澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

45年ぶりの大雪と1969年の"不条理" 

2014年02月14日 21時58分05秒 | Weblog
 首都圏では45年ぶりの大雪と騒がれたようだが、45年前と言えば1969年、ちょうど東大入試中止の年だった。それ以来の大雪だとは思っても見なかったが、こんなに降ると雪掻きが大変だ。



 45年前の大雪の東京でどんなことが起きていたのか。あるブログを見つけたので、引用してみたい。当時の記憶が蘇ってくる人もいるのかも知れない…。


今週の話題「母校への苦言」2014年2月14日

 先日東京に雪が降り積雪27cmを記録し1969年3月12日以来45年振りと報道されました。1969年は小職が大学に入った年です。学園紛争激しき時代で1969年の東京大学入試は東大紛争で安田講堂事件が生じて「入試中止」となりました。従って1973年に我々は卒業しましたが同年の東京大学卒業生は基本的に皆無だったはずです。
 この1969年の大学入試は大混乱となり戦後最難関となったのは事実だと思います。国立一期一橋大学を目指して浪人の道を選んでいた小職は「革命前夜」を思わせる東京に一年いる間に更に浪人生活を続けるわけにはいかない「私立大学」でもはいってしまおうと言う心境になっていました。
 四谷に上智大学があることを認識したのも「東大紛争、東大入試中止」の影響でした。この年は私大の倍率も急上昇で上智大学法学部の実質倍率も10倍を超えていました。上智大学でも大学紛争中であり「ロックアウト中」で玄関はバリケードで封鎖され物々しい雰囲気で入試は実施されました。合格発表も異例で大学前のグランドの弓道場のところで合格者番号をプリントしたA4の用紙が配られており、雨の中傘をさしながらグランドへ降りて合格番号を受け取りました。
 入学式の日続いていた「ロックアウト解除」の学生集会がグランドで開催され、「ロックアウト解除阻止」を叫ぶ全共闘はヘルメット、角材なしで入場し、丸ノ内線のホームからヘルメットと角材をグランドに投げ入れ武装した全共闘と新入生であった小職を含む「一般学生」との間で何回も武力衝突が起き流血の中「学生集会」は粉砕を免れ大学側の「ロックアウト解除」宣言が可決されました。登校初日にまさか「流血事件」とは思わず帰り道一枚しかないズボンの膝に隣にいた人の血が付いており「明日どうしよう」と思いました。
 36クラスに振り分けられた小職のクラス担任はスペイン人のホセ・ヨンパルト神父でした。先生の嬉しそうな第一声は「とうとう慶応を抜きましたね」でした。長年私立法学部の最難関は早慶上智の三校と言われてきましたが、ヨンパルト教授はこの年、早稲田-?上智--?慶応の順となり上智が慶応を抜いたことがよほど嬉しそうに見えました。クラスでの自己紹介があり、半分以上の学生は早稲田や慶応にも合格したけど上智を選らんだ学生でした。当時の上智大学法学部は一学年200名の国立並みの少人数で商法の鈴木竹雄教授、民法の有泉亨教授、民事訴訟法は村松定孝教授、刑法は内田文昭教授、労働法の花見忠教授、商法の西迪雄教授、田村諄之輔教授など後に「上智法学部の黄金期」と言われたほど充実した教授が揃っていました時代でした。刑法の内田文昭教授のゼミを2年間受講していた小職は同時期に中央大学法学部でも刑法を担当していた内田文昭教授から「中央に比べたら君たちの方がずうっと上だよ」と聞いたことを良く覚えています。」
 以来45年が経過し現在の母校上智大学法学部の学力水準は慶応より上とは客観的に見て言えず、45年間足踏みどころか「退歩」していると言わざるを得ないと思います。このよき日に上智大学法学部の同窓会が成立することは誠に喜ばしく心よりお祝い申し上げますがもう一度1969年に立ち返り、私立大学法学部の「雄」となるべく教授陣の充実と在学生のレベルアップを法学部全体で再スタート戴きたく敢えて「苦言」を呈する次第です。   井上豊夫 


果し得ていない約束―三島由紀夫が遺せしもの
井上豊夫著
コスモの本





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