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エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

不動滝へ

2012-05-23 | 街中散歩

 おそらく20年ぶりくらいだろう。自転車で滝沢不動滝(別名:白糸の滝)へ行った。

 旧滝沢本陣を真っ直ぐ東へ、不動川林道へ入る。林道から神社への参道入り口までは2、,300メートルか、滝への下り口に新しい石碑が建っていた。

「第18番観世音菩薩 不動尊 白糸神社 北向稲荷神社 参道」と彫ってあった。

 参道の両脇には赤いのぼり「南無不動明王」が数十本、滝まで続いていて、昔より大分整備されていた。

娘が小さいころ、ここで蜂に刺されたことを思い出した。

 

 滝に向かって右側に白糸神社が、橋を渡り左手に滝沢観音堂、右手滝の左に滝沢不動尊が建っている。

ひんやりする林の中で、それぞれに手を合わせた。

****************

観音堂は慶安3年一箕山の八幡神社に建立され、それ以後、観音堂は神社内にあるにもかかわらず会津観音18番札所として一箕山滝沢寺と呼ばれるようになる。

つまり一箕山滝沢寺は、神仏混合の神社だった。しかし、明治期の廃仏毀釈によって現在の滝沢不動院内に移された。

       滝沢の落ちて流るる滝の水
               かかる末々弥勒なるらん
 
   

****************     

左が観音堂                                   不動明王                

 

今朝はヒメシロチョウの分布調査だが、ほとんどツマキチョウだった。

他には、日当たりの良い林道に、カラスアゲハ、オナガアゲハ、テングチョウが吸水に来ていた。

 

 チョウの種類が少ないのは、杉が主体の山だからだろうか。

 帰路、林道の入り口のO大先輩を訪ねたが、ひっそりしていて、お留守だった。もう85才位になられるだろうか、お元気だろうか。

 何年もお会いしていない思い出の先輩だ。

 自転車で家を出たのが 9時過ぎ、10時半にはもう帰宅できた。
 日中晴れていたが、午後からは風が出てきて肌寒い一日となった。
 天気の良い日には、なるべく歩くようにしたいが、明日は何処へ・・・・。

日記@BlogRanking

 


左下り観音

2012-05-10 | 街中散歩

  いつも我が家の近くの里山を巡っているが、きのうは市内の南、門田御山の里山を目指した。ヒメシロチョウの分布状況を知りたかった。
 穏やかな日だったが、チョウは少なかった。でも、知らない土地を訪ねる楽しさはあった。

御山地区は身知らず柿の産地、普段は国道から柿畑をみていたが、地区に入ると山の裾野一帯に広大な柿畑が広がっていた。

何軒もの果樹園の表示があった。柿畑の中に郷社八幡神社にお参りした。

 

 

  さらに南へ向かうと、堤沢字上村に会津五薬師の南方薬師 野寺薬師があった。説明板には徳一菩薩が東西南北と中央に五薬師を創設した、とあった。

  

中央薬師は勝常寺、東方薬師は慧日寺だ。そもそも徳一が薬師信仰を会津にもたらした理由は2つある。1つは、法相宗の信仰対象が薬師如来であったこと、2つは、薬師如来は人々が生きている間、病気や災いから守ってくれるものであるため、死後の世界を守る阿弥陀如来などの信仰よりもわかりやすく、人々に広く浸透しやすいものだったという。

 大戸方面に向かうと鹿嶋神社があった。急な石段を登ってお参りした。

しばらく馬越しまでの山沿いを歩くと、かなり翅の傷んだクジャクチョウがまだ元気に飛び回っていた。今年初めてヒガシカワトンボをみた。 

たまに舞ってくるシロチョウはツマキチョウとスジグロシロチョウのようで、ヒメシロチョウには会えなかった。

 

 家から5,6キロか、折角ここまで来たので、本郷を回って帰ることにした。
 馬越のまこと橋を渡った。橋のたもとに小さな取水施設があったが、新しいもののようだ。

 

 

昔、会工の競歩大会は、蟹川橋から大戸の馬越しを通り、本郷を走る、約20キロのコース、この付近の監督をしたことを思い出した。

その頃はアユのヤナ場があって、子供たちが小さいころにここで塩焼きを食べたことが浮かんできた。

 本郷方面へ進むと、左下り観音入り口の表示、そうか、会津33観音の21番札所として有名なところ、急ぐ旅でもないので参拝することにした。

観音堂まで約1000メートルという表示、急な坂道を上り始めると、今年初めて見るミヤマセセリが先導してくれた。

 

まだ、ヤマツツジはつぼみが膨らんだところ、山道にイカリソウやスミレががきれいに咲いていた。

岩肌の見える山道を進むと、途中に 「うがい清水のアカマツ」の標識、でも、樹齢550年とあるアカマツは苔むした切り株だけが残っているだけだった。

    

 
 

