1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こしたテロ事件である。警察庁広域重要指定番号から、「広域重要指定116号事件」とも呼ばれた。
記者が政治的テロによって殺害された日本国内唯一の事例とされるが[1]、2003年(平成15年)に全ての事件が公訴時効を迎え、2022年現在に至るまで犯人の特定がされていない未解決事件となっている(#時効を参照)[2][注釈 1]。
概要
「赤報隊」による事件
ここでいう「赤報隊事件」とは、1987年(昭和62年)から1990年(平成2年)にかけて「赤報隊」を名乗る犯人が起こした以下の事件を指す。
1987年(昭和62年)
1月24日(土曜日) - 朝日新聞東京本社銃撃事件
5月3日(日曜日) - 朝日新聞阪神支局襲撃事件
9月24日(木曜日) - 朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
1988年(昭和63年)
3月11日(金曜日) - 朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
3月11日(金曜日)消印 - 中曽根康弘・竹下登両元首相脅迫事件
8月10日(水曜日) - 江副浩正リクルート会長宅銃撃事件
1990年(平成2年)
5月17日(木曜日) - 愛知韓国人会館放火事件
特に朝日新聞阪神支局襲撃事件では執務中だった記者2人が殺傷され、言論弾圧事件として大きな注目を集めた。
これら7つの事件のうち、警察庁は、散弾銃による襲撃事件4件と時限爆弾による未遂事件1件の計5件を広域重要指定116号事件に指定した[3]。同庁は地下鉄サリン事件や警察庁長官狙撃事件と同じく、「市民社会に深刻な脅威をもたらすテロ」と位置づけた[4]。精力的な捜査が行われたにもかかわらず、2003年までにすべての事件が公訴時効を迎え[注釈 2]、事件は未解決のままとなっている。なお、中曽根・竹下両元首相脅迫事件は116号事件の「参考事件」、愛知韓国人会館放火事件は「類似事件」と位置付けられた。2つの事件とも「同一人物・グループによる一連の事件」と断定した[5]。
日本放送協会(NHK)は、未解決事件を検証するテレビ番組『未解決事件』で、朝日新聞阪神支局襲撃事件をリストに取り上げ[6]、『赤報隊事件』として放送した(2018年1月27日・28日放送分)。目撃情報などの事件の情報提供を求めている。情報をもとに取材する事もあるとしている[7]。
「日本民族独立義勇軍」による事件
「赤報隊」は当初「日本民族独立義勇軍 別働赤報隊」と名乗っていたが、赤報隊事件より前に「日本民族独立義勇軍」を名乗る犯人による事件が発生している[8]。警察庁広域重要指定事件の対象とはなっていない。いずれも未解決事件になっている[9]。
1981年(昭和56年)
12月8日(火曜日) - 神戸米国領事館放火事件
1982年(昭和57年)
5月6日(木曜日) - 横浜元米軍住宅放火事件
1983年(昭和58年)
5月27日(金曜日) - 大阪ソ連領事館火炎瓶襲撃事件
8月13日(土曜日) - 朝日新聞東京・名古屋両本社放火事件
事件の経過
犯人が送りつけた犯行声明文(朝日新聞東京本社銃撃事件)
朝日新聞東京本社銃撃事件
1987年1月24日(土曜日)午後8時過ぎ、朝日新聞東京本社で発生した事件である[10][注釈 3][12]。当初は、事件発生の痕跡が見つからなかったため報道されなかった。朝日新聞阪神支局襲撃事件後になって、実際に事件が発生していたことが確認された。
後になって行われた実況見分(1987年10月1日実施)や朝日新聞社の社員の証言によると、1987年1月24日の午後8時過ぎに、東京本社1階の植え込みから建物の2階に向けて散弾銃を2発発射したものと見られる。実況見分により、植え込み付近で未燃焼の火薬がみつかったことから、銃身を短く切った散弾銃が使われたことが確認されている[11][10]。
