山本周五郎なんて

2019年04月16日 19時28分01秒 | 創作欄

山本周五郎については、複雑な思いがある。
転職した会社の編集が山本周五郎のファンであった。
「堀さんは、文学はしろうとだけど、山本周五郎なかよく読めるな」先輩の佐野君が編集長の堀順治を侮蔑するよに言う。
佐野治朗は先輩でも、徹男にとって3歳年下したなので、「佐野君、俺は山本周五郎を一度も読んでないんで、何とも言えない」と同調しない。
「山本周五郎なんて、通俗作家!読むに値しない!」強気で自惚れ屋の佐野は、谷崎潤一郎、三島由紀夫などに心酔していた。
毎年、芥川賞獲得を夢見ていた佐野治朗は、一度もどこかの文芸雑誌に投稿することはなかった。
「佐野君は、ホラを吹くな」佐野の元同僚で全国紙の記者に転身した水島直人が冷笑して言う。
皆が「仮の姿人間」のような青春の日々であった。
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山本周五郎(、1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日)は、日本の小説家。本名、清水 三十六(しみず さとむ)。
1903年(明治36年)6月22日、山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。
1911年(明治44年)
4年生の時、担任の先生から小説家になれと励まされ、志望するようになった。
以来、学校新聞の責任を命じられたり、6年生の時には、級友の作文・図画を集めて回覧雑誌を作った。自分で雑誌の表紙を描き、扉絵には詩を付けたりした。
1916年(大正5年)
横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。
卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
1923年(大正12年)
徴兵検査を受けたが、眼力が問題となり丙種合格で免れる。
同年9月1日の関東大震災によって山本周五郎商店も被災しいったん解散となる。
その後豊橋、神戸に転居。
1924年(大正13年)
再び上京。帝国興信所(現:帝国データバンク)に入社。
文書部に配属。その後帝国興信所の子会社である日本魂社に転籍。
1926年(大正15年・昭和元年)
『文藝春秋』4月号に『須磨寺附近』が掲載されこれが文壇出世作となる。
1931年(昭和6年)
東京馬込東に転居。空想と称された馬込文士村の住人となる。
尾崎士郎、鈴木彦次郎の両人の推輓で講談社の時代小説を書くようになった。
1932年(昭和7年)
『キング』(講談社)に度々時代小説を執筆するようになった。当時の大衆雑誌『キング』は「1928年(昭和3年)」140万部と雑誌界の首位にあった。
1936年(昭和11年)33歳、講談社からは新進作家としてあつかわれ、講談社発行の『婦人倶楽部』・『少年倶楽部』・『講談倶楽部』・『少女倶楽部』などのほとんどの雑誌に作品が掲載された。
当時の周五郎は、むしろまじめで几帳面な、そしてコツコツと鍛練を重ねる、真摯な作家であった。
博文館が、周五郎の「大人向け」作品を掲載しだした。それまではほとんどが少年少女小説であった。
1943年(昭和18年)40歳
第17回直木賞に『日本婦道記』が選ばれるが辞退。
周五郎の年間執筆数の約6割~7割が講談社の雑誌に掲載され、その大半が『婦人倶楽部』の「日本婦道記」であった。この執筆が作家的飛躍に繫がったと考えられている[19]。
1959年(昭和34年)
『樅の木は残った』が毎日出版文化賞に選ばれるが辞退する。
1961年(昭和36年)
文藝春秋読者賞に『青べか物語』が選ばれるが辞退。
1967年(昭和42年)
2月14日 - 間門園別棟で肝炎と心臓衰弱のため死去。享年64(満63歳)。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。戒名は恵光院周嶽文窓居士。


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