少し汗ばんできたころ、急に左手の岩にへばりつく観音堂が現れた。

通称左下りが原の山腹に、高さ15メートルの3階建て、広さ36㎡の観音堂が厳然と聳えていた。趣きある観音だ。830年徳一の建立と伝えられている。

 
  柱に手をやると、長い年月風雪に耐えた古い木材のぬくもりが感じられた。古くて乾燥した木材は強度も優れていると聞く。

わずか30年前後で解体してしまう最近の住宅とは、比べようもない重みがあった。もっと木の命を大切にしなければならない。

 

 

  
  三十三観音巡りは、保科正之が会津の領主となった際に三十三カ所の霊場を会津領内に選んだのが始まりといわれている。(霊場・観音堂自体はそれ以前から存在)
当時は伊勢参宮や熊野神社参拝、西国三十三札所順礼などに出向く者が多く、多額の費用が領外に流出したため、その防止策として領内に大神宮や熊野神社を勧請し、巡礼のための霊場が選ばれたようだ。人々は一切の苦から救われるとの思いで三十三ヶ所を巡ったのだろう。これを機会に、いずれは巡ってみたいと思った。
三十三の霊場それぞれに御詠歌がある。
 「左下(さくだ)りは 岩に聳えて懸造り いつも絶えせぬ 峯の松風

  本郷へ抜けると、陶石を削っている本郷山が見えてきた。

懐かしい大久保陶石採石場で、会津本郷焼の磁器の原料となる陶石や、飴釉、白釉の原料石を、今も採掘している。 

 かつて勤務した本郷分校は既にない。その跡地には、今小学校が建設中だと聞いた。
  懐かしい瀬戸町商店街を通って帰路についた。


 チョウの撮影を目的に出かけたが、会津の歴史の一端を巡ることになってしまった。
 これからも、時間をかけて郷土の文化、歴史を見直してみたいと思った。

 今朝、連休後半の発熱がぶり返した。思うに、炎症の再発のようだ。
終日、寒気に炬燵に入って静かにしていた。R錠は相変わらずよく効いている印象だ。
夕方、やっと落ち着いてきたが この時期、要注意だ。   (2012.5.9記)


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勝常寺、慧日寺に徳一を尋ねる

2012-04-02 | 街中散歩

 午前中に電話で仏像の拝観予約を入れた。約束の午後1時に社務所を訪ねると、作務衣姿の方に、お堂へと案内された。

実は、午前中の予定の団体さんが今遅れて着いて、住職が案内していると言う。薬師堂に向かうと、お堂から団体の先客が出てきた。

何気なくどちらからですかと尋ねると、長野県からですと。私も若いころ長野にいたと話すと、茅野からの講の団体だった。

なんと驚くことに、その方は徳一さんと言う。さらに、茅野の旧湯川村からと。

懐かしい信州からの遠来の客に、たまたまバスの遅れで一緒になり、しかも声をかけた方が徳一さん、偶然と言えない奇遇な出会いに感じられた。

まさに、これも意味ある偶然に違いないと思った。

 団体さんと別れを告げ、一人国宝薬師如来像を拝顔した。

県立博物館にあるレプリカと同じ大きさと言うが、本物はずっと大きく、ありがたく感じられるから不思議だ。

国宝の前には、ずらりと素朴な村指定の文化財・木造十二神将立像が一二体の並び、それらに隠れるように徳一座像が安置されていた。

今日の目的は、本物の徳一座像との対面だった。 静かに見つめると、当時活躍した徳一菩薩の人となりが分かるような気がした。

何かを話しかけているように思われた。

【(湯川村HPより) 徳一座像: 像高86.9 cm。勝常寺開山徳一上人自作の像と伝えられる欅の一木彫である。ほほ骨高く意志の強そうな肋骨あらわな僧形像で、肉身部は丁寧に彫られてあるのに、着物の部分は簡単に彫られている。恐らく全体が彩色像で着物の部分は彩色で補っていたと思われる。 左鼻翼、右鼻唇、右手第四指半ばから先等欠損。
 顔や胸の彫法の強さから10世紀初頭を下るもののようには思われない。】

 続いて、隣の収蔵庫の沢山の貴重な文化財を拝むことが出来た。
 照明に照らされる木造の雨降り地蔵、国宝薬師如来の脇侍の日光、月光菩薩立像を拝んだ。

さらに十一面観音菩薩立像、聖観音菩薩立像、四天王像など安置される仏像を静かに見つめた。

仏像は祈りの対象ではあろうが、やはり、美しい美術・芸術品に違いなかった。
 案内いただいた住職に、40年前に描いた薬師堂のスケッチを手渡し、暇乞いをした。

 

 薬師堂

 次の目的地の慧日寺に向かう途中、勝常寺近くの北田城跡へ立ち寄った。
 北田城は日橋川と湯川との合流点の南西一帯の河原より5メートル高い河岸段丘上にある平城、1193年佐原次郎広盛が築いて居住し、北田氏と称した。