事件当時、広告局で仕事をしていた社員数人が、窓ガラスに何かが当たったような音を2度聞いたので、窓の外のテラスに出てしばらく外の様子を見ていたが特におかしなこともなかったので、そのまま部屋に戻った[13]。
一方犯人は「日本民族独立義勇軍 別動 赤報隊 一同」を名乗って、時事通信社と共同通信社に犯行声明を送り付けた。文面はどちらも同じもので、ワードプロセッサーによって書かれたものである。時事通信社に送られた声明書は、1月26日の午前9時から10時頃に届き、総務部員経由で社会部に回された。社会部は、声明書の実物をオートバイ便で警視庁クラブに送り、同クラブの公安担当記者がそのコピーを警視庁に提出した。犯行声明書の入っていた封筒の方は、社会部周辺で捨てられてしまったので残っていない。一方、共同通信社に送られた方は、犯行声明の入っていた封筒も声明文も捨てられてしまい、どのように処理されたのかの記録もとられていなかったため、どうなったのかは確認しようがなかった[14]。
朝日新聞社は犯行声明について、時事通信社の公安担当経由で知った[15]。そこで1月28日午後に東京本社の警備センターに問い合わせて確認を行ったが、その時には東京本社だけでなく、大阪、名古屋、西部(福岡)本社でも散弾銃発射の形跡を発見できなかったので、新聞報道をしなかった[16]。また、時事通信、共同通信も同様に報道しなかった。そのような事情を知らない犯人は、自分たちがこれらの報道機関に無視されたと思い込み、それが次の朝日新聞阪神支局襲撃事件の凶行に及ぶ原因になったとみられる(実際に、朝日新聞阪神支局襲撃事件の犯行声明文にそのことが書かれている)。
犯行声明の中で、犯人は自分たちを「日本国内外にうごめく反日分子を処刑するために結成された実行部隊」とし、さらに「反日世論を育成してきたマスコミには厳罰を加えなければならない」「一月二十四日の朝日新聞社への行動はその一歩である」「特に朝日は悪質である」と朝日新聞に激しい敵意、恨みを示し、マスコミを標的としたテロの継続を示唆する内容だった[17]
朝日新聞阪神支局襲撃事件
記者の体内から摘出された散弾粒
1987年5月3日夜に発生した事件で、朝日新聞の小尻知博記者(享年29)が殺害され、犬飼兵衛記者(当時42歳[注釈 4])が重傷を負った[19]。現場にいたもう1人・高山顕治記者(当時25歳)に対しては、犯人が発砲しなかったため無事だった。
事件発生の直前、4月後半から5月初めにかけて、阪神支局には夜になると無言電話が頻繁にかかって来ていた[20][注釈 5]。
5月3日(日曜日)は3連休の初日で、当日の当番勤務は犬飼、小尻、高山の3人で、他にデスク役の大島支局長が出勤していた。襲撃事件が起きたのは午後8時15分頃のことである[21]。支局長は3人の書いた原稿を本社に送ったあと、支局近くの寿司店での会合に出席しており不在だったが、3人は午後7時ころから支局2階の編集室で夕食にビールを飲みながらすき焼きを食べていた。夕食をほぼ食べ終えていた8時15分頃に、黒っぽいフレームの眼鏡をかけ、黒っぽい目出し帽をかぶった全身黒装束の男が散弾銃を構えて編集室に押し入り、ソファーに座って雑談していた犬飼記者の左胸めがけていきなり発砲した[22]。
撃ち方は腰だめではなく、むしろ射撃の撃ち方に近いものだったという。ただ、犬飼記者は、銃床を肩に当ててはいなかったように思うと証言している。「銃声はクリスマスの時などに使うクラッカーの音を大きくしたような音」がしたという[23]。犬飼記者は腹部、右手、左ひじなどに約80発の散弾粒が食い込み内出血を起こしていたが、左胸のポケットに入れていた鰻皮製の札入れとボールペンのおかげで、心臓から約2ミリメートルまでの際どいところで散弾粒が心臓に達することはなく、一命を取り留めた。小指が吹き飛び、薬指は皮1枚でつながっているだけでほぼ切断された状態、中指は半分ちぎれかけていた[24]。
