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澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

昭和天皇「蒋介石支持を」~国連代表権問題(1971)、佐藤首相に促す

2015年07月30日 21時25分39秒 | 歴史

 季節がら、戦争を回顧するTV,ラジオ番組、新聞記事がいっぱい。中にはなるほどと納得するものもあるが、大半は現在の視点で過去の戦争を批判的に描くものばかり。「平和」「人権」「市民」「女性」などの概念で、あの戦争の実相を理解することができるのかどうか、はなはだ疑問が残る。とりわけ、現在国会で審議中の「安全保障法制」を批判するために、過去の戦争を持ち出すような態度は、不誠実と言わなければならないだろう。

 そんな中で、驚くべき報道が登場した。1971年、「中国」の国連代表権問題が紛糾するなか、昭和天皇が「蒋介石支持」を佐藤栄作首相に促したというニュースだ。
 日本国憲法のもとでは、天皇は象徴天皇であり、政治的発言は許されていない。だが、この「蒋介石支持」発言は、まぎれもなく政治的発言だ。1971年の時点でなお、このような発言をしたのなら、戦前、天皇が軍部の暴走に翻弄され、平和の意思を貫けなかったなどという通説は、都合のいい作り話としか思えなくなる。

 おそらく昭和天皇は、蒋介石に対して「命の恩人」という意識があったのだろう。国連において「中国」を代表するのは中華人民共和国(大陸)か、中華民国(台湾)かというような議論よりも、敗戦の責任を問われず、自分の命を救ってくれた蒋介石個人にただただ恩義を感じていたのだろう。

 毛沢東の中国共産党(=中共)と蒋介石の中国国民党は、「ひとつの中国」しか認めないという点で、同じ穴のムジナだった。中共は、権力掌握後、チベット侵攻を手始めにウイグル、内モンゴルなどの少数民族居住領域を制覇し、続いて大躍進運動、文化大革命などの暴政を推し進めた。一方、台湾に逃れた国民党は、二二八事件で台湾の知識層、指導層(台湾の日本語世代)を二万人以上虐殺し、以後40年以上にわたって「大陸反攻」を叫び、戒厳令を続けた。

 昭和天皇は、かつて日本国民=臣民であった台湾人(日本語世代)が蒋介石の軍隊によって大虐殺された事実を知りながら、わが身を助けてくれたという理由だけで「蒋介石支持」発言をしたのだろうか。遺憾ながらここには、日本に「見棄てられた」台湾人(本省人)に対する思慮は全くうかがわれない

  昭和天皇の人間性を問われる重大ニュースだけに、今後の解明が待たれる。

 


昭和天皇「蒋介石支持を」=国連代表権問題、佐藤首相に促す―日米文書で判明

時事通信 7月30日(木)16時54分配信

   蒋介石総統率いる中華民国(台湾)政府が国連の代表権を失う直前の1971年6月、佐藤栄作首相が米国のマイヤー駐日大使(共に当時)と会談した際、昭和天皇から「日本政府がしっかりと蒋介石を支持する」よう促されたと伝えていたことが分かった。
 秘密指定解除された米国務省の外交文書で判明した。台湾の国連代表権維持への後押しを伝えたものとみられる。天皇の政治問題への関与発言が公になるのは極めて異例だ。
 この問題について、日本の外交文書にも「陛下が(中国問題を)心配しておられた」というマイヤー大使に対する佐藤首相の発言が記載されている。昭和天皇の発言の背景には、蒋介石が終戦直後に中国に残った日本人の引き揚げや天皇制の尊重、対日賠償請求権の放棄など「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と呼ばれる寛大な対日政策を取ったことに「恩義」や「信義」を持ち続けていたことがあると思われる。しかし、国連代表権は71年10月、毛沢東主席の中華人民共和国(中国)政府に移った。
 こうした経緯は、国連の中国代表権問題を詳しく検証した井上正也・成蹊大学法学部准教授(日本外交史)の研究で明らかになっている。「二つの中国」で揺れ動いた戦後70年の日中関係をめぐる「秘密折衝」の一幕が浮かび上がったが、井上氏は「蒋介石の行く末を案じた天皇の意向は、台湾擁護にこだわった佐藤の姿勢に少なからず影響を与えたのではないか」と解説する。
 米外交文書によると、71年6月2日にマイヤー大使と会談した佐藤首相は「天皇は建前上、政治問題に関心を持たないのだが、(蒋介石)総統が過去において日本のために多くのことをやってくれたと述べた」とした上で、天皇による「蒋介石支持」の意向を大使に伝えた。日本側外交文書はこれほど明確ではないが、佐藤首相が大使に天皇の「心配」を伝え、「日本政府としては蒋介石総統に対する信義の問題ということもあり、本問題については慎重検討中である」と説明。「まず台湾の国連における議席を確保する要がある」と訴えた。
 一方、秘密指定が解除された「佐藤首相・マイヤー大使会談」記録を保管する日本外務省の外交史料館(東京)では、「実は先刻陛下に御報告の際、通常陛下は政治問題には直接関与されないことになっているが、特にこの問題については心配しておられた」という佐藤首相の発言を黒塗りにして公開された。外務省は、天皇の政治関与発言が公になることに神経をとがらせているとみられる。
 97年に発行された「佐藤栄作日記」によると、佐藤首相はマイヤー大使との会談に先立ち、宮中に参内し、「中国台湾問題」を奏上したと記している。 

 

 

戦犯リストから消えた「天皇」=米国追随と共産化防止―蒋介石が早期決定・中国 

時事通信 8月2日(日)15時29分配信

  日本との戦争最終局面の1945年6月、当時中国を統治した中華民国・国民政府が作成した日本人戦犯リストのトップに「日皇裕仁」(昭和天皇)が掲げられたが、終戦直後の9月のリストからは消えていたことが分かった。
 蒋介石主席の意向で決まったもので、連合国・米国に追随する方針のほか、共産主義の拡大防止という背景があった。米スタンフォード大学に保管される「蒋介石日記」でも同年10月下旬、「日本戦争犯罪人を既に裁定した」と記されており、終戦後の早い段階で「天皇免訴」が決定していた。
 時事通信が中華民国の外交文書を公開する台湾の「国史館」や国民党史料を所蔵した「党史館」で入手した複数の戦犯リストや内部文書のほか、「蒋介石日記」の記述で判明した。
 国民政府は終戦前から、戦犯リスト策定に着手しており、45年6月に軍令部が「侵戦(侵略戦争)以来敵国主要罪犯(犯罪人)調査票」を作成。戦犯トップに「陸海空軍大元帥」として「日皇裕仁」を掲げ、「侵略戦争の主犯・元凶」と明記した。日本の軍国主義による侵略の根源が天皇にあるとの見方は中国で根強く、議会に相当する民意機関「国民参政会」も7月17日、「天皇を戦争犯罪人に指名する」決議を可決した。
 これに対して蒋介石は「日記」で9月21日、「当面の急務」として「戦争犯罪人(決定)」を挙げ、10月8日には「外交急務」として「日本軍戦争犯罪人の決定」と記した。同月14日に東条英機(元首相)ら12人を「特務工作の悪事を尽くした」として戦犯指定した。「日記」からは蒋介石の意向が選定に反映されていたことが分かり、9月の戦犯リストから天皇の名前は除外されていた。
 蒋介石が「戦争犯罪人決定」を「急務」とした10月8日、国民参政会の決議に対し、戦犯問題を調査した司法行政部と外交部は天皇の戦犯認定について「蒋主席とトルーマン米大統領が、日皇の運命は日本の民意が自ら選択すべきであると共に表明した」と否定的な方向に傾いた。また当初、天皇を戦犯リストに掲げた軍令部は「皇室は将来的に日本の侵略国策を復活させる源泉だ」としつつ、「同盟国(連合国)によるポツダム宣言の円滑な命令執行と、共産主義勢力拡大の防止」のため、天皇免訴が必要だと方向転換した。
 最終的には蒋介石の統括する国防最高委員会が45年12月28日、「日本問題処理の意見書」を決定。「同盟国の誤解と日本人の反感を回避」するため、「天皇と天皇制存廃の問題は、原則として同盟国の共同意見に従い処理する」との方針を確定した。
 蒋介石政権は46年5月からの極東国際軍事裁判(東京裁判)に向け、東条ら計32人の戦犯リストを2回に分けて連合国軍総司令部(GHQ)に提出した。

 

 


あるスペイン人カトリック神父と中国布教の歴史

2015年07月10日 07時52分50秒 | 歴史

 何年か前、佐藤公彦教授(現・東京外国語大学名誉教授 中国近代史)の講義「近代中国とキリスト教」を聴講した。中国におけるカトリック神父やプロテスタント牧師のキリスト教布教の過程をつぶさに知ることができたのは、私にとって大いなる収穫だった。

 その佐藤先生の最新刊である「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで~」(集広舎 2015年4月)は、中華人民共和国成立後の宗教政策史に触れている。朝鮮戦争を契機に、中共(=中国共産党)の宗教政策は「統制抑圧」に転じる。

「…朝鮮戦争が始まると、反米の嵐の中、外国人宣教師たちは排斥され敵視されて、'51年初めにプロテスタントの西洋人宣教師三千余名が追放同然に中国を離れた。なお、四、五百名が残っていたが、それも'52年末までに、大部分が中国を離れていった。かれらは台湾に逃れたり、日本に渡ったりした。1970年代まで、こうした中国伝道の経験を持った新旧教の外国人宣教師たちのかなりの数が、日本にいた。かれらはその後、次第にアメリカなどに移って行ったが、日本の中国研究者はかれらから聞き取りをして記録に残したりしなかった。1980年代になって私が近代中国の反キリスト教を研究し始めた時に、当事者の彼らがかって日本にいたことを知って、10年早かったら聞き取りができたかも知れないと、残念に思ったことを思い出す。」(同書 p.338-9) 