以後216年間代々勢威を振るい、1409年に葦名氏に攻め滅ぼされたと言う。

 北田城跡

 冬の間休館だった慧日寺資料館の開館を待って、早速の訪問だ。

「磐梯山慧日寺資料館」と「史跡 慧日寺跡」共通入館の立派なパンフレットを手に、4年前に再建された慧日寺跡もゆっくり見て歩いた。

資料館が立派に充実したことに驚いた。ここにも、模造の徳一座像があった。館の方にいくつかの疑問点をお尋ねした。

 慧日寺史料館

 資料館から復元された金堂へ向かうと、A先生が近づいてきた。顔ははっきりは見えない目だが、秋に発掘中の彼に出会っていたのですぐに分かった。

きのうは開館初日、期待していたが、午後から吹雪となり30人くらいの来館だったと。 

 発掘中

 金堂と中門

 金堂内部を初めて見た。組み物や天井、床を確かめ歩くと、内部からながめる木々が平安時代を思わせた。

 

金堂裏の講堂跡、食堂跡、仏堂跡には、柱の礎石跡に大理石が埋められていた。

 とち葺きの屋根は、金堂も、中門も真っ黒に変色し、ずっと落ち着いて見えた。

 裏の徳一廟へ詣り、到る所清流のせせらぎを聞きながら駐車場へ戻った。

所々雪の残る流れの脇には、フキノトウが輝き、ようやくの春を告げていた。

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厳寒の一日 湯川村へ

2012-01-12 | 街中散歩

  きょうの寒さはこの冬一番ではないだろうか。終日零下、真冬日だった。
 今朝は放射冷却だろう、厳しい寒さだった。朝方久々に雲の取れた磐梯山を仰いだが、
じきに中腹から上が雲に覆われてしまった。夕方見ると、雲が切れ夕日に輝いていた。

 

 昼前に、湯川村にかつての同僚を見舞った。5,6年ぶりの再会、私と同じ病気で手術、療養中だった。互いの近況を話し合い、話題は病状に移ったが、同病相憐れむでなく励まし合ってお暇した。今回も、彼の力作、先日発刊の著書『徳一と法相唯識』をいただいた。
   【拙ブログ『徳一と法相唯識』(2011-12-22)        http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/a1abfc41a1f21cc1872846c66703b126
 彼のその後の活躍の様子を伺い、我が平々凡々とした日々をあらためて思った。

 帰路、近くの勝常寺にお参りした。今年の恵方は北北西、湯川の勝常寺がいいと思っていた。そういえば、数年前にも初詣に行った覚えがあって、ブログを調べると確かに2007年正月に初詣に行っていた。 よく分からないが、5年前と同じ恵方と同じことになる。
  【拙ブログ「年越し 初詣」(2007-01-01 )     http://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/a1abfc41a1f21cc1872846c66703b126  】

 勝常寺の創建は807年に、名僧・徳一上人によって開山された。創建当時は七堂伽藍を備え隆盛時には12の坊舎と百余の末寺をもつ大寺院であったという。
 

勝常寺薬師堂 

  久々に、本堂の脇の「土井晩翠ウォーナー碑」に土井晩翠の詩を読んだ。
         一千余年閲(けみ)したる
         仏像の数十三を
         伝へ来りし勝常寺
         尊き国の宝なり
         秋のけしきの深みゆく
         会津郊外勝常寺
         仏縁ありて詣できて
         十三像を拝みぬ

 

 帰りに園芸店に寄って、春らしいサクラソウや大きなシクラメン、ミニシクラメン、ミニバラの鉢などを求めた。玄関は一足早く春の花に華やいだ。

 

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雪のお城

2011-12-27 | 街中散歩

  久々の晴れ間を見て、朝のうちにお城へ行くことにした。今日も運動不足解消だ。
 9時出発、ゆっくり足下に気をつけながら、昔通った街中の細い道をお城へ向かった。現役のころも、年に2,3度は雪のため歩いて出勤したことを思い出した。

  数十年ぶりに通る道すがら、知り合いの家や店を確認して、流れた遠い日々をを思い浮かべた。
 途中、槻木町の八角神社にお参りした、近くの櫻ケ岡出世地蔵尊も本当にしばらくぶりだった。

 八角神社

櫻ケ岡出世地蔵尊

料亭生粋、萬花楼の前を通って、宮泉銘醸を経て北出丸からお城へ入った。

  宮泉酒造歴史館

入り口の手前,元会津藩家老の内藤邸の跡地、雪の白露庭へ足を踏み入れた。

北出丸入り口

坂を上ると朝日をバックに天守閣が聳えた。膝近くの雪を踏みしめ、アングルに気を遣いながら天守閣を撮った。

 

  

 鉄門は閉じられていたのでUターン、本丸へ向かった。
きれいだった。広い雪の本丸の縁に、雪吊りされた多行松がとても美しかった。
荒城の月の歌碑を上り、美しい雪の鶴ヶ城をながめた。
      荒城の月