うたたねをしていた小尻記者は発砲音で目が覚め、ソファーから起き上がろうとした。これに驚いた犯人は、小尻記者の脇腹めがけて2発目を発砲した。発砲は至近距離から行われており、銃口が接するほどだったため、プラスチック製のカップワッズ(直径約2センチメートル、長さ約5.8センチメートル)がそのまま体内に入り、胃の後ろ側で散弾粒が飛散した。カップワッズには約400個の散弾が詰まっており、内約200個がカップ内に残り、残りが飛散した[25][注釈 6]。
高山記者は、銃声を聞いてソファーの後ろに隠れたが、犯人は一瞬高山記者に銃口を向けた[21]。しかし、犯人は発砲せず、体を反転させ、銃を抱えたまま立ち去った[21][27]。銃身を短く切った2連式の散弾銃が犯行に使われたと推定されており、この時には残りの銃弾がなかったため発砲しなかったのだろうと推測されている[21]。高山記者は数秒間呆然としてソファーに座っていたが、すぐに110番に電話し通報、犬飼記者の止血などをしている内に、警官2名が到着、支局長も戻り、小尻記者も担架で救急車に運ばれていった[28]。
犯行時間は1分足らずの短時間で行われ、犯人は終始無言だった[21]。顔が見えなかったので犯人の年齢はよくわからないが、犬飼記者は、身のこなしの柔らかさから割と若いのではないかと証言している[29]。高山記者は、体つきや動作から、20歳から30歳くらいの若さではないかと証言している[23]。
小尻記者は、関西労災病院で5月3日午後8時40分から翌4日午前1時10分まで治療を受け、手術により輸血、左腎臓摘出、脾臓摘出、心臓マッサージなどが行われたが手術中に心停止を起こし、回復しなかった[26]。同記者は翌5月4日に死亡[30](殉職により記者のまま次長待遇昇格)、犬飼記者も右手の小指と薬指を失った[注釈 7]。勤務中の記者が襲われて死亡するのは、日本の言論史上初めてであった[31]。
5月6日には、時事通信社と共同通信社の両社に「赤報隊一同」の名で犯行声明が届いた。1月の朝日新聞東京本社銃撃も明らかにし、「われわれは本気である。すべての朝日社員に死刑を言いわたす」「反日分子には極刑あるのみである」「われわれは最後の一人が死ぬまで処刑活動を続ける」と殺意をむき出しにした犯行声明であった[32][33]。
「小尻知博」および「en:Tomohiro Kojiri」も参照
朝日新聞名古屋本社社員寮襲撃事件
1987年9月24日午後6時45分ごろ、名古屋市東区新出来にある朝日新聞名古屋本社の単身寮が銃撃された[34]。無人の居間兼食堂と西隣のマンション外壁に1発ずつ発砲した[35]。その後、「反日朝日は五十年前にかえれ」と戦前回帰、戦後民主主義の全否定[36][37]、戦後の朝日新聞への敵意を示す犯行声明文が送りつけられた[38]。
朝日新聞静岡支局爆破未遂事件
1988年3月11日、静岡市追手町(現:静岡市葵区追手町)の朝日新聞静岡支局(現:静岡総局)の駐車場に、何者かが時限発火装置付きのピース缶爆弾を仕掛けた。翌日、紙袋に入った爆弾が発見され、この事件は未遂に終わった[39][40]。犯行声明では、「日本を愛する同志は 朝日 毎日 東京などの反日マスコミをできる方法で処罰していこう」と朝日新聞社だけでなく毎日新聞社や中日新聞東京本社(東京新聞)も標的にする旨が記されていた[41]。しかし、実際に毎日・中日の2社を対象とした事件はなかった。
中曾根・竹下両元首相脅迫事件
静岡支局事件と同じく1988年3月11日の消印(静岡市内で投函)で、群馬県の中曽根康弘前首相の事務所と、島根県の竹下登首相の実家に脅迫状が郵送された[42][43]。中曾根には「靖国参拝や教科書問題で日本民族を裏切った。英霊はみんな貴殿をのろっている」「今日また朝日を処罰した。つぎは貴殿のばんだ」と脅迫[44]、竹下には「貴殿が八月に靖国参拝をしなかったら わが隊の処刑リストに名前をのせる」と靖国神社参拝を要求する内容だった[45]。