 私は講義の中でも同様の話を聴いた。戦後の中国研究は概ね「新中国」に共感し、近代日本を批判するのが潮流であったから、「新中国」のもうひとつの側面に触れるのは「タブー」とされるか、「右翼」とみなされて学界の主流からは疎外された。たとえば、「満洲」はその言葉自体がタブー視され、ある種の踏絵の道具となった。その結果、清朝は満洲族の王朝であり、モンゴル、チベットとはチベット仏教を通じて、同盟関係にあったこと、漢族は被支配者であったことなど、歴史認識のイロハさえうやむやにされた。これは、中共にとってまさに思う壺だった。
 中共は大陸を制圧すると、すかさずチベットに侵攻して、少数民族居住領域に対する支配を強化した。同時に三反五反運動、大躍進政策、無産階級文化大革命などを通して、
扇動(大衆運動)による絶え間ない民衆教化を続けた。それらは、「ひとつの中国」「偉大な中華民族」を「人民」という名の愚民に叩き込むためだった。

 「1980年代になって私が近代中国の反キリスト教を研究し始めた時に、当事者の彼らがかって日本にいたことを知って、10年早かったら聞き取りができたかも知れないと、残念に思ったことを思い出す」という佐藤先生の述懐を読んで、私はあるスペイン人神父を思い出した。それはホルヘ・エステバン・リドニ(Jorge Esteban Lidoni)という方で、1970年代前半の当時、70歳くらいのカトリック神父(上智大学教授・宗教音楽学)だった。私は、この先生から「中国語」を教わった。選択外国語(第三外国語)だったので、受講生は私を含めて3名だけ。そのため、リドニ先生は、身の上話も結構話してくださった。ある日、「私は26年間、イエズス会士として中国に暮し、毛沢東とは二度あったことがある」と話された。当時の学生の間では、毛沢東は輝いていたが、不勉強な私はただただ驚くだけで、先生がどこで、なぜ毛沢東に会ったのかなど、詳しいことを訊くだけの知識はなかった。もし、佐藤先生がその場にいたとしたら、どんな会話になっていたのだろうか?

 歴史の一断面を垣間見た思いと、歴史というものは、時代に合わせてつくりかえられていく、そうつくづく実感した。


佐藤公彦著「中国の反外国主義とナショナリズム~アヘン戦争から朝鮮戦争まで」
(集広舎 2015年) 


 

 

 

 


モンゴル近現代史あれこれ

2015年03月05日 17時02分51秒 | 歴史

 昨日、この一年間、聴講生として学んできた大学から「受講証書」が届いた。同じ大学でこれまで何年かに渡って、「東アジア国際関係史」「東アジア国際政治論」「国際関係論」「現代世界史論」「中国 明清史」「ベトナム研究入門」などを受講してきたが、今年度の受講科目はちょっと変わっていて「モンゴル近現代史」だった。

 私がモンゴルを聴いて直ちに思い浮かべるのは、「蒙古放浪歌」という歌だ。大昔、高校に入学したとき、真っ先に覚えさせられたのが、この寮歌だった。旧制中学の伝統を持つ公立高校だったからだろうか、この歌は戦前から後輩へと伝えられてきたのだと思う。

 「心猛くも 鬼神ならぬ  人と生まれて 情はあれど  母を見捨てて 波越えて行く    友よ兄等と 何時またあわん …」と始まるこの歌詞は、当時の私でも時代錯誤というか、ちょっと異様な感じさえした。どこに「波の彼方の 蒙古の砂漠」があって、何故そこが「男多恨の 身の捨て処」なのか、皆目見当もつかず実感もなかった。戦後日本は、ことさら満州や蒙古について触れることを避けてきたのだから、無知は私に限ったことではなかった。後にこの歌は、加藤登紀子によって「日本哀歌集」というアルバムに採り上げられた。

 というわけで、確たる動機も知識もなく、この科目を聴講したのだったが、一年間モンゴル史を学べたのはとても有意義だったと今は思っている。

 モンゴル近現代史のF教授は、次のようなことを書かれている。

 「いまではモンゴルはだれでも自由にいける普通のくにですが、わたしがモンゴル語を勉強しはじめた1970年には、モンゴルと日本のあいだに国交さえなく、日本をおとずれるモンゴル人は1年におそらく10人もいなかったとおもいます。このような非実用的な言語を専攻する学科が、東京と大阪のふたつの国立の外国語大学におかれていたのは、もちろん日本の1945年以前のいわゆる「満蒙政策」と関係があるわけですが、いまからかんがえると、ずいぶん不思議な気がします。」

 何十年もの間、使うあてさえない言語を、全国で毎年30人ほどの学生が専攻してきた。これはさすがに、利益追求の私立大学ではできない相談だ。しかも、このモンゴル語専攻の学生の中から、世界的に名高いモンゴル学者を輩出しているのだから、まさに「無用の用」と言うべきだろう。もちろん、現在の日本とモンゴル国は、経済援助や資源開発を巡って極めて緊密な関係にあるので、モンゴル語の重要性も大いに高まっている。

 
 受講する学生は、10名程度。20人も入ればいっぱいの教室で行われる授業は、毎回、先生が作成したレジュメに基づき、テーマ毎に話が進められる。モンゴル史の通史のような本は極めて数少ないので、地図、写真などを採り入れた手製のレジュメは、とても貴重な資料となった。ちなみに、私はこのレジュメで初めてモンゴル語というものを見た。


歴史のifを探る

2014年01月16日 09時24分58秒 | 歴史

 「歴史にifはあり得ない」とよく言われるが、かといって「歴史的必然」もありえない。歴史上、政治指導者の決断が国の命運を分けた事例は数多く見られる。最近「日中十五年戦争史」(大杉一雄著)を読んで、愚かな指導者、大衆迎合の新聞が国を滅ぼしたのだと痛感した。
 折しも、アジテーター政治家・小泉純一郎があの「バカ殿」細川護煕を呼び寄せて、東京で大衆迎合劇第二幕を準備中。いったい、この国はどこへ行くのか?


大破局は避けられたのか? 

 「満洲事変」は、戦間期の「相対的安定期」と言われた国際秩序を崩壊させる最初の事件となった。
 敗戦の報を知って、甘粕正彦は満州映画社の黒板に「大ばくち、元も子もなく、すってんてん」と書いたという。(山室信一著「キメラ」 中公新書)「満洲事変」が日中戦争に発展し、さらには太平洋戦争につながり、国家、民族を破滅の淵まで追い込んだ。その「大ばくち」に賭けた戦争指導者は、あまりに無責任であり、無能だと言わなければならない。
 「日中十五年戦争史」(大杉一雄著 中公新書)が特徴的なのは、歴史に於けるIfをあえて問うていることである。例えば、満蒙問題は、関東軍の暴走を軍中央が追認し、さらに政府を動かすというような「不正規」な方法で「解決」されてきたが、もし、陸軍中央の「満洲問題解決方策の大綱」のようなオーソドックスな方法により国策が遂行されていれば、現地軍の統帥権無視はあり得なかったという。「戦争行為が日本国家の確定された統一意志によって始められてるとすれば、武力行使範囲の限定、戦争終末指導、国際関係への配慮などの点において、クーデターまがいの関東軍独奏方式よりも、はるかに合目的的な政策・作戦の選択が可能となったはずである。」(pp73-75)
 このifは、本当にあり得たifなのだろうか? 「五・一五事件」が起きたとき、犯行の動機が純粋、愛国の至情という同情論が圧倒的で首謀者への処罰はほとんど無かった。この事件に関する司法、陸軍、海軍三省の共同声明は、犯人を断罪するのではなく、「…この行きづまりの根元は、政党、財閥、および特権階級たがいに結託し、ただ私利私欲にのみ没頭し、国防を無視し、国利民福を思わず、腐敗堕落したるによるものなり」とした。これに関して、猪木正道は「1933年頃の日本人がすでに発狂していたと断定しなければなるまい」とまで記している。(「軍国日本の興亡」p.202)
 政府、司法当局までこのような有様だったとすれば、冷静な戦略的思考に基づく紛争解決など、到底なしえなかったと思わざるをえない。

「フランコのスペイン」になれなかった日本

 本書の「あとがき」には、興味深いことが書かれている。日本と同じ枢軸国側にいたスペインは、第二次世界大戦に参加しなかった。その結果、スペインは戦禍から免れ、フランコ体制は1975年まで続いた。ちなみに私にとっても、フランコ総統とサラザール首相(ポルトガル)の名前は、子供心にもお馴染みだった。日本は、このスペインのように何故できなかったのかという問いである。
 敗戦後の日本は「民主主義」国家になり、今やスペインよりずっと豊かだ。結果オーライなのだから、そんなことはどうでもいいという考えもあるだろう。だが、「戦争の犠牲、敗戦による外国からの強制」を受けることなく、ファシズムから民主国家に転換したスペインの軌跡は、歴史の教訓として思い起こすべきだろう。スペインのような「静かな革命」が可能だったのならば、広島、長崎の悲劇は避けられたのだから。
 だがもちろん、ここには人種的、宗教的な問題が立ちはだかる。非キリスト教、非白人国家である日本が、同じことをできたとは到底思えない。近代以降の「国際秩序」は、欧米人によって造られたのであり、日本は「強いられた近代」を上手に成し遂げただけなのだ。
 結局、歴史のifは、堂々巡りで日本の特異性にたどり着く…。