 

こうして、人生の一瞬間にお城で感動のひとときを過ごしていることを思った。
帰りは、曇り空に少し風が吹き出した懐かしい雪道をたどって帰路についた。
約2時間半、すがすがしい感動の散歩だった。

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雪の飯盛山

2011-12-26 | 街中散歩

   雪の朝、散歩に出た。夕べのうちに積もった雪道を気をつけて歩いた。
ときどき細かい雪が顔を刺し、すがすがしさを通り越して、指先が凍るように冷たかった。
八幡様では、久々に本殿まで上ってお参りした。


 滝沢街道沿いには結構蔵が並んでいることを初めて知った。
本陣もひっそりしていた。

 本陣

本陣から厳島神社を経て飯盛山への散歩道は好きなコースだ。
雪のさざえ堂も趣き深い。

 厳島神社 

 

白虎隊士の墓まで、一本の足跡が続いていた。 いつものようにお参りして、容保公の歌碑を撫でしばし先人を偲んだ。
  「幾人(いくたり)の涙はいしに灑(そそ)ぐとも その名はよよに朽じとぞ思ふ」

  弔歌碑

少し陽が差す若松の町並みを望んだが、お城は低い雪雲が遮って見えなかった。
  同じ道を戻り、さざえ堂、洞門を回り、子育て地蔵尊では悠人くんの成長を祈った。
 細かい雪が降る中、カメラをハンカチで守りながら家路についた。
  今年もいよいよ暮れる。来る年が幸多かれと祈った。

    何度もブログに書いていた。
     (参)拙ブログ【街中散歩 飯盛山 / 2006-12-17】
                  【雪の境内を巡り 思い出をたどる/2007-01-18】
                   【雪の飯盛山  /2008-01-26】 などhttp://blog.goo.ne.jp/tosimatu_1946/e/8103f39d9512b6c3d6e8bb671a292dae 

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晩秋の鶴ヶ城

2011-11-03 | 街中散歩

 イチョウが鮮やかに黄に輝き、サクラも大分葉を落とした。
 病院への帰りに、暮れなずむお城を巡った。

 若商前から

 日中、久しぶりに風のない小春日和に恵まれたが、気温はそうは上がらなかったようだ。

 昼過ぎから雲が出てきて、傾き始めた太陽がぼんやり天守閣を照らしていた。

 

 

]

 

 
 
 いい光景に出会った。本丸に入ると静寂に、きれいな歌声が聞こえてきた。
 「静かな静かな 里の秋~」 「兎追い しかの山~」

 二十人ほどの団体が、荒城の月の歌碑のを囲んで、ギター、バイオリン、アコーディオンの演奏を前に歌っていた。皆お年を召した方々おようだった。

 

コーラスを聴きながら、堤に登り、茶壺櫓から遠く磐梯山を望んだ。色づいた木々の間に天守閣を撮った。

 

 

 月見櫓

 多分、「荒城の月」も歌ったのだろう。どれも秋のお城での心に響く歌声だった。
 やがて解散して堤に上がってきた一団に聞いたら、福島からの日帰りの旅という。
手にしたパンフレットを見せていただいた。
「修学旅行  歌のふるさとめぐりと会津に歴史・自然探訪の旅」とあった。

なかなかの企画だと感心した。自分もこんな旅に参加して、コーラスを楽しむ、そんなゆったりした豊かな旅をしてみたいと思った。

  明治31年に28歳の土井晩翠は東京音楽学校の求めに応じて「荒城の月」を作曲した。

その際、第二高等学校在学中に訪ねた会津若松城址を詩材とし、仙台青葉城でも稿を練ったという。その思いが石碑の裏面に刻されていた。
  「荒城の月碑」は、鶴ヶ城、青葉城の他、作曲者滝廉太郎の故郷大分県竹田城址の三ヶ所にあると言う。

秋陣営の霜の色
鳴きゆく雁の数見せて
植うる剣に照りそいし
昔の光いまいずこ
  
  誰もいなくなった歌碑の前で、荒城の月を口ずさんだ。
  急に切なくなって目が潤んだ。

陸上競技場の門を入ると、すっかり日の落ちたグランドに部活の高校生が走っていた。
遠くに麗しの磐梯が凛々しく聳えていた。

少し沈んだ気持ちが晴れ、明日への勇気を貰ったような気がした。   (2011.11.2)

 

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会津大仏

2011-02-21 | 街中散歩
【喜多方・上三宮の叶山願成寺 会津大仏】

 きのうの日曜日、朝早くから町内の資源物回収の手伝いに出た。
 たまっていた段ボールや新聞雑誌のたぐいを4トントラックに積んだ。
 あとに町内の役員、組長の合同役員会を控え、船頭が多すぎるくらいで作業も30分で終えた。



何年も、隠遁生活を送っていて、あまり他人と話をする機会もなかった。
この町内に住み30数年になるが、知らない人がほとんどだったが、和気藹々と作業が出来て、また違った楽しさもあった。
先ずは任期2年、ささやかなボランティアをしたいと思っている。

