメールで入院のことを知らせたら、何人かお見舞いに来てくれました。

父は、以前肢体不自由の方の介助のボランティアをしていたり、精神障害の方の作業所に出入りしていたことがあったので、そういった関係の方がお見舞いに来てくださいました。

あとは、中学の同級生で地方に住んでいらっしゃる方が、父と連絡がとれないことを心配して、電報を打ってくれたり、都内の同級生に頼んで父の家まで様子を見にきてくれたりと、ほんとうにありがたいことでした。

 

今回ちょっと悩んでいるのは、父の昔の仕事仲間に知らせたほうがいいのかどうか、ということです。

というのも、わりと最近父は、昔の仕事仲間と同窓会的に会ったりする機会が何回かあって、そういう知人とも連絡をとっていたからです。

 

個人を特定されるとまずいので、詳しくはかけませんが、父は数十年前あるアニメプロダクションの代表をしていました。

名前を聞けば、ある年代までの方ならば絶対に知っているプロダクションです。

そこで仕事をしていたときの仲間はいわば父にしてみれば戦友なんじゃないかと思うのです。

一時はその頃の 仲間と会うことをためらっていた父ですが、数年前くらいに同窓会的なものがあり、誘われたこともあって父は当時の仲間と再会しました。

その後も数回父の住居の最寄駅近くまで仲間が来てくれたりして、旧交を深めたようです。

そのときの会社は父が代表のときに倒産してしまったこともあって(それがきっかけで父と母は離婚しました)いろんな確執もあったようです。

私には計り知れない複雑なことがあるので、今回のことを簡単に昔の仲間に知らせていいものかどうか、悩むところです。

本人に聞くのが一番いいのかもしれないけど・・・・。

 

 

 

 

 

話しは変わりますが、前回のブログで紹介したニコニコ動画で活躍しているヒャダインさんが、先日、自分はプロの音楽家であることをカミングアウトしました。

アニメ、『ワンピース』の曲を作曲したりしている、かなりメジャーな方でした。

正直、びっくりしたし、数日はニコニコのヒャダインさんの動画のコメントはかなり荒れていました。

カミングアウトの必要があったのか?など賛否両論あるようですが、私はこれからもヒャダインさんを応援したいと思います。

そして、今日、カミングアウトしてから初のヒャダインさんの新曲がアップされました。

今回はゲーム曲のアレンジではなくて、オリジナルです。

POPで可愛いアイドル曲になっていますが、歌っているのはもちろんヒャダインさんご本人!というのがすごい!

ワシャシャシャ SMILEx3

ニコニコ動画なので、アカウントがない人は見れませんが、見れる人は是非!

 

ちなみに、ヒャダインさん、カミングアウトしてからは、中身の人のHPも公表していました。

本人画像も出ていましたが、かなりのイケメン!

それにすごいお洒落さんでした。

 

 

そんなこんなでボンはあいかわらず元気です(朝以外はね)

お嬢もボンズも元気です。