満洲と台湾について

 7年ほど前、瀋陽、大連など旧満洲を旅行した。錆び果てた「あじあ号」にかつての雄姿を見ることはできず、満鉄本社では「偽満洲国」への非難、日本帝国主義に対する批判をイヤと言うほど見せられた。日本の学校教育でも、満洲国に関しては中国側の主張と同様に教えられているはずだ。
 平野聡の著作によって初めて、私は「清朝の最大版図」が「中華民国の版図」と読み替えられたプロセスを知った。伝統的秩序と近代国家体系との巧みなすり替え!孫文も毛沢東も唱えた「中華民族」「ひとつの中国」は、いまも習近平の「中華民族の偉大な復興という中国の夢」に繋がっている。日本人から見れば、それは強迫観念と言っていいほどだ。中国がひとつであらねばならないという概念が、「中国人民」を幸福にしたことなど一度もないのにもかかわらず…。
 満洲に日本が遺した膨大な資産、インフラが「人民中国」の復興にどれだけ資するところがあったのか?戦後ずっとこのような疑問は、「反中国的」「反省が足りない」として無視されてきた。歴史学界においても、満洲をテーマとする研究はタブー視される時代が長く続いたという。
 その結果、日本人の満洲体験は、次の世代に引き継がれることもなく、風化してしまった。これを喜ぶのは、他ならぬ中共当局だろう。結局、戦後日本は、歴史認識の問題をおざなりにして、都合のいい部分だけを国民に教えてきた。一方、中国は、鎖国下の思想統制でナショナリズムの高揚を図ってきた。そして両者の交差点となったのが、あの尖閣事件だった。
 一方、李登輝以降の台湾においては、歴史を価値中立的に教えようとしている。年末、高雄の旧台湾精糖高雄工場(現在は台湾精糖博物館)を訪れたが、そこには「台湾砂糖の父」として新渡戸稲造の胸像が飾られていた。
 このように「親日的」な民主主義国家・台湾を「中国の一地域」として扱う、NHKなどのマスメディア。「道義的」に正しかったはずの「日中国交回復」が、今や歴史のアイロニーと化してしまった。もし、我々に正しく「国民のための世界史」が教えられていたならば、このような愚挙を犯す国にはならなかったはずだ。近現代の歴史の糸は、もつれながら今に繋がっていると痛感する。

「棚ぼた式独立」の傷うずく韓国

2013年11月10日 00時47分50秒 | 歴史
 11月8日付「産経」の「正論」に『「ぼた式独立」の傷うずく韓国』という一文が掲載された。古田博司・筑波大学教授(歴史学)によるもの。

 このエッセイは、譲歩すればするほど、尊大・無礼になっていく韓国・韓国人を見て、何故いつもこうなのだろうと疑問を持つごく普通の日本人の問いに、明白な答を与えてくれる。
 日本人は「日本が植民地時代に悪いことをしたので韓国人が怒り続けるのも無理はないと思っていた」が、「全国民が集団催眠にかかったように反日にいそしむ姿は……日本の贖罪(しょくざい)や償いとは一切関係ない」と古田氏は指摘する。

 韓国人は「日本は地震・津波・原発事故でもう落ち目だと信じ、代わりに中国が助けてくれると思いこんでいる」のだという。やはりね、と思うと同時に、到底まともにつき合える相手ではないと思い至る。

 
 毎日、韓国ドラマが何十本も放送されている日本だが、日本統治時代のドラマは決して放送されない。ドラマ中の滅茶苦茶な歴史考証や「反日的言辞」のオンパレードのため、到底放送できないシロモノばかりなのだろう。

 
 宮脇淳子氏(歴史家・学術博士)は、李氏朝鮮について、いみじくも次のように解説している。



「棚ぼた式独立」の傷うずく韓国 筑波大学大学院教授・古田博司                            2013.11.8 03:05 [正論]

 つい最近まで日本人の多くが、日本が植民地時代に悪いことをしたので韓国人が怒り続けるのも無理はないと思っていた。左派メディアもこの基本線で報道をしていた。どうも違うようだ、とようやく気づき始めたのが今である。
 ≪「戦争勝利」抜きの劣等感≫
 韓国の反日は、日本が何をしようがしまいが激化していく。領土問題では奪われた方が騒ぐのが普通だが、奪った方が大騒ぎしている。李明博前大統領は「聖地」に降り立ち、日本を侮辱する大見得(おおみえ)を切った。いくら謝罪しても無駄なことは、朴槿恵大統領が「被害者と加害者の関係は千年変わらない」と宣言し明らかになった。
 盗んだ仏像の返還拒否、条約破りの高裁判決、慰安婦像設置など米国での反日活動、靖国神社に対する狼藉(ろうぜき)と放火未遂、「原爆は神の罰」の新聞報道、朴氏の米国反日行脚、東京五輪開催決定間際の汚染水問題に伴う日本水産物禁輸処置と、挙げればきりがない。
 全国民が集団催眠にかかったように反日にいそしむ姿は異常を超えて戯画的ですらある。では問題の核心はどこにあるのか。日本の贖罪(しょくざい)や償いとは一切関係ない。
 それはひとえに韓国が独立戦争で勝ち取った国でないという韓国人自らの「脛(すね)の大傷」にある。米軍進駐により棚ぼた式に独立を得た韓国には、そもそも国家の正当性というものがないのである。
 その正当性をひねり出し、脛の傷に絆創膏(ばんそうこう)を貼る必要があった。韓国の歴史認識という「正しさ」の捏造(ねつぞう)である。韓国のいわゆる民族主義観は次の4点から成る。
 (1)高度な文明国だった朝鮮が野蛮人とみなされていた日本人に侵略され侮辱された(2)朝鮮統治における「改善」は、朝鮮人を効率的に搾取し支配し同化するため日本が朝鮮近代化を必要としたにすぎない(3)統治時代、朝鮮人民による解放闘争が継続的に行われた(4)日本人が朝鮮人に対する非人道的方策を推し進め一方的かつ高圧的に臨んだため、抵抗運動は活発化し同化政策は失敗した-である。
 ≪外では崩れた民族主義史観≫
 今日では、韓国の経済史学者、修正主義史観の米学者、日本の地道な少数の学者たちの努力によって、韓国の民族主義史観は韓国以外の地ではすでに崩れている。
 まず李氏朝鮮に高度な文明などなかった。李朝五百年は中国から学んだ朱子学の儒礼の実践、消化に費やされ、経世済民を思わぬ李朝政権により朝鮮は貧窮に閉ざされていた。日韓の保護条約は高宗王が大臣5人に丸投げして生まれた。「そちたち良きにはからえ」と王が言った史料が3カ所から出ている。よって不法ではない。不法なら時の列強がそれを盾にたちまち襲いかかったことだろう。
 収奪史観は日本のマルクス主義者たちが教えた方法である。が、貧窮の朝鮮には収奪するものがそもそもなかった。インカ帝国のように金でも採れれば収奪しようもあったろうが、何もなかったので他の植民地支配のように過酷にはなり得なかった。労働を知らない彼らにその価値や意義から教えなければならなかったことが日本による「改善」其(そ)の一であった。
 別に私は韓国が憎くて書いているのではない。このままでは日本の植民地統治が世界一残酷だったと教えられ、テロリストや爆弾魔を解放運動の雄だと刷り込まれた韓国の若者が、海を渡り過激な行動に走る危険性があると指摘せざるを得ないから書くのである。
 植民地統治は一応の成功を収めた。巨額の投資が行われ、朝鮮は年々経済成長し、近代教育は一般化し、1945年以降の教育制度の前提を成した。コメを収奪する必要もさらさらなかった。年々豊かにとれるコメは、民法で保証された農民の土地で収穫され、経済原理により日本に輸出された。
 ≪せめては日本も他山の石に≫
 軍が直接、暴力的に農村から女性を連行した事実を裏づける公文書は発見されていない。都市では戦後の企業を立ち上げる有能な経営者が総督府や銀行と協力し、民族資本家として育っていった。
 だが、これらが実証されたからといって韓国の民族主義史観が放棄される兆しは残念ながらない。それを認めれば、国家の正当性が崩れてしまうからである。したがって韓国人の考えは変わらない。それどころか、目や耳をふさぐ集団催眠状態が続いて、日本人が怒っていることにも気づくまい。
 加えて、韓国人は日本は地震・津波・原発事故でもう落ち目だと信じ、代わりに中国が助けてくれると思い込んでいる。戦後約70年間、38度線で韓国が島化し、中国に直接国境で触れることがなかった幸いに思い至らないからだ。
 解決策はもはやない。植民地統治が合法的に自然に始まり、独立戦争のないまま米軍の進駐で自然に終わったという、朝鮮近代化の真実を韓国人が認めることはあり得ないだろう。近代国家が国家理性に傷を持つとは、かくも大きな結果をもたらすのである。一国の指導者が国内に行けない所があるという、わが国の靖国神社問題も国家理性の傷であり、韓国をもって他山の石となすべきだろう。(ふるた ひろし)

