
通夜から葬儀、そして事後処理の慌ただしさのなかで
「父の死」と正面から向き合うことを避けてきた。
心の内に悲しみを溜め込むことが、決して良い結果を招かない
ことは充分承知していた。
でも、やはり「父の死」と正面から向き合うことは怖かった。
そのことは、出来る限り先送りしておきたかった。
葬儀の事後処理が一段落して、明日は手続きをする役所も休みという日の深夜、
日付が変わろうとする時刻にPCを開いた。
母も寝つき、深夜の静けさが胸の内に、ひっそり降りて来て、
潮位が満ちてくるように静かな決意が汽水域を越えて、そっと背中を押した。
最初はキーボードを打つ手も自然に動いた。
徐々に盤上を、ためらいがちに彷徨う手指は滑らかさを失い、
込み上げる感情の高まりに盤上に凍りつき一歩も前へ進めない。
溢れ出す涙に幾度もいくども、つまづく心を奮い立たせ
「父の死」の状況を綴り続けた。
でも医師からの死の宣告の場面で心の箍(たが)が外れた。
もう一歩も前へ進むことができない。
そのままPCを閉じて記事を投稿した。
翌朝、母の朝食を済ませ、再びPCに向かった。
まだ心の内に溜め込んだ悲しみを吐き出していない。
心の変調を侮ってはいけない。
溜め込んだ悲しみが、ある日堰を切ったように溢れ出し
悲嘆のあまり心身のコントロールを失い、
何も手がつけられなってからでは遅すぎる。
残された母のことを思うと、決してあってはならない事態だ。
女々しいと思われても良い。
醜態と侮られても良い。
「近親者の死」が、どういうことなのか、
それがもたらす心の空洞感や喪失感を…
内に秘めた「心の悲鳴」を吐き出した。
葬儀の後日談として、心底怖い思いをした出来事を最後に記しておきます。
火葬場にて、長い待ち時間を親族と別室で昼食をとっていた。
突然、隣の母が咳き込み苦しみ始める。
みるみる顔色が変わり唇が色を失ってゆく様に戦慄を覚えた。
同席していた葬儀のために帰郷した兄の対応が早かった。
背中を丸め、前傾姿勢にさせ肩甲骨付近を叩き続ける。
それでもダメなら口に指を突っ込んで吐き出させる。
その間、兄たちより一足先に飛行機で到着して、ずっと母の側に寄り添って
くれていた孫のヨシが(夏休みにいつも遊びに来たいたチビが大学生です)
備え付けのAEDの要請と119番へコール。
一日おいて再び救急車へ乗り込み救急病院へ。
兄の迅速な対応のおかげで幸い事なきを得ましたが、
対応が遅いと危なかったと診断にあたった医師も言っていた。
あの、みるみる色を失ってゆく母の顔が、風呂場での父の顔とオーバーラップして
心底怖かった。
病院で意識を回復した母が洩らした「このまま逝けばよかった…」
は、老いの心身の衰弱と孤独を抱える母の正直な気持ちなのだろう。
でもそれは絶対容認できない言葉だ。
「やめてくれよ…じいちゃんに逝かれて参っているのに、
その上、ばぁちゃんにまで逝かれたら、もう生きてゆけないよ。
ばぁちゃんは、ずっと私の側で長生きしてくれよ。
最後まで必ず、看取ってあがるから、
頼むから、そんな悲しいことは言わないで…」
事なきを得て帰還してからの親族、家族たちの心からのいたわりが
功を奏したのか?それとも伴侶の死というショック療法だったのか?