約1時間の会議を終え帰宅すると、娘夫婦が来ていた。
血糖値を気にしながらも、手土産の熊野屋の「イチゴ大福」を初めていただいた。
デザインも味も素晴らしく、イチゴの下にはあんとクリームが入っていた。



 最近は、孫の萌ちゃんは「折角の日曜日、温泉につれていって」などと生意気なことを言う。
 夕方、みんなで相談して、熱塩加納の温泉に出かけた。
 お湯に入る前に、しばらくぶりに会津大仏のある叶山願成寺に詣った。
杉木立に囲まれた雪に埋もれた静かな境内には、重厚な山門、本堂、庫裏などが佇んでいた。





この山門には趣き深い彫り物がたくさんある。いつもここへ来ると、彫られた干支の動物や七福神などを見上げながらぐるっと門を一回りするのが楽しみだ。
 孫たちは<見ざる・聞かざる・言わざる>の3猿の彫刻を見つけて歩いた。
3猿はそれぞれ違った方向に配されていた。
 日光東照宮に有名な三猿があるがその起源は未だ十分に解明されていないらしい。
ウィキペディアには、
《「見ざる、聞かざる、言わざる」は日本には8世紀ごろ、漢語の「不見、不聞、不言」を訳した天台宗の教えとして伝わったものだという説がある。》とある。
 また、インドのマハトマ・ガンディーは常に3匹の猿の像を身につけ「悪を見るな、悪を聞くな、悪を言うな」と教えたらしい。







 山門をくぐり、かなりの雪の中を本堂にお参りして、奥の方の会津大仏へ進んだ。
金色の木造の阿弥陀三尊像は鎌倉時代の作で、国の重要文化財に指定されている。
寄木造りの阿弥陀像は高さが2.41m、小さな千体仏を散りばめた船形光背が特徴だ。
この小仏像は、お守りにと武士が懐に忍ばせて戦地に赴き、無事に環るとまた戻したといわれ、
現在、150体ほど欠けて空いているのは、戦死して戻せなかったからと伝えられている。
 脇には、向かって右に観音菩薩、左に勢至菩薩が安置され、全く動かないろうそくの炎がまるで絵に描いたように灯っていた。



 参拝者名簿に記帳してお参りし、ガラス越しに阿弥陀三尊像の写真を撮らせていただいた。
 厳しい寒さの中で、こころが静まる思いがした。
 植木の立派な雪囲いにまだ沢山の雪が残る大仏殿の前の池は、少し氷が溶け始めていた。



日帰り温泉「夢の森」にゆっくり浸かった。
 しばらく前からじいちゃんと男風呂に入るようになった武琉君、熱いのが苦手でずっと雪の露天風呂を満喫していた。
 御夕飯も外食、若松まで戻り、自宅近くのカッパ寿司に寄った。
 孫たちはマグロやネギトロが大好き、じいはあんきも、ウニ、生たこなどをおいしくいただいた。
 風呂上がりのビールがおいしかったが、一つの疑問は、メニューにお酒がないことだ。寿司には冷酒が一番なのに....。
 賑やかな、充実した日曜日を過ごすことができた。

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赤瓦の鶴ヶ城

2010-12-21 | 街中散歩
 
今年の春から、お城の瓦の葺き替え工事が進んでいる。天守閣再建から50周年を目指しての整備事業だ。
シートで覆われて見えなかった天守閣の上半分が見えるようになったと聞いて、見に行ってきた。
 冬には珍しい穏やかな陽気に恵まれ、平日でもあり観光客もほとんどいないお城をゆっくり散策してきた。
吹き替えられた実際の瓦の色は赤と言うより茶色か、、以前より落ち着いた美しいお城に見えた。








 完成は3月予定の城は、まだ石垣や下の方は足場が組まれブルーシートで覆われていた。
このお城は、芦名氏が築いた黒川城が前身で、その後、蒲生氏郷が入城して1593年に7層の天守閣を持つ近世城郭に改築、城の名前も自分の幼名鶴千代にちなんで鶴ケ城とした。
1611年の大地震で天守閣や石垣が損壊し、28年後の加藤氏の時代に現在の5層の天守閣(黒瓦)となった。
 文献や発掘調査から、1648年に黒瓦から赤瓦にふき替えられ、戊辰戦争当時も赤瓦だったらしい。
同時に、「御三階」も復元される計画で、本丸の東側では土台部分の発掘が行われていた。
 この整備計画にはあまり関心もなかったのか、知らないうちに決められあっという間に完成間近となった。
 総事業費が約4億3千万円と聞くと、そんなにまでしてとも思った。
 国の補助金や若松城整備等基金で賄われるようだが、市税の投入も大きいことだろう。
 それにしても、雪を待つ雪つりされた多行松の緑が美しかった。