天安門車両炎上は「漢族の中国」に対する異議申し立て

2013年10月30日 03時20分30秒 | 歴史
 10月28日正午、北京・天安門前に車両が突っ込み炎上した。当初日本のTV報道では、「事故か事件かは定かではない」といつものように「中国筋」に遠慮するかのような報道をしていたが、天安門に登ったことのある人ならば、あのような場所で交通事故が起きて車両が炎上することなどおよそ考えられないだろう。



 Mixiには直ちに「その車は新彊(ウイグルか西蔵(チベット)ナンバーではないか」という書き込みが見受けられた。
 


 時間が経つにつれて、新彊ウイグル自治区における東トルキスタン(ウイグル)独立運動に関わる事件であることが明らかになった。
 そもそも、中国当局が喧伝する「ひとつの中国」とは、歴史的に見ればごく最近つくりあげられた概念に過ぎない。清朝の「大清帝国」は、漢族ではなく満洲族の王朝だった。その支配原理は「華夷秩序」であり「朝貢体制」とよばれるものであった。そこには皇帝による「天下」の支配があるだけで、「中国」という概念さえ形成されていなかった。1912年、辛亥革命に伴うナショナリズムの昂揚によって「中華民族」「ひとつの中国」という概念が作られ、「大清帝国」における最大版図を「中華民国」が引き継いだのだという、歴史上最大の詐欺行為=歴史認識の改竄が行われた。

 このことについては、平野聡氏(東京大学準教授・アジア政治外交史)が『清帝国とチベット問題――多民族統合の成立と瓦解』(名古屋大学出版会, 2004年)で詳しく触れられている。
 また、平野氏は、「中国が中国ある限り真の民主化はありえない」(「Wedge」2012年2月)という論文で、中国における漢族と少数民族の問題について言及している。

『そもそも漢字文化を共有しない少数民族にとって「中国」という文字が発する価値自体が不明である以上、「漢字文明の偉大さや先進性」なるものとともに立ち現れ自らを圧迫する「中国」に従う理由などない。モンゴルやチベットが清に従っていたのは、満州人皇帝が草原世界共通の信仰であるチベット仏教のパトロンであったからであり、東トルキスタンのトルコ系ムスリムが清の領域に組み込まれたのは、この地を支配していたモンゴル系の王国ジュンガルが清に滅ぼされ、満州人皇帝はイスラーム信仰を認めたからである。だからこそ辛亥革命による清の崩壊以後モンゴルは独立に走り、チベットや東トルキスタンも独立しようとして失敗したのである。辛亥革命が近現代中国の一大慶事であるなどという議論は、清から受け継いだ領域の安定的維持という立場からすれば著しい誤謬であり、むしろ昨年の辛亥革命100周年は清の崩壊による領域不安定化100周年として記憶されるべきである。』

 平野氏が東京大学法学部の「アジア政治外交史」でこのように講じられているのは、心強い限りである。何故なら、東大法学部の講義は、日本の学界のスタンダードとされていて、政府や政治家にも大きな影響力を有するからである。
 「ひとつの中国」に何ら疑問を呈さない日本のマスメディアを見るにつけ、マスメディアや経済界の「エリート」達は、次の結語をかみしめるべきだと思うのだが…。

 『…諸外国の経済的な対中国関与、そしてそれを加速させた「チャイナ・ファンタジー」、すなわち「経済発展による社会の開放こそ、中国が西側と同じ価値観を共有するに至る最良の道である」という、中国ナショナリズムの過激な信念を正面から捉えようとしない甘美な思いこみこそ、過去20年来の中国の経済発展を加速させ、中共が動かしうる政治資源を圧倒的なものにし、人々を抑圧する構造を固定化したからである。』

 つまるところ、われわれの中国に対する幻想が中共(=中国共産党)の少数民族弾圧政策を助長してきた。このことこそが天安門車両炎上事件の真因なのだ。
 「漢字文化を共有」する日本人は、今こそ中国の本質とは何か考えるべきなのだろう。



ウイグル族の関与浮上 中国外務省は「調査中」 天安門の車両突入事件 
2013.10.29 22:01 [中国]

29日、北京市内の天安門近くを警備する武装警察隊員ら(AP)
 【北京=川越一】5人が死亡、38人が負傷した天安門前の車両突入事件で、北京の公安当局は少なくとも2人のウイグル族の男性が事件に関与したとみて捜査している。中国メディアによると、公安当局は事件が起きた28日夜に通達を発し、北京市内の宿泊施設を今月1日以降に訪れた「不審な客」や「不審な車両」に関する情報提供を求めた。

 通達は、民族対立を抱える新疆ウイグル自治区のグマ県とピチャン県に戸籍をもつウイグル族2人を、事件の「容疑者」として名指ししている。また、淡い色の四駆車と4種類の新疆ナンバーについて、事件に関与したとの見方を示している。

 在米の情報サイトによれば、この2人は現場の車内で死亡しており、公安当局は車内で死亡した残る1人の身元確認を進めているもようだ。車に乗っていた人物が「旗のような物を振っていた」とも伝えられており、何らかの政治的要求を示すための計画的犯行だった可能性も否定できない。

 中国外務省の華春瑩報道官は29日の定例会見で、事件について「調査中」と述べる一方、新疆ウイグル自治区で頻発している暴力事件には「断固反対し、打撃を加える」と強調した。

 また、中国国営新華社通信によると、中国共産党は29日、中央政治局会議を開き、第18期中央委員会第3回総会(3中総会)を北京で11月9~12日の4日間の日程で開催することを決めた。車両突入事件をふまえ、公安当局は3中総会に向けて警備を一段と強化する可能性がある。

中国当局、NHK国際放送の視聴を制限 突然真っ黒に
2013.10.29 13:04 [中国]

車両が炎上し、封鎖された天安門前で警戒する警察官=28日、北京(共同)
 【北京=川越一】北京市内で受信しているNHK国際放送が、29日午前11時(日本時間正午)のニュースで、28日に天安門前で起きた車両炎上事件をトップニュースで報じようとしたところ、突然、テレビ画面が真っ黒になり、視聴が制限された。

 中国当局は人権問題など敏感な問題に関する報道について、時折、同様の措置を取ることで知られている。ウイグル族の事件への関与が取り沙汰される中、当局が中国国内で情報が広がることに神経を尖らせていることがうかがえる。








「尖閣を日本が盗んだ」 鳩山妄言を嘲笑う中国

2013年06月26日 03時58分16秒 | 歴史
 「尖閣を日本が盗んだ」と言うのなら、「今でしょ!」とばかりの鳩山由紀夫発言。本人にとっては、「友愛」「東アジア共同体」の礎となるつもりの発言なのだろうが、日本国の首相までやった男が、かくも無能で脳天気なのを知った中共(=中国共産党)首脳は、半ば絶句し「日本人もここまで劣化したのか」「小日本など恐れるに足らない」と確信したはずだ。

 鳩山由紀夫、菅直人は、ともに「理系政治家」だ。かつて「朝日新聞」は「理系政治家」は理性があり、清廉潔白だと誉めそやしたことがある。だが、両者が日本政治史上、稀に見る愚者だったことは、今や明らかだ。歴史感覚の欠如が彼らの致命的な欠陥だ。
 戦前は軍国主義、侵略の歴史だったと納得し、そこからは何も学ばない。われわれ「市民」の権利は、「平和憲法」によって活かされているというのが、この両者の歴史感覚だ。

 日本と中国の近代化過程を年表風に追ってみると、およそ40年のタイムラグがあることが分かる。

【日本】                【中国】
                     1840 アヘン戦争
1853 ペリー来航     ↑
             近
1868 明治維新     代
             化

1890 大日本帝国憲法   ↓ 
                     1894 日清戦争    ↑
                        戊戌変法    近
                        清末新政
                                 代
                     1911 辛亥革命
                                 化  
                     1927 国民革命    ↓


 日本が近代国家に必要とされる社会制度を整えたのは、「ペリー来航」(1853)による「西洋の衝撃」から「大日本帝国憲法」発布(1890)までの、およそ37年間。中国は「日清戦争」(1894)から国民革命(1927)までの36年間となる。タイムラグとはこの期間の違いを意味する。
 古くはスペイン、ポルトガル、さらには「大英帝国」の消長を例に挙げるまでもなく、国家にも生誕から没落までの歴史過程があると考えられる。この考えからすれば、先年の尖閣事件は、日中両国にとって象徴的な出来事であると思われる。
 すなわち、近代化に出遅れた中国人は、これまで日本に対してアンビバレントな感情を持ち続けてきた。ひとつは中国を侵略した日本帝国主義に対する憎しみの感情、もうひとつは経済的に繁栄した「豊かな日本」に対する嫉妬と憧れの感情だ。

 だが、改革開放後の中国は、急激な経済成長を遂げ、もはや日本に学ぶものはない、という感情を持つに到った。その象徴的な出来事が、尖閣事件であるというのだ。これはS教授(中国近代史)から伺った話でもあるのだが、まさに成長する中国と縮小する日本が交差する尖閣事件について、元首相が「尖閣を日本が盗んだ」と言ったのだから、中国からみれば、これは「中華」の復活、すなわち華夷秩序の復活に他ならないだろう。

 まさに尖閣事件に前後して、中国人(漢民族)の「中華思想」は復活したのだ。かれらが、民主主義、人権という西欧的概念をそのまま採り入れることはないだろうし、従って漢民族が支配する少数民族地域、チベット、内モンゴル、新彊ウイグルを手放すこともあり得ないだろう

 ルーピー鳩山は、こんな基本的なことさえ知らないのだろうな?