江副元リクルート会長宅銃撃事件
1988年8月10日午後7時20分頃、リクルート事件で世間を騒がせていた江副浩正リクルート元会長宅に向けて散弾銃1発が発砲された[42][46]。犯行声明は、その動機を「赤い朝日に何度も広告をだして金をわたした」からだとしている。また、「反日朝日や毎日に広告をだす企業があれば 反日企業として処罰する」と企業を標的にした内容も犯行声明には記されていた[47]。ただし、リクルート社が他紙に比べ、朝日に多く広告を出していたわけではなかった[48]。
愛知韓国人会館放火事件
1990年5月17日午後7時25分頃、名古屋の愛知韓国人会館(民団系)が放火される事件が発生した[42][49]。犯行声明では、当時の韓国・盧泰愚大統領を「ロタイグ」と日本語読みした上でその来日に反対し、「くれば反日的な在日韓国人を さいごの一人まで処刑」と脅した[50]。
時効
警察は全国的な捜査を行ったが、2002年に阪神支局襲撃事件[51]、2003年には静岡支局爆破未遂事件が公訴時効となり[52]、全事件が未解決のままとなった。兵庫県警察は捜査一課、西宮警察署に連絡要員を置き、時効後も真相解明を目指している[53]。捜査資料は、事件に関係する人物が浮上した時の照合用として保管されている[54]。
朝日新聞社は、時効を越えて「真相に迫る努力を続けてまいります」としている[55]。
法制審議会では、赤報隊事件について「社会に重大な影響を及ぼす事件に時効を適用するのはおかしい」と議論されている[56]。
兵庫県警刑事部長は「時効で犯人の処罰は難しくなりましたが、真相究明の道が全てなくなったわけではなく、今後もあらゆる機会をとらえ、究明の努力を続ける所存であります」と表明した[57]。
兵庫県警西宮警察署長は「言論に対する暴力は許せない行為であります。時効を迎えていますが、引き続き情報提供を呼びかけたい」とコメントした[58]。
小尻記者の遺族は「長い間お世話になりました。でも、私たちには時効はありません」[59]、「殺人罪に時効はなくていいと思います」[60]、「何年たっても同じ気持ちです。犯人をなおさら許すことはできません。この事件に時効は関係ありません。早く解決して真相解明をしてほしいと思います」と話した[61]。
犯人の手がかり
後節の「#事件の背景と犯人像」も参照
報道
以下に報道された事実を記す。
犯行声明、脅迫状にどの事件も同じワープロ、用紙が使われ、用紙の折りたたみ方も同じで同一人物、又は同一グループの犯行と考えられる[5]。
3-4m の距離から散弾銃を一人で狙い撃ち、逃走時の危険が増すにもかかわらず更に編集室の奥に踏み込み、もう一人を撃ったやり方から、銃の扱いに手慣れ、大胆で冷静な行動ができる男[62]。
犯人は「反日」という言葉をよく使用する[63]。
靖国公式参拝問題での中曽根康弘首相への強い反発がある[64]。
在日韓国人の指紋押捺廃止への反発がある[65]。
戦後民主主義に挑戦する中曽根首相も生ぬるく、優柔不断としていら立つ狂信的な国粋主義者[66]。
NHKニュースおはよう日本(2017年5月2日放送)は、次の事実を伝えている。警察は、朝日新聞の報道で対立関係にあった新興宗教団体や東京裁判、靖国神社参拝報道に異論を主張するグループの犯行を疑い、10人程度に容疑者を絞った。
一水会元最高顧問の鈴木邦男も犯人が動きを止めたのは、憲法改正をしやすくするため思想的に世の中を変えるという目的を達したからと指摘している(犯人像)。「犯人から、犯人とおぼしき人からの接触」を認めている(NHKスペシャル未解決事件 File.06「赤報隊事件」2018年1月28日)。
政界にも犯人の影がある(朝日新聞2001年8月3日付朝刊)。
犯人の思想(戦後体制否定、戦前回帰)は、安倍晋三首相が唱える「戦後レジームからの脱却」と直結している事が指摘されている[56]。