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町内 夏祭り

2010-07-25 | 街中散歩

何時にない暑い夏だ。
 町内の八幡神社のお日市は7月15日、最近は夏休みの第4土曜日にずらして実施している。
孫を連れて昼過ぎに参拝に出かけた。


 
 ≪会津若松市内では、7月に入ると7月1日の「おんばさま」を皮切りに9月8日の「北山薬師如来」まで、
ほぼ毎日、約2ヶ月間様々な縁日が45か所で行われる。
各町内で続いてきた産土神、神社、仏閣の夏祭りで、その日限りの市なので「お日市(おひいち)」と呼ばれ、
古いものは約400年前の蒲生氏郷の時代から行われていたという。
会津の夏の風物詩である。≫  拙ブログ「 お日市(おひいち)2006-07-22 」より

昨年は、まだ梅雨も明けずにわか雨にあったことを思い出した。
 ことしは町内の子ども会や役員のみなさんの活躍で、いつもよりにぎやかな、昔の様なお祭りの雰囲気があった。
子ども会の出店は、安価でふさわしく健全に思えた。
 30年も昔の教え子のMくんは暑い中で一生懸命に焼きソバ作り、役員の皆さんの苦労を思った。
昔、町内の早起き野球など、隣組の付き合いも多かったが、最近は代変わりもあり顔見知りも少なくなってしまった。
 
 孫たちは、お参りの帰りに出店での買い物が嬉しくて仕方ない。
子ども会のお楽しみ券でかき氷を、「くじ引き」では萌ちゃんが縫い包みのボール、
武琉くんが当たってほしいと願っていたカブトムシのフィギアーを手に入れた。
町内のくじ引きは、はずれ無し、我が家が1等賞のビール、孫宅は2等賞ソーメンだった。
 お夕飯は、ちょっとお祭り気分、裏の人神社の打ち鳴らす太鼓を聞きながら冷たいビール。
いよいよ夏本番を迎える。 


(2010.7.24)




久しぶりの散歩

2010-04-16 | 街中散歩
                               【石部桜 もうすぐ】


 ラックを亡くしてもう半年余り、本当に歩かなくなった。ラックのための散歩だったが、おかげで健康に過ごせたと思っている。
今朝も、春とはいえ冷え込んだが、散歩しなければと出かけることにした。
デジカメを持って春向きのスニーカーに履き替えて颯爽と出かけた。
コースは、自宅 → 妙国寺 → 石部桜 → 一箕中学校 →自宅 約5キロ。

妙国寺は、戊辰戦争のとき藩主松平容保父子が一カ月間謹慎した寺、また白虎隊士の仮埋葬された寺である。今日もお花が供えられていた。

 

 石部桜は会津5桜の1つで、昔ブログに書いた。
会津五桜鑑賞記(その1)石部桜』2006-04-23
 このサクラの季節にできる臨時の駐車場に、もうバスが止まっていた。畑の中を石部桜へ向かうと、遠くのあぜ道を観光客が団体で歩いて行くのが見えた。岡山から来たという観光客だったが、サクラはまだつぼみで肌寒くもあり、そそくさとバスの方へ戻って行った。樹齢600年のエドヒガンの巨木で、このところの冷え込みになかなか咲けないようだった。何年か行かないうちに、桜の周囲はきれいに整備され木道までできていた。

 【石部桜】

滝沢の浄水場の下道を一箕中学校へ出た。この道を通ったのはもう20以上前になるか。途中の松林で数本のカラマツの下にきれいな松ぼっくりを見つけた。

 【松ぼっくり カラマツ】


 子どもたち3人が通った中学校のグランドでは、体育の授業で50メーター走の記録を取っているようだった。3方がなだらかな山に囲まれた高台の校舎から、遙かに真っ白な壁のような飯豊山がそびえ、市内が見渡せた。

 【一箕中学校で】

 約1時間、吹く風は少し冷たかったが、萌えだした早春、ところどころに黄色いスイセンをみながら、また久しぶりに人々の生活の一端を垣間見ながらの散歩は快適だった。
 愛犬はいないが、健康のために、また散歩を日課にしたいと思っている。


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飯盛山界隈へ 孫と散歩

2010-04-02 | 街中散歩
 
 孫とばーちゃんと一緒に飯盛山へ散歩した。我が家から1キロくらい、ラックが元気なころは時々来ていた。
天気は良かったがとても寒かった。孫たちは石段を元気に上った。
ジジ、ババは、石段を一段一段踏みしめながら、次第に体が温まった。
 武琉君は「まんが白虎隊」を読んでいたり、幼稚園のとき連れていってもらったらしていて、
いろいろ知っていて驚いた。
白虎隊のお墓にお参りした。手を合わせながら、墓石に刻まれる16歳、17歳の文字に切なさがこみ上げてきた。
彼らの生き様を想像しその心情を思い、今の時代の若者の心や教育などはこれでいいのか・・・と思った。
正面には飯盛山で自刃した19士の墓、右側には会津の各地の戦い亡くなった31名の白虎隊士の墓がならんでいる。
小学生のころ、墓の裏の林に悠然と舞うオオムラサキを見た思い出がよみがえった。
墓の左手の「会津藩殉何難烈婦の碑」の後ろで、もうウメが咲き始めていた。
これは、昭和3年会津戦役で自刃または戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため、山川健次郎らの篤志家により建てられた顕彰碑だ。