 

鳩山氏、尖閣問題で「『日本が盗んだ』と思われても仕方ない」
2013.6.25 12:42 【産経新聞】

 鳩山由紀夫元首相が香港のフェニックステレビの取材に対し、沖縄県・尖閣諸島の領有権を主張する中国政府に理解を示す発言をしていたことが25日、分かった。尖閣をめぐる歴史的経緯に言及し、「中国側から『日本が盗んだ』と思われても仕方がない」と述べた。発言は同日午前、中国内外に向けて報道された。
 鳩山氏は既に政界を離れているが、首相経験者だけに尖閣諸島に領有権問題はないとする日本政府の立場と相いれない発言内容が、日中両国の世論や尖閣情勢の今後の推移に影響を与える可能性もある。
 中国は日本の尖閣領有について、第2次大戦中のカイロ宣言にある「日本が盗み取った中国東北地方や台湾などの島しょを中国に返還する」との規定に違反すると主張している。これに鳩山氏は「カイロ宣言の中に尖閣が入るという解釈は中国から見れば十分に成り立つ話だ」と明言した。




「日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀」を見た!

2012年08月12日 01時48分27秒 | 歴史

 「日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀を見る。「アジアの”一等国”」で散々の批判を浴びたNHKが、今度は台湾の原住民を取材し、彼らが辿った歴史を描くというのだから、注目を集めないはずはない。と思ったら、NHKはこの番組を土曜日の夕方、それもBSプレミアムでひっそりと放送したのだから、放送されたこと自体を知らなかった人も多いだろう。

 実は、この番組には二つのタイトルが用意されているようだ。新聞の番組欄には「日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀」と書かれているが実際に番組を見ると「三つの名を生きた兵士たち 台湾先住民”高砂族”の20世紀」というタイトルになっている。
 この番組を紹介したNHKのHPでも、この二つの番組タイトルが併存していて、ここにすでに番組制作者の無定見、無節操が浮き出ている。「日本人になろうとした少年たち」というタイトルは、それでは高砂族は日本人ではなかったのかという突っ込みに応えられないはずだ。

 すでにこのブログで紹介したが、番組紹介の中で「中国共産党に入った」原住民がいると書かれていた(下記、番組HP参照)はずが、途中でその部分だけ書き換えられたという事実がある。ここからも、「皆様のNHK」の異常なほどの迷いのようなものが感じられる。

 それではつまるところ、どういう番組だったのかというと、「アジアの”一等国”」で批判されたような恣意的なインタビューの選択を避けて、できるだけ”公平”に見えるように腐心したあとは窺える。
 高砂義勇兵として皇軍に加わり、南洋で活躍した後、帰国した台湾は、中国国民党が支配する「中華民国」に変わっていた。二二八事件では、国民党軍の弾薬庫を襲い、23年間刑務所に収監された老人。国民党独裁下で小学校の教師になり、「日本精神」をこどもたちに教え続けた老人…。ここまでは、酒井充子監督の秀作「台湾人生」と重なる内容だった。

 ところが、原住民の老人の中で、決して日本語を喋らない老人が二人でてきた。喋る言葉は華語(北京官話)で、身振り手振りは大層な中国人そのもの。このひとりは、日本敗戦後、国民党軍に志願して、大陸で共産党軍と戦ったが、捕虜になってしまう。国民党軍は兵士は殴られるばかりでひどい目にあったが、共産党軍(本人は解放軍と言っていたが)は親切で温かく扱ってくれたという。
 国共内戦当時、中共の少数民族政策は、少数民族を尊重し、「中国革命」の隊列に加えていくという方針だった。そのため、台湾の原住民が、手厚く遇されたという話しもあながちウソとは言えない。だが、現在のチベット、ウイグル、モンゴル人に対する中共政府の「同化政策」を思い起こせば、当時の政策は嘘も方便だったことがよく分かる。

 にもかかわらず、NHKは、この高(こう)という原住民が「中国が台湾を統一することを望んでいる」と話すのをわざわざ放送した。これだけでも、この番組のお里は知れたものだ。そう、現在の中国当局の意向を忖度して、わざわざ「中国はひとつ」「その正統な統治者は、中共=中国共産党」と言っているのだ。
 NHKがこの番組が放送される以前から、視聴者の批評を気にしていた理由がよく分かった。こういう姑息で恣意的な番組を作ってしまったという後ろめたさを自覚しているのだろう。

 番組の最後に、ある老人が「もう日本語は消えていく」とつぶやく。それは、日本語世代が台湾から消え去っていくと同義だ。日本統治時代、国民党政府独裁時代、そして民主化された台湾を経験した世代が消え去っていく。虎視眈々とそのときを待っているのが、中共(中国共産党)ではないのか。台湾に刻まれた「日本」の残映は、中共がお手の物とする「洗脳」(中華愛国教育)で払拭することができる、と考えているはずだ。NHKは、そのお手伝いを自ら買って出ている「売国放送局」なのか?

 NHKの番組担当者に改めて問いたい。中共の代弁者のような原住民をどうやって選択したのか?当該人物は、原住民の中で普遍的な人なのか? 台湾は、大陸とは違って、完全な民主主義国家であるのだから、自由な取材が可能だったはず。本当にあの人物が、インタビューに値する人物だったのかどうか? きちんと回答してもらいたい。

 結論として、NHKの堕落はここまで進んでいるのかと感じた。国営放送局が他国の「歴史認識」に追従する。こんなのは、この国でなければありえないと思った。愛国心のかけらもない、売国放送局。

 《番組HPより》

日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀

BSプレミアム 8月11日(土)午後4:30~5:59 

かつて日本の統治下にあった台湾。その山間部に、当時“高砂族”と呼ばれた人々の村が点在する。戦時中日本軍は、こうした村々から志願を募り部隊を編成。最前線に送り込まれた高砂族の若者達は、山岳民としての高い身体能力を生かし、目を見張る活躍をする。しかし、日本の敗戦後、彼らを待っていたのは過酷な運命だった。新たに台湾を支配した国民党政権から弾圧を受ける者。故郷を捨て大陸で中国共産党に加わる者。国家と戦争に翻弄された台湾先住民の20世紀を、証言で浮かび上がらせる。
【語り】伊東敏恵


日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀 (続)

2012年08月10日 22時47分25秒 | 歴史

 前回のブログで「日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀」(8月11日放送予定)について触れた。詳細は前回分を見ていただくとして、私が指摘したかったのは、NHK内部に中共(=中国共産党)史観が蔓延しているのではないかという点だった。

 その後、この番組を紹介するNHKのHPを見たら、私が問題視した部分、すなわち「新たに台湾を支配した国民党政権から弾圧を受ける者。故郷を捨て大陸で中国共産党に加わる者という部分が「時の政権から弾圧される者。故郷を捨て大陸に渡る者に書き換えられていた。書き換え前の文章では、台湾に逃亡してきた国民党政権に極めて批判的で、その弾圧から逃れて中共(中国共産党)に入党したと読める。それではクレームが付くと気づいたのか、曖昧な表現に書き換えたということらしい。

 意外にも、NHK関係者は、番組の評判を放送前から気にしているようだ。もし万が一、
私のこのブログを読んで、番組紹介を書き換えたのだとしたら、大いに光栄なこと。かつてNHKブックスからは「中国共産党史序説上・下」(宇野重昭著)という名著が出たのだから、そこから少しは中国の政治史、共産党と国民党の相克の歴史を学ぶべきだろう。民主党政権の意向、中国当局の目ばかり気にして番組を作っていると、明日放送されるような番組になってしまうんだぞ、と予言しておく。

 

8月10日現在の番組紹介》

かつて日本の統治下にあった台湾。その山間部に、当時“高砂族”と呼ばれた人々の村が点在する。戦時中、日本軍は、こうした村々から志願を募って部隊を編成。最前線に送り込まれた高砂族の若者たちは、山岳民としての高い身体能力を生かし、目を見張る活躍をする。しかし、日本の敗戦後、彼らを過酷な運命が待っていた。時の政権から弾圧される者。故郷を捨て大陸に渡る者。国家と戦争に翻弄され続けた民族の歴史を証言で描く。
【語り】伊東敏恵

 

8月6日までの番組紹介》

かつて日本の統治下にあった台湾。その山間部に、当時“高砂族”と呼ばれた人々の村が点在する。戦時中日本軍は、こうした村々から志願を募り部隊を編成。最前線に送り込まれた高砂族の若者達は、山岳民としての高い身体能力を生かし、目を見張る活躍をする。しかし、日本の敗戦後、彼らを待っていたのは過酷な運命だった。新たに台湾を支配した国民党政権から弾圧を受ける者。故郷を捨て大陸で中国共産党に加わる者。国家と戦争に翻弄された台湾先住民の20世紀を、証言で浮かび上がらせる。
【語り】伊東敏恵


日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀

2012年08月06日 19時10分34秒 | 歴史

 「終戦記念日」にちなんで、毎年、NHKは特集番組を放送する。今年は何をやるのかと思っていたら、そのひとつが「日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀」(8月11日放送 NHK BSプレミアム)※だという。