近頃の母は意識が明瞭になり、言葉のコミニュケーションが以前のように可能になった。
そして、この食欲の旺盛さは、生きる意志の証だと解釈したい(笑)
「父の死」と正面から向き合うことを避けてきた。
心の内に悲しみを溜め込むことが、決して良い結果を招かない
ことは充分承知していた。
でも、やはり「父の死」と正面から向き合うことは怖かった。
そのことは、出来る限り先送りしておきたかった。
葬儀の事後処理が一段落して、明日は手続きをする役所も休みという日の深夜、
日付が変わろうとする時刻にPCを開いた。
母も寝つき、深夜の静けさが胸の内に、ひっそり降りて来て、
潮位が満ちてくるように静かな決意が汽水域を越えて、そっと背中を押した。
最初はキーボードを打つ手も自然に動いた。
徐々に盤上を、ためらいがちに彷徨う手指は滑らかさを失い、
込み上げる感情の高まりに盤上に凍りつき一歩も前へ進めない。
溢れ出す涙に幾度もいくども、つまづく心を奮い立たせ
「父の死」の状況を綴り続けた。
でも医師からの死の宣告の場面で心の箍(たが)が外れた。
もう一歩も前へ進むことができない。
そのままPCを閉じて記事を投稿した。
翌朝、母の朝食を済ませ、再びPCに向かった。
まだ心の内に溜め込んだ悲しみを吐き出していない。
心の変調を侮ってはいけない。
溜め込んだ悲しみが、ある日堰を切ったように溢れ出し
悲嘆のあまり心身のコントロールを失い、
何も手がつけられなってからでは遅すぎる。
残された母のことを思うと、決してあってはならない事態だ。
女々しいと思われても良い。
醜態と侮られても良い。
「近親者の死」が、どういうことなのか、
それがもたらす心の空洞感や喪失感を…
内に秘めた「心の悲鳴」を吐き出した。
葬儀の後日談として、心底怖い思いをした出来事を最後に記しておきます。
火葬場にて、長い待ち時間を親族と別室で昼食をとっていた。
突然、隣の母が咳き込み苦しみ始める。
みるみる顔色が変わり唇が色を失ってゆく様に戦慄を覚えた。
同席していた葬儀のために帰郷した兄の対応が早かった。
背中を丸め、前傾姿勢にさせ肩甲骨付近を叩き続ける。
それでもダメなら口に指を突っ込んで吐き出させる。
その間、兄たちより一足先に飛行機で到着して、ずっと母の側に寄り添って
くれていた孫のヨシが(夏休みにいつも遊びに来たいたチビが大学生です)
備え付けのAEDの要請と119番へコール。
一日おいて再び救急車へ乗り込み救急病院へ。
兄の迅速な対応のおかげで幸い事なきを得ましたが、
対応が遅いと危なかったと診断にあたった医師も言っていた。
あの、みるみる色を失ってゆく母の顔が、風呂場での父の顔とオーバーラップして
心底怖かった。
病院で意識を回復した母が洩らした「このまま逝けばよかった…」
は、老いの心身の衰弱と孤独を抱える母の正直な気持ちなのだろう。
でもそれは絶対容認できない言葉だ。
「やめてくれよ…じいちゃんに逝かれて参っているのに、
その上、ばぁちゃんにまで逝かれたら、もう生きてゆけないよ。
ばぁちゃんは、ずっと私の側で長生きしてくれよ。
最後まで必ず、看取ってあがるから、
頼むから、そんな悲しいことは言わないで…」
事なきを得て帰還してからの親族、家族たちの心からのいたわりが
功を奏したのか?それとも伴侶の死というショック療法だったのか?
近頃の母は意識が明瞭になり、言葉のコミニュケーションが以前のように可能になった。
そして、この食欲の旺盛さは、生きる意志の証だと解釈したい(笑)
貴方のブログを拝見していると 悲しすぎる位切ない気持ちが伝わってきて やり切れません。お年寄りを抱えての生活は たいへんでしょうが ちょっとのことで 大変なことになります。
食事時や入浴時・トイレなど 目が行き届かない時は ちょこちょこ声かけが必要ですね。
私も現在 知り合いの83歳のおばあさんの
介護に行ってます。
トイレが長い人なので「○○さん 大丈夫」って声かけをしています。
今日は 久しぶりに○○病院の透析センターへ友人を訪ねて行ってました~。
私が辞めて1年余り・・悲しいことですが たくさんの人が亡くなっていました。
心より ご冥福をお祈りしたいと思います。
看護や介護の現場で長い時間を過ごされてきたカタックリさんの言葉は胸に浸みます。
父の死と正面から向き合うことは本当に辛かったですが、
溜め込んだ悲しみを吐き出したことで随分気持ちが楽になれました。
公開することを前提としたブログ(日記)の書き込みは、
自分自身なかで決意のようなものを必要とするので
書き終わったときには気持ちの整理がつき、
思いの外すっきりします。
自浄効果があるようです。
こんな一方的な悲しみを押し付けられる皆さんの方が
いい迷惑ですよね。ごめんなさい。
でも書き続けることで、巧い具合に軌道修正が出来るようで、
私と母の心の健康と平穏な日々が保たれるようです(笑)
当分、風景写真よりも介護ブログとして読んでくださいね。