 最近整備された、少年たちが自刃したあたりから鶴が城を望んだ。
白虎隊の少年もここから城を眺めたのだろう、遙かの木立の中にお城が確認できた。
 【遥かお城を望む】


 帰りは、さざえ堂の前を厳島神社へ下りた。
 さざえ堂に何年かぶりに中へ入ってみた。
六稜三層の形がさざえに似ていることからこの名でよばれ 、内部は3階になっていて、時計回りに上り、
反時計回りに下る世界にも例を見ない二重螺旋の構造をしている。現在、国重文に指定されている。

 【スケッチ 冬・さざえ堂】

 【さざえ堂の内部】

 戸ノ口堰洞穴は戸ノ口原の戦いで敗れた白虎隊が城下に戻るために通った穴、昔はここで子供たちが泳いでいたんだ、
などと孫たちに説明しながら厳島神社にお参りした。

 
【団子刺しの子育て地蔵からさざえ堂が見える】

白虎隊記念館の前を通ると「白虎隊士酒井峰治&愛犬クマの銅像」があった。いつ建てられたのか、今まで気付かなかった。
酒井峰治は戸の口原から引き上げる際、他の白虎隊士と離れてしまったが、不動滝上の滝沢茸山で愛犬クマの出迎えを受け、
クマの道案内によって若松城三の丸のあかず口より入城し籠城戦にて活躍したという。
記念館には、父が寄贈した、我が家にあった日新館の名入りの墨も展示されいるはずだ。


 
 孫たちに、昔、会津で戦争があったことや白虎隊の話などしながら家を目指した。
 少しずつ会津の歴史を教えたいと思いつつの、いい散歩ができた。 
(2010.3.30)

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春真近か 雪原を歩く

2010-03-13 | 街中散歩

久々の春の陽に、ハクチョウに会いたくなった。
三城潟の田に向かったが、長浜にはまだかなりの数のオナガガモが砂浜に上がっていた。
少し前まで頂きまで見えていた磐梯山も、
雲がわき中腹から上が見えなくなっていた。
 橋の手前の、まだ雪におおわれている農道に車を置いて、雪原を湖畔まで歩いた。
風もなくいい日が当っていたが、いつまでも寒い。
でも、歩くうちに体が温まり、手袋を脱ぎ、マフラーを取り、ときどき周囲の美しい山々を振り返りながら、広がる雪原をゆっくり進んだ。
わずかに土の見えた畔の土手らしき土にフキノトウが顔を出していた。
 湖畔に近づくと茫々たる枯れたカヤの間にきらきら光る湖が見えた。
夏には行けそうにない湿原に積もった雪の上をおっかなびっくり進んだ。時々ズボっと膝まで長靴がもぐってしまった。





磐梯を背に羽ばたく雄姿を想像して来たが、どこにもハクチョウの姿はなかった。
静寂に振り返ると、湖畔まで行って戻った我が足跡が雪に続いていた。


 野口記念館の裏手に出たので、塀の外から英世の生家跡をのぞいた。
 久しぶりに記念館入口の英世に会った。「しばらくだったが、どうしていたと尋ねられた。」
車に戻る途中、英世の菩提寺長照寺の山門をくぐった。
野口英世夫妻の墓所(遺髪塚)が雪の中にひっそりたたずんでいた。
隣にある母シカさん、父佐代助さんのお墓に手を合わせてきた。
 寺の後ろに磐梯山を背に、かつて英世の通った翁島小学校が建っていた。



 笹山浜へ向かう途中、名倉山のあたりから小石が浜に群れるハクチョウが見えた。
コハクチョウにお別れがしたくて、誰もいない小石が浜へ立ち寄った。
旅立ち前のコハクチョウが2~30羽、静かに浮かび漂うもの、羽を繕うもの、
首を折って休んでいるもの、いよいよ旅立ちか羽ばたきを繰り返すものと
、静寂の湖にそれぞれい長旅の準備をしているようにみえた。
ハクチョウたちに、幸多かれと祈り、別れを惜しんだ。
今日も、静寂の猪苗代湖は美しかった。 (2010.3.12)