※ http://www.nhk.or.jp/bs/t_culture/

 NHKは「アジアの”一等国”」(2009.4.5放送)で、そのときの政治権力に追従する情けない姿を露呈した。この番組は「台湾総督府の何十万もの文書を読み解き歴史を明らかにする」という触れ込みだったが、精緻な分析作業が行われた形跡など全く見られない。こけおどしのナレーションとおどろおどろしい音楽。加えて、歴史学でも認知されていない「日台戦争」などという造語を散りばめた、センセーショナルな番組制作手法。結局、現在では金科玉条となった「市民」「人権」「平和」などのキーワードで、台湾の日本統治時代を裁き、蔑む内容だった。これで喜ぶのは民主党政権の一部政治家、「朝日」や岩波書店、それに連なる「進歩的文化人」と追従者達(教員等)、あるいは中共(中国共産党)関係者だけではないか。

 8月11日に放送予定の「日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀」(NHK BSプレミアム)は、「アジアの”一等国”」と同じく日本統治時代の台湾を採り上げ、日本敗戦後、台湾原住民が辿った歴史を描く。

 まだ、放送はこれからなのであれこれ言うことはできないが、NHKのHPを見る限りでは、全く期待はできない。HP上では日本敗戦後、台湾原住民の中に「故郷を捨て大陸で中国共産党に加わる者」がいたとわざわざ書かれている。(下記参照)当時の政治史、政治状況を調べればすぐに分かることだが、こんな事例はほぼゼロに等しいほど希有なはずだ。それをわざわざ番組紹介に入れるとは、中国共産党こそが「中国」の解放者であるという中共史観を受け入れている証拠ではないのかいつからNHKは、中共(中国共産党)の手先になったのか。

 団塊の世代あたりまでは、親の世代から戦争体験を引き継いできたが、今や世代は変わり、マスメディアの番組制作手法も極めて観念的になってきた。昨年、テレビ朝日は日本軍からの脱走兵を美化した「”神”の医師 101歳日本人医師の戦後」を放送した。山崎某という脱走兵にまつわる”美談”だった。しかしこれは、戦争体験者から見ればすぐにおかしいと気づく内容だったのに、若い視聴者には「神様のような人」「中国に謝罪した素晴らしい人」と映ったらしい。こういう番組が続くと、歴史を見る眼はますます曇らされ、真実から遠のいていく。 
 8月11日、どんな放送がおこなわれるのか、注視しようではないか。

日本人になろうとした少年たち  台湾先住民“高砂族”の20世紀

BSプレミアム 8月11日(土)午後4:30~5:59

かつて日本の統治下にあった台湾。その山間部に、当時“高砂族”と呼ばれた人々の村が点在する。戦時中日本軍は、こうした村々から志願を募り部隊を編成。最前線に送り込まれた高砂族の若者達は、山岳民としての高い身体能力を生かし、目を見張る活躍をする。しかし、日本の敗戦後、彼らを待っていたのは過酷な運命だった。新たに台湾を支配した国民党政権から弾圧を受ける者。故郷を捨て大陸で中国共産党に加わる者。国家と戦争に翻弄された台湾先住民の20世紀を、証言で浮かび上がらせる。
【語り】伊東敏恵


日本人になろうとした少年たち 


「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 贖罪史観に一石

2012年03月30日 08時42分11秒 | 歴史

 私の友人・知人には、「正史(まさし)」「青史(せいし)」という名前の人がいる。この語源は、中国の歴史記述の方法に由来している。「正史」(せいし)は言うまでもなく、天下を手中にした王朝が過去を振り返って、王朝の歴史を叙述するものだ。それは史実を客観的に記述するのではなく、権力の正当性を天下に誇示するのが目的だ。

 今朝、「産経新聞」を見たら「”日本は自衛戦争” マッカーサー証言 都立高校教材に掲載 贖罪史観に一石」という注目すべき記事が掲載されていた。(下記参照)
 1951年米国議会証言の場で、マッカーサーDouglas MacArthur、1880-1964 元GHQ 最高司令官が、日本が日米開戦を決断したのは「主に自衛のためだった」と証言した。この史実を都立高校用の副読本に採り上げたというニュースだ。まさに「産経」らしいニュースで、「朝日」の読者には伝わらない。というか、「朝日」の”インテリ”読者は「また、ウヨクの奴らが」としか思わないだろう。

 だが、中国史における歴史叙述を例に挙げるまでもなく、「正しい歴史」などというものは金輪際ありえない。「歴史は現在の都合で書き換えられるもの」だからである。この基本認識がないと、不毛な「歴史認識問題」に思考回路を絡め取られてしまう危険がある。
 「産経」の記事でもコメントしている渡部昇一氏(上智大学名誉教授)の立場から見れば、日本の近現代史(特に昭和史)は「現在の都合で書き換えられ」た最たるものなのだ。「書き換えた」のは、もちろん戦勝国である米国。東京裁判に基づく「自虐史観」を日本国民に強要し、日本国民に「日本は侵略国家だった」という洗脳を施してきた。この「自虐史観」に都合良く相乗りしてきたのが中国、朝鮮。この史観は、彼らの対日カードの切り札して、今なお有効に使われている。

 東京都が都立高校生用副読本にこのマッカーサー証言を掲載したのは結構なことだ。だが、生徒にこの内容を伝えようとしても、現実にはほとんど読まれないのではないかと危惧する。というのも、都立高校の社会科教師の大半は、いわゆる「進歩的文化人」気取りの連中。生徒にこの副読本を読むよう勧める教師が数多くいるとは到底思えない。
 教師の中でも歴史(社会科)教師がとりわけ時代遅れ(=愚か)なのは、自らが「他者よりも正しい歴史的真実を知っている」と信じるからだろう。だが、繰り返すまでもなく、「正しい歴史」などあり得るはずもない。一介の教育公務員に過ぎないという等身大の自画像を描けず、生徒・同僚に対してだけ自らの「誇大妄想」を語るというのが、よくある歴史教師の典型なのだ。「職員会議」で延々と「正論」(産経新聞の「正論」ではない。「当局批判」「政府批判」の持論のこと)をブツのは、決まってこういう教師なのだそうだ

 いずれにしても、この度の副読本配布は、贖罪史観の払拭、歴史教育正常化へのささやかな一歩。こう書く私は、知り得た事実を淡々と書いただけ、決して「ネトウヨ」などではないことを明言しておこう。
 

 

「日本は自衛戦争」マッカーサー証言 都立高教材に掲載 贖罪史観に一石

2012.3.30 08:11 (1/2ページ)歴史問題・昭和史

 日本が対米戦争に踏み切った理由について、連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったマッカーサーが1951(昭和26)年、「主に自衛(安全保障)のためだった」と述べた米議会での証言が、東京都立高校独自の地理歴史教材の平成24年度版に新たに掲載される。日本を侵略国家として裁いた東京裁判を、裁判の実質責任者だったマッカーサー自身が否定したものとして知られる同証言を、公教育の教材が取り上げるのは初めて。

 昭和の戦争での日本を「侵略国家だった」と断罪した東京裁判に沿う歴史観は、「日本国民は…政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」で始まる憲法前文にも反映され、「軍隊を持たず」という国際社会でも異質な国家体制の前提となってきた。歴史教育は「贖罪(しょくざい)史観」一辺倒となり、子供たちの愛国心を育んでこなかった。その歴史観が絶対ではないことを示すマッカーサー証言の公教育での教材化は、戦後日本の在り方に一石を投じそうだ。

 証言は、朝鮮戦争で国連軍やGHQの司令官職を解任されたマッカーサーが1951年5月3日、米上院軍事外交合同委員会の公聴会に出席し、朝鮮戦争に介入した中国への対処に関する質疑の中で言及。連合国側の経済封鎖で追い詰められた日本が、「主に自衛(安全保障)上の理由から、戦争に走った」と述べた。

 都の教材は、この部分の証言を英文のまま掲載し、《この戦争を日本が安全上の必要に迫られて起こしたととらえる意見もある》としている。

教材は、江戸時代以降の日本の歴史を、東京の歩みとともに紹介する『江戸から東京へ』。都教委が都立高校の全生徒に平成23年度から配布している。都民の意見をもとに改訂した24年度版は、全新入生約4万3千人に配布する予定。

 『江戸から東京へ』に掲載されたマッカーサー証言については、月刊「正論」5月号(3月31日発売)が詳しく紹介している。

 渡部昇一・上智大学名誉教授の話「連合国から東京裁判の全権を委任されたマッカーサー自身が米議会で『日本の自衛戦だった』という趣旨の証言をしたことは、村山談話に象徴されるように東京裁判を背負ったままの日本にとって“超重大”であり、すべての日本人が知るべきことだ」

 ■村山談話 戦後50年の平成7年8月15日、当時の村山富市首相が発表。わが国が「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与え」たとし、「痛切な反省の意」「心からのお詫(わ)びの気持ち」を表明。以後の内閣もこの見解を踏襲してきた。

 (「産経新聞」2012.3.30)

 


ハワイに行ったら真珠湾を見よう! 真珠湾攻撃70周年

2011年12月08日 19時43分47秒 | 歴史

 今日は真珠湾攻撃70周年ということで、マスメディアは各種のニュースや関連番組を流している。だが、大半は「悲惨な戦争を繰り返さない決意」とやらを語るだけで、1941年の今日何故、連合艦隊がハワイを奇襲したのかという原因について触れることはない。
 歴史とは本来「現在の都合で書き換えられる」ものだと認識しているので、いわゆる自虐史観に呪縛された現代日本の閉塞状況は、速やかに改めるべきだと思っている。