犯人について、次の指摘がされている(犯人像参照)。
警察は、犯人の足場が東海地方にあるとみている[67]。
被疑者は事件当時20−40歳くらい、身長160−170センチ。体形に幅があり、事件によって実行犯が違うという見方がある[5]。名古屋本社寮事件では関西なまりで話す男、静岡支局事件で60歳くらいの男が浮上している(目撃情報参照)。
阪神支局事件が起きた1987年5月3日とその前日の5月2日、支局周辺で不審なトヨタ・マークII、保冷車が目撃されている(後節参照)。トヨタ・マークII、1台は82年型の白、横浜か静岡ナンバー。もう1台は76年か73年型のワインレッド、三重ナンバー。保冷車は会社名が入ってなく、灰色。
捜査
1987年5月7日、仁平圀雄警察庁刑事局長は「極めて反社会性の強い事件なので、地元兵庫県警のみならず、全国警察の組織を結集して犯人を検挙し、動機や背後関係を解明する」と決意を表明した[68]。 警察は、事件との関連性が疑われる阪神支局における取材上のトラブルの有無など[69][70]、関連性が疑われる他の事件(1988年5月のYP体制打倒同盟脅迫状事件、1986年 - 1988年の亜細亜独立義勇軍関西部隊脅迫状事件[71]、1991年12月8日に起きた米軍横須賀基地の車両放火事件[72]など)、犯人との関連が疑われる組織・団体、物証などについての捜査を進めた。
また、捜査当局は犯行声明の分析を言語学者ら(複数)に依頼した。それによると、犯行声明の筆者は「ある程度知的な三〇代以上の人物」という分析結果が多数を占めた。「反日」という言葉(「反日分子」「反日マスコミ」「反日企業」など19か所ある)にも注目して捜査した[73]。
事件で「赤報隊」を名乗る犯人が出した8通の犯行声明文、脅迫状は、1人の同一人物が作成した可能性が極めて高いという解析結果が出た(NHKスペシャル未解決事件 File.06「赤報隊事件」2018年1月28日)。
一連の事件では複数の男が目撃され、兵庫、愛知、静岡県警、警視庁は似顔絵や服装写真を作り、犯人を追った[74]。延べ50万人が捜査対象になった[75]。
「疑惑の中心地」とされた人物
山下征士元兵庫県警捜査一課長は、捜査で「疑惑の中心地」とされた人物について記している[76]。捜査当局がマークしていたチャート図中央の人物がいた。刑事・公安両方が注目したが、警察庁が示した右翼関係者のリストの人物はほとんどがこの人物周辺、接点があった。兵庫県警は3回この人物に事情聴取した。名古屋本社寮襲撃事件の犯行声明文にある「反日朝日は五十年前にかえれ」は、「昭和12年12月から昭和13年1月までの南京攻略を言っている」と答えている。 この人物は旧日本陸軍連隊機関誌に「中曽根総理にもの申す」を寄稿した。内容は靖国神社参拝、教科書問題、朝日新聞批判で、「赤報隊」の犯行声明と似ていた。朝日新聞は1984年8月4日付記事で南京事件について報道し、1985年11月24日付でこの人物を批判した。山下元兵庫県警捜査一課長は、この人物の「キャリアや思想、朝日新聞への敵意」から、「ここまで公然と朝日新聞社と、中曽根政権に「もの言い」をつけていた著名人」はおらず、この人物が「真っ先にマークされるのはどう見ても自然」であり、実行犯ではないとしても「影響下にある人物を操縦して犯行を指示することは可能である」とした。山下元兵庫県警捜査一課長は、未解決事件に時効はないと話している[77][78]。
時効後の捜査
静岡支局爆破未遂事件の現場付近で採取された指紋が、関東地方の別の事件に関わった50代男の指紋と一致した[79]。
右翼・新右翼
捜査対象には、右翼団体[80][81][82][83][84]、新右翼[85][86][87]などが含まれる。1996年5月、朝日新聞の取材に対し國松孝次警察庁長官(当時)は、犯人について新右翼の捜査をしていることを認めた。しかし、「それだけではない」として他の視野での捜査を行っているとした。犯行について「実行犯の補助者」の存在なしでは困難との見方を示した。犯行声明を書く指令部の存在に言及した。
1998年1月、警察庁で警視庁、兵庫県警、愛知県警、静岡県警の合同捜査会議が開かれ、動機から思想犯として右翼関係者9人(後に1人追加され10人)のリストが示された[88]。10人は全員事件との関わりを否定し、一部の人間は任意でポリグラフを受けたが結果は「シロ」だった。捜査幹部の一人は「彼らの周辺に容疑者がいる可能性は、今も否定できない」と話した[89]。
犯人らは自らを「日本民族独立義勇軍」の関係者であるかのように示唆していたが、この名称を名乗る団体は、1981年から1983年にかけて朝日新聞や米ソ領事館にテロ攻撃をしかけている。この犯行声明が一水会に送られ、同会の幹部らが同調的な動きを示していたこともわかっており、警察は同会周辺を徹底的に捜査した[90]。
統一教会
「世界基督教統一神霊協会(略称・統一教会、統一協会)を捜査しようとしたところ、政治家からの圧力により捜査を中止させられた」と有田芳生は捜査幹部の話として紹介している[91]。
兵庫県警の元捜査官は上司から「上からストップかかった」と言われて捜査中止を命令されたと証言している[92]。このため事件への関与の疑いを残したまま統一教会は捜査対象から外された。
朝日新聞社の発行する『朝日ジャーナル』などが統一教会の「霊感商法」批判を展開していた[93]ことに対し統一教会側から激しい反発があり、当時、統一教会は朝日新聞を批判するビラを駅前で大量に配布するなどしていて、朝日新聞社と統一教会は実質的に戦争状態だったのである[94]。
更に、薬莢とともに送り付けられた脅迫状(事件直後に「とういつきょうかいの わるくちをいうやつは みなごろしだ」[95][96]という脅迫状に散弾銃の使用済みの薬莢2個が同封されて朝日新聞東京本社に届いた。この2個の薬莢は阪神支局で使われたものと同じ米国レミントン製で口径と散弾のサイズも同一である。消印から東京都渋谷区から投函されたことも判明している。しかも、統一教会本部は渋谷区松濤である)。更に、阪神支局で使われた銃弾がレミントン製と報道されるよりも前に、薬莢を同封した脅迫状は投函されているのである。『朝日ジャーナル』の編集長をしていた筑紫哲也宛にも脅迫状が届いていた[94]ことなどから、統一教会関係者の関与を疑う者が少なくない[84]。
霊感商法等の不法行為が警察の取り締まりの対象とならないのは、多額の政治献金を受けている政治家の介入によるものであるとされる[97]。
これらから、朝日襲撃を統一教会の犯行と断定することまではできない。しかし、
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この記事の内容の信頼性について検証が求められています。
確認のための文献や情報源をご存じの方はご提示ください。出典を明記し、記事の信頼性を高めるためにご協力をお願いします。議論はノートを参照してください。(2022年9月)
反朝日デモを行っていた右翼関係者が、同じく反朝日デモを行っていた統一教会関係者と意気投合し、銃砲店を経営している統一教会信者から銃器の提供を受けて犯行に及んだ可能性はある。
目撃情報
犯人らしき人物の目撃情報として、次のような事項が報道されている。
阪神支局事件
身長160-165cm 中肉中背、やや細目、20-40歳、黒の目出し帽、黒縁の眼鏡、黒っぽいセーター、ズボン[98][99]。
散弾銃が発射された直後、左脇に荷物を持ったような姿で支局前を早足で横断する男が目撃される[100]。
事件の40分前、阪神支局をのぞき込むヤクザか右翼の感じがするがっちりとした体格の男が目撃される。短いパンチパーマ、ギョロッとした目、灰色ジャンパー、白ぽいズボン姿[101]。
警察は黒縁の眼鏡の男が実行犯、短いパンチパーマの男が運転役の可能性があるとみている[100]。
名古屋本社寮事件
身長約170cm がっちりした体格、3、40歳代、黒の目出し帽、髪を七三ぐらいに分ける。長そでの上着、白いワイシャツ。右手に白の手提げカバンを持つ。
「何か音がしたろ」と関西なまりで話す。着替え、寮西側の道路を南へ逃走[100][98][99]。
静岡支局事件
60歳ぐらい、ぼさぼさの髪。
松屋百貨店の紙袋を持つ。
犯行時間帯、支局駐車場で前屈みで立っていた男、支局に近い百貨店前で紙袋を持つ男が目撃される[99]。
リクルート元会長宅事件
身長160cm 細身、肩が広い、20-25歳、紺色系の前が赤色の野球帽、黒縁の眼鏡、白いマスク姿。
紺か緑の雨がっぱ、左脇に40-50センチの細長い袋を持つ[99][98]。
物証
事件では多くの物証が残された。
散弾銃
阪神支局で使われた凶器は、銃身を30センチ程度に切り詰める改造を施された散弾銃と見られている[102]。犯人は二発発砲したにも関わらず、現場に空薬きょうが残されていないことから、2連銃身式の散弾銃が使用されたと推測される。ただし、事件に遭遇した記者は銃口は一つと証言しており、自動銃であった可能性も捨てきれない[103]。警察は、20万人の銃所持者と9万人の弾購入者を捜査した[104]。
散弾粒
アメリカ合衆国レミントン社製7.5号散弾。1978年ごろ製造。
東京本社:ひしゃげた弾粒2個と5 - 6個の細片。
阪神支局:470個の弾粒、直径2.41ミリ。2個のカップワッズ、直径1.85センチ。
名古屋本社寮:322個の弾粒、直径2.41ミリ。2個のカップワッズ、直径1.85センチ[105]。
ワープロ
使用されたワープロは、シャープ製WD-20(25)[注釈 8]。
事件発生までに4万1311台が販売され、約2万4000台の所有者が判明した[75]。
封筒
犯行声明が入っていたのは、洋型3号封筒[106]。
名古屋市内のメーカー製。小売用の大半は同市内で販売[67]。
声明文は正確に八つ折りになっており、紙折り作業に手慣れした同一人物が関与とみられる[107]。
ピース缶爆弾
朝日新聞1988年3月15日付朝刊は、ピース缶爆弾に使用された物の遺留品について報じている。静岡支局事件で使われたピース缶爆弾は、秋葉原で18品目中13品目そろえられることから、捜査当局は秋葉原電気街で部品を購入と推理、捜査した。合板に固定したピース缶(黒色猟用火薬、釘)、乾電池、スイッチ、電線などで出来、松屋百貨店の紙袋に入っていた。
買い物袋 1枚。縦28センチ、横22センチ、幅12センチの角型。黒色の地に灰色で「MaTSUYa」の文字。松屋店内の自動販売機で販売。100円。約4万枚流通。
時計 1個。縦9.1センチ、横11.1センチ、奥行き6.2センチの箱型。全体が黒で、ふち取りはローズピンク。服部セイコーのKG533P型。茨城県石岡市内の工場で生産。定価2600円。約1万個流通。
乾電池 2個。縦1.5センチ、横2.5センチ、高さ4.5センチの角型9ボルト電池。大阪府守口市の松下電池工業本社工場で生産された「ナショナルネオハイトップ」で黒色に白と銀のストライプ。トランジスタラジオやラジオに使用。1個200円。年間800万個生産。
ピース缶 1個。直径約7センチ、高さ8センチ。京都市の日本たばこ産業関西工場製。1987年11月30日に生産。底に「6311OV」の刻印。当日5万2680個生産。東京、京都、愛知、静岡など11都府県の同社物流基地に出荷。販売地域が限定されているため、捜査本部は有力視している。
火薬 量は約90グラム、黒色、粒は直径0.4 - 1.2ミリ。黒色猟用火薬。手製弾用。使用者はごく一部(全国で300人)。捜査本部は「犯人に到達する可能性が最も高い」とみる。日本化薬で生産。年間約700キロ生産。
釘 約200本。長さ1センチ、軸の太さ1.6ミリ。頭部が平たく大きい。椅子の裏張り布の仮止めやキャンバスを枠に打ち付けるのに使用する「大平鋲」。生産