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安積歴史博物館を訪ねる

2010-03-03 | 街中散歩


【正面バルコニー】
 
  朝河貫一を顕彰する特別展示を見に、郡山に安積歴史博物館を訪ねた。
 県立安積高等学校の校門をくぐると、正面に旧安積尋常中学校本館があり、博物館となっている。
 福島県唯一の中学校は、明治17年(1884)に創立され、県の中心的な中等教育機関となった。
 館内には、安積中学校卒業の文学者・久米正雄の遺品展示、高山樗牛、中山義秀などの先人、日本臓器移植の先駆者である今泉亀撤顕彰特別展示などの部屋があった。当時の教室が復元され、安積中学から高校までの時代の学校生活の歴史を見ることができた。
世界平和に貢献した朝河貫一展示の部屋では、胸像や肖像画とともに、多くの書籍や書簡が並んでいた。
中でも、小学校・中学校と同級の川俣町の渡辺熊之助への借金を依頼する本人の書体を興味深く観察した。【拙ブログ(2010.1.29) 「朝河貫一 祖国を愛し続けた真の国際人」】

「朝河の道」というパンフレットをいただいた。朝河貫一博士顕彰協会発行のもので、二本松エリア、立子山、川俣エリア、福島エリアに分けられ、25か所の博士ゆかりの地が紹介されていた。
近々、これを頼りに博士の思いをたどってみたいと思っている。
 また、現代の卒業生である、坪井栄孝元日本医師会会長、音楽家湯浅譲二氏、芥川賞作家の玄友宗久氏のコーナーがありその業績を展示してあった。

この旧本館は昭和53年に半解体修理工事され、創建された場所に創建されたそのままで現在に残る全国唯一の文化財だそうだ。洋風建築で鹿鳴館造りのバルコニーなどのモダンな建築技法を見ながら、かつて訪ねた松本市にある旧開智学校を思い出した。

 
  卒業式関連行事の振り替えの休日で静かな校内だった。野球部の部活動の生徒の溌剌とした挨拶を受けながらグランドに向かった。あの朝河桜を見たかった。
 太い幹が途中から折れていたが、この春もきれいに咲かせるであろう、つぼみが膨らんでいた。実に120年の風雪に耐えてきたのか。枝を広げるつぼみを見ながら、かつてこの根元に表紙だけになった辞書(暗記したページを食べたり捨てたりしたという逸話がある)を埋めた朝河貫一博士の純粋に羽ばたかんとする青春像を想像した。(2010.2.2)

 【朝河博士の肖像画】

 【2階の講堂】

(参考)いつか開智学校を訪ねた折のエッセイ
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≪「開智」に見た信州教育の礎≫   (福島民報 2003.7.8付)   
 先日、長野県松本市の旧開智学校を初めて見学した。明治五年の学制公布から始まる近代教育だが、その文中「・・・其ノ身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ・・・」から命名された、我が国最古の小学校である。擬洋風様式の校舎はしばらく見とれるほどモダンであった。
 充実した教育資料から文明開化の時代の新鮮な教育理念に触れることができた。磨り減った木造校舎の階段を上りながら、ぬくもりと共にふとあの啄木の渋民小学校の教室が浮かんできた。
 「智を開く」とは昨今の教育改革で言われる生きる力であり、小学校だけでなく幼稚園から高等教育、特殊教育機関までもが併設されて行った開智学校の歴史は、今の中高一貫教育の理念を見る思いであった。そして学校の建築費用が松本町民の献金によって賄わたことを知り、当時の地域社会の意欲あふれる熱意を感じ改めて信州教育の礎をみた思いがした。 かつてここに集い学びし童は今何処に。
【旧開智学校】
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伊東文庫 を見る

2010-02-23 | 街中散歩
【開館を記念して作られた手ぬぐい】


 100年前の雛人形を見せていただいた平出竹店の隣には、昨年春に開館された「伊東文庫」があり、そちらも見せていただいた。
 里帰りした「伊東文庫」には、「総理のイスを蹴った男」として知られる故伊東正義氏の蔵書や直筆の手紙や原稿、中国要人らから贈られた書や掛け軸などが展示されていた。
 文庫は、元伊東代議士の秘書で現在福島県議会議員の平出孝朗氏が理事長を務めるNPO法人会津先人顕彰会が運営をしている。

館内で伊東氏の7回忌に編集されたビデオを視聴した。
ここ数十年の政治の流れを概観しながら、詳しく知らなかった清廉潔白そのものの政治家伊東正義氏の人柄に触れることが出来た。
 ビデオに流れるナレーション、「最後の会津人」「愚直なまでの一徹さ」「表紙だけ取り替えても駄目だ」、「人間性あふれ、慕われ、多くの人に愛された」などに、改めて立派な人格者を偲んだ。氏の戒名は正義一徹居士とあった。
 開館を記念して作られた手ぬぐいには、「本の表紙だけ変えても、中身が変わらなければダメだ!」「政治家は何になるかではない。何を為(な)すかだ」「道徳に古いも新しいもない。ダメなことはいつの時代でもダメなんだ」と金言が染め抜かれていた。

「政治と金」がいつも問題になるが、今の政界にも、清廉で質素な生活を送っり、愚直なまで誠実な伊東正義氏のような政治家が欲しいものである。 (2010.2.21)

【鶴が城三の丸に建つ銅像】


 
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