 今年の5月、ハワイ旅行の際、私は真珠湾と中華街(チャイナ・タウン)を訪れた。ワイキキ・ビーチからバスを乗り継ぎ、1時間以上かかって真珠湾に着いたが、周囲の観光客に日本人とおぼしき人は一人もいなかった。アジア人らしき少数の人達は、多分、中国人と韓国人だっただろう。
 ハワイには多くの日本人が訪れるのに、何故、真珠湾には行かないのか?そこには、歴史に無頓着な日本人特有の甘さがあるように思われる。真珠湾には何が展示され、どういう説明が為されているのか? そして、それらは日本人が容認できる内容なのかをぜひこの目で確かめようではないか、と思う。

 真珠湾で撮影した説明プレート等の写真を掲げてみよう。その中に「真珠湾攻撃以前の平和なハワイ」というプレートがあるが、何のことはない、米国がハワイ王国を滅亡に導き、ハワイを属領にした歴史はきれいに消し去って、日本が攻撃する以前のハワイはかくも平和だったとうそぶいているに過ぎない。さすがこう主張できるのは、「戦勝国」の特権だろう。

 日本人はめでたくも「平和への誓い」「悲惨な戦争を反省」などと繰り返しているが、米国人の主流は、今なお「JAPの真珠湾攻撃を忘れるな」なのだ。そのことは、写真を見ただけでよくわかる。ともあれ、ハワイ旅行の際は、真珠湾に足を伸ばそうではないか。




 (「嵐の前に…」)


(日本軍の第一波、第二波攻撃

 


(沈没した「アリゾナ」をそのまま展示する「アリゾナ記念館」)

時代の風:「12・8」から70年=東京大教授・加藤陽子

 ◇削除された開戦の意図

 今年は、日本軍のマレー半島上陸と真珠湾空襲によって太平洋戦争が開始されてから70年にあたる。12月8日がまた巡ってくる。丸70年といえば、ひと一人の人生の時間に相当するだろう。もっとも、世界に冠たる長寿国の日本では、昨年段階で女性の平均寿命が86・39歳、男性が79・64歳に達してはいるが。

 戦場を体験した世代で最も若い層であるはずの敗戦時に16歳の少年飛行兵だった人々を考えてみても、彼らでさえ、今や優に80歳を超える現実がある。やがて、戦場を知る人々が世代ごといなくなる時代もやってこよう。戦争の裏と表をつぶさに見た人々が、折々の生活のなかで、家族に伝えてきた多様な体験。彼ら彼女らによって伝えられた「戦争の話」こそが、日本人の戦争観を大きく規定してきたと思われる。

 人々の戦争観を見る際に参照されることの多い、2005年に読売新聞が行った調査は、そのような意味で興味深い結果を出した。1941年に開始されたアメリカと日本の戦争を侵略戦争だとする人は34・2%。それに対し、37年からの中国との戦争を、日本の侵略だったとする人は、そう思う、ややそう思う、を合わせると68・1%に達する。注目すべきは、日中戦争を侵略戦争ではなかったとする積極的な否定論が、1割程度にとどまったことだろう。

 当時も激しかった歴史認識論争の中で、調査結果を読んだが、第一印象として、先の大戦に対する日本人の戦争観は思いのほか穏当なものだと感じたことを思い出す。日本社会において、戦場や戦争を体験した人々の存在とその語りが、調査で見られた、比較的穏当な戦争観をもたらしてきたのではないか。そうだとすれば、戦場や戦争を知る世代が退場してゆく今後が正念場となる。

 先に私は、アメリカとの戦争を侵略戦争と考える人が3割強、中国との戦争を侵略だと考える人が7割弱と出た調査結果を「穏当」と書いた。こう書いたのは、新聞調査に表れた国民の戦争観が、日本政府によって公式に表明されてきた見解に近い内容となっていたからである。

 95年、村山富市内閣は「戦後50周年の終戦記念日にあたって」とする首相談話を閣議決定の上で発表した。同談話は「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ」として国民と戦争の関係を述べ、対外的には「植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」とまとめていた。

 10年後の05年、小泉純一郎内閣も終戦記念日にあたっての首相談話を発表する。国民と戦争の関係を述べた前段「先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷の地に亡くなられています」のトーンは、村山談話と大きく異なっていた。だが、対外的側面について述べた後段「我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」との評価は、村山談話を踏襲したとわかる。

 小泉内閣以降の歴代内閣もまた、アジア諸国の人々に対する植民地支配と侵略についての見解につき、基本的には二つの談話を踏襲してきた。そうであれば次に浮かぶ問いは、アメリカとの戦争、太平洋戦争についてはどうなのか、ということになろう。

 開戦から70年もたったのだから、新たな発見などそうそうあるまいと思われるかもしれない。だが、そうした予想はうれしいことに裏切られる。一例として、真珠湾攻撃30分前、アメリカに手交されるはずだった「最後通牒(つうちょう)」1件を挙げておく。ワシントンの日本大使館の職務怠慢によって、宣戦布告文の手交が攻撃開始50分後となり、奇襲攻撃の汚名を負ったとの解釈と経緯はご存じだろう。

 この通説的解釈に、新史料を提示して反論を加えたものに井口武夫著「開戦神話」(中公文庫)がある。東郷茂徳外相から野村吉三郎大使宛ての最終訓令は、実のところ、日米交渉打ち切り通告文以上のものとして読めないよう作文されていたのではないか。交渉打ち切り通告だけでは宣戦布告の意思表示とならないのはハーグ条約からも明らかなのに、なぜ外務省は打ち切り通告文を送ったのか。これが、元外交官であり外交史を専門とする井口氏の見立てと問いである。

 事実、41年12月3日、当時外務省アメリカ局長であった山本熊一は、明確な開戦通告の文言を含む最後通牒草案を準備していた。だが翌4日、大本営政府連絡会議の席上、開戦決定をアメリカに察知されるのを忌避する軍部の反対によって、明示的に開戦意図を述べた末尾の一文が削除されることとなった。

 緒戦の軍事作戦の成功のみを考える軍部に、外務省本省がこの時点で屈していたことの意味は大きい。災いの種は東京でまかれていたともいいうる。先の調査で見た国民の戦争観でも、アメリカとの戦争に対する評価はいまだ定まっていないようだ。歴史学の出番は、むしろこれからが本番なのかもしれない。=毎週日曜日に掲載

毎日新聞 2011年12月4日 東京朝刊


池上彰「現代史講義」が面白い!

2011年09月06日 11時18分11秒 | 歴史

 9月4日(日)から始まった「池上彰の現代史講義~歴史を学べばニュースが分かる」(BSジャパン 全14回)の第1・2回を見た。

 NHKや民放の番組では、視聴者のレベル、スポンサーへの配慮など、さまざまな制約条件があって、複雑な政治問題では、さすがの池上さんも口を濁す場面がしばしば見られた。
 この番組は、池上彰氏が信州大学経済学部の特任教授として行った「現代史基礎」という科目を収録したもの。正規の授業そのものなので、池上教授の個人的意見もふんだんに盛り込まれていて、興味深い内容になっている。
 きょうは「ベルリンの壁」だったが、同種の授業を大昔の学生時代(国際政治史)と、昨年、聴講生として受けた科目(国際関係論)でも聴いた。それらと比較すると、池上教授は話が上手で、とても分かりやすい授業だった。さすがTV育ちという感じだ。

 9月12日(月)午後9時からは「中国と台湾の対立」というテーマで放送される予定だが、実は同じテーマでテレビ東京が一般番組を放送したことがある。もちろん、そのときも池上彰氏の番組だった。それに対する反響は、あまりよろしくはなかったので、今度の講義では池上教授の個人的意見が十分に聴けるだろうと期待している。

 (信州大学経済学部での講義風景)

 

【番組HPより引用】
 
ジャーナリストの池上彰の生まれ故郷は、実は信州・松本なのです。池上彰は信州大学経済学部(松本キャンパス)で、学生たちに現代史を教えます。
 第二次世界大戦以後の現代史を、中学・高校で深く学ぶことがなかったと言う人は多いはずです。池上彰は言います。「今、世界中で起こっている出来事をニュースで見るとき、現代史の基礎を知っておくと、よくわかるし、興味深く見ることが出来るのですよ」。
 番組では、この池上講義に、テレビ東京報道局のニュース映像と「20世紀の記録映像」を加えて、よりビジュアルな番組を目標に、視聴者に歴史を楽しんでもらえる番組に仕上げます。歴史を学べて、楽しめるあっという間の二時間番組です。

 「中東ジャスミン革命」「朝鮮半島の緊迫化」など・・・様々な国際ニュースに触れるそんな時、中学・高校時代の教科書を読みかえして、時代背景を知っておけば、もっと面白くなります。でも「そんな暇はありません!」という方は、この番組をご覧下さい。ジャーナリスト・池上彰のやさしい言葉で語りかける講義で、楽しく理解出来ます。これまで「現代史」の現場を取材してきた池上彰の臨場感あふれる解説で、『歴史の醍醐味』を皆さんにお伝えします。
【出演者】 講師・・・池上彰
(信州大学経済学部特任教授)
助手・・・大江麻理子(テレビ東京アナウンサー)
 

放送日 放送時間(2時間) 番組内容

  • 9月4日(日) 夜8時 チェルノブイリからフクシマヘ 
  • 9月5日(月) 夜9時 東西冷戦とベルリンの壁崩壊 
  • 9月11日(日) 夜8時 ソ連の誕生と崩壊
  • 9月12日(月) 夜9時 中国と台湾の対立
  • 9月19日(月) 夜9時 朝鮮戦争とその後
  • 9月25日(日) 夜8時 中東戦争とその後
  • 9月26日(月) 夜9時 ベトナム戦争と日本
  • 10月2日(日) 夜9時 カンボジアの悲劇
  • 10月3日(月) 夜9時 キューバ危機と核開発競争
  • 10月9日(日) 夜9時 中国 大躍進政策と文化大革命
  • 10月10日(月) 夜9時 中国 天安門広場が血に染まった
  • 10月16日(日) 夜9時 石油が武器になった
  • 10月17日(月) 夜9時 ひとつのヨーロッパへの夢
  • 10月23日(日) 夜9時 9.11 そしてイラクとアフガニスタン

  • 1945年3月、200万ベトナム人餓死事件とは?

    2011年06月09日 10時00分04秒 | 歴史

     昨日、大学の授業の中で、気になることを聴いた。第二次世界大戦下、日本は、仏政府の合意のもと、仏領インドシナ(ベトナム)に進駐した。1945年3月、日本軍が米作を制限し、ジュート栽培を強要したことによって、二百万人ものベトナム人が餓死に追いやられたというのだ。

     この話は、昔、本か何かで読み知っていたので、特に驚かなかった。「日本軍はベトナムでも悪いことをしたのだ」という文脈で、これを理解していた。
     だが、先生は「当時のベトナムの人口は、二千万人ほど。二百万もの人が死んだとは、考えにくい」と言う。「でも、この数字は絶対に変えられない。何故だと思う?」と学生たちに質問。
     その答えは、この数字が、ホー・チミンによって行われた「ベトナム独立宣言」(下掲)に書かれているからだという。

     現在、日本とベトナムの関係は、政治的、経済的に極めて良好だが、いつの日かこの話が蒸し返されるときが来るかも知れない。だから、歴史の検証が必要なのだが、建国の父(ホー・チミン)の言葉は絶対で、この金科玉条に触れることは、ベトナム側としてもタブーでもあるのだ。
     
     日中関係においては、中国側が常に「歴史認識カード」を持っていて、彼らの都合でそれを持ち出すという印象が強い。「南京事件」の被害者は40万人だという中国の主張が、いつのまにか日本人の間にも広まってしまった。日越関係が同じようなことにならぬよう願うばかりだが、先生が最後に力強い言葉を述べられた。
     「いいですか、歴史は史実の積み重ねではなく、現在の視点から書かれた”物語”なのですよ」と。
     
     これには、私も全く同感。このくらいのドライな認識がなければ、先生のような国際的な活動は勤まらない(あるいは、やってられない)のだろう。
     かつての左翼歴史学者は、「日本帝国主義」の「罪状」を示すため、この「二百万ベトナム人餓死事件」をわざわざ採り上げた。「日本」の断罪こそが彼らの目的であったから、それもまた「現在の視点から書かれた”物語”」でもあったのだ。私自身、すっかりこの”刷り込み”の被害に遭っていたのだと分かった。


    【ベトナム独立宣言】(一部) 1945年 by 胡志明(ホー・チミン)

    「…1940年の秋に、ファシスト日本(日本のファシズム)が連合国との戦いにおいて新しい基地を確立する為にインドシナ半島の領域を荒らした時、フランスの帝国主義者は彼らに膝を曲げてひざまずいて、我々の国を彼らに手渡した。このように、その日付から、我々の身内は、フランス人と日本人の二重の軛に服従した。彼らの苦しみと惨めさは増加した。結果は、昨年の終わりから今年の初めまで、クアンチ省からベトナム北部に至るまで、我々の仲間の市民のうちの200万人が飢餓で死んだ。 3月9日に、フランス軍隊は、日本人によって武装解除された。フランスの植民地主義者は逃げたか、降伏した。それを示すだけでなく彼らが5年の間に、もし彼らが日本人に我々の国を二回売っていなければ、我々を「保護する」事が出来なかった。 3月9日の前に、幾度もベトミンは、日本人を相手取ってフランス人にベトミンと同盟するよう訴えた。この提案に同意する代わりに、フランスの植民地主義者は、逃げる前に彼らが拘留される沢山の我々の政治犯を大虐殺したように、ベトミンメンバーに対してイエンバイ省カオバン省にて彼らのテロ活動を強めた。 こういう事にもかかわらず、我々の仲間の市民は、常にフランス人の方へ寛容で人道にかなった態度を常に明らかにして来た。1945年3月の日本の反乱の後さえ、ベトミンは、多くのフランス人が境界線を横切るのを援助して、彼らの何人かを日本の刑務所から救い出して、フランスの命と資産を保護した。 1940年の秋から、我々の国は実際にフランスの植民地であるのをやめて、日本の所有になった。日本人が連合国に降伏したあと、我々の全部の仲間は我々の国家主権を回復して、ベトナム民主共和国を起こす為に蜂起した。 真実は、我々はフランスからではなく、日本から我々の独立をもぎ取った。 フランス人は逃亡し、日本人は降伏し、皇帝バオ・ダイは退位した。我々の仲間はおよそ一世紀に渡って縛り付けて来た鎖を破り、祖国の独立を勝ち取った。我々の仲間は同時に、何世紀もの間最高位に君臨した君主体制も倒した。その場所に現在の民主共和国が建国された。…」 (Wikipediaより引用)


    ホノルルのチャイナ・タウンにて China Town in Honolulu

    2011年05月11日 12時06分11秒 | 歴史

     連休はハワイでのんびり…と言いたいところだが、私は真っ先にホノルルのダウンタウンにある中華街(チャイナ・タウン)に足を運んだ。

     お目当ては、孫文の足跡を辿ること。1866年、広東省に生まれた孫文(孫中山)は、青年期、ハワイ在住の兄を頼ってホノルルの学校に学んだ。現在のプナホウ・スクールという学校だが、奇しくもそこはオバマ大統領が卒業した学校でもある。
     さらに香港で西洋医学を学んだ孫文は、1894年ハワイで「興中会」を組織する。清朝打倒を目指す革命組織と言われた。このように、孫文とハワイの関わりは深い。

     チャイナ・タウンの孫文像は、「中華文化センター」とその横を流れる川の遊歩道のところに置かれていた。

     (國父 孫中山 像)

     だが、この場所は、ちょっと柄が悪い。すぐそばで、真っ昼間から、目つきの鋭い男たちがカードなどのギャンブルに興じている。孫文の時代には、もっと暗く怪しい街だったのかも知れない。

     (ハワイ中華文化センター)

     孫文像の近くにあるのが「ハワイ中華文化センター」。上の写真でおわかりのように、米国と中華民国(台湾)の国旗が飾られている。中国大陸(中華人民共和国)の「五星赤旗」でないのは、これまでの歴史的経緯を物語るかのようだ。つまり、中国の影響力は、米国の一州であるハワイでは、今なお限定的なのだ。別の言い方をすれば、米国は依然として中国の魔手から台湾を守ろうとする意思があるということか。

     ここで米国、ハワイ、日本の史実を年表ふうに並べてみよう。

    1867 明治維新(大政奉還)
                        1893 ハワイ王朝崩壊   

    1895 日清戦争(台湾領有)  
                        1898 米国がハワイ、フィリピンを植民地に

    1905 日露戦争 

     1898年、米国は米西戦争の結果、フィリピンを米国の植民地とした。同じ年、米国はハワイを併合した。1893年のハワイ王朝崩壊は、米国の影響下にあった「共和派」が仕組んだ謀略だったから、その5年後、ハワイが米国に領有されるだろうことは明白だった。
     これらの出来事を明治日本の立場から見れば、太平洋の西と東から日本を挟むかのように米国の勢力圏が拡大してくるように感じたに違いない。これが、太平洋の覇権争奪の出発点だったのかも知れない。
     
    (チャイナ・タウンの八百屋さん)

     真珠湾を訪れる日本人は、年々減っているようだ。戦争体験者が高齢化して、もはや真珠湾に来ることも少なくなった。戦争を知らない世代は、太平洋戦争(日米戦争)について無関心か、「日本は間違った戦争をした」という贖罪意識を植え付けられているかのどちらかだ。

     だが、ここハワイに来てみるとよく分かる。帝国主義時代の植民地争奪戦には、正義も悪もなかった。そこにあるのは、勝者が勝利を自己正当化してきた歴史だけではないか。
     日本対米国、アジア人対西洋人、黄色人種対白色人種がぶつかり合い、雌雄を分けた場所のひとつ、そこがハワイなのだと実感した。
     真珠湾のアリゾナ記念館で見せられた記録映画では、「ナチスと手を結んだ日本は、中国、満州を侵略し、わが真珠湾を不意打ちした」というように説明される。20年ほど前にここを訪れた友人の話では、「ジャップの奴らが…」という調子だったそうで、米国側も少しは謙虚になったようだ。ヒロシマの平和記念館では、記念碑に「もう過ちは繰り返しませんから…」と記されている。米国が日本の一般市民の上に2発の原爆を落としたのだという”事実”さえそこには記されていない。日本人の脳天気とも言える「歴史認識」には、ただただ呆れるばかりだ。

     この映画を見ていた中国人観光客がいた。彼らは、米国と中国が同盟関係にあったことだけを拡大し、自らに都合のいい歴史解釈をするのだろうか。歴史を水に流す日本人と、歴史認識を楯に自己正当化を図る中国人との違い…。欧米諸国は、このギャップを上手に利用している印象だ。白人国家にとっては、その方が好都合だから…。
      

      

     (真珠湾攻撃の説明パネル~真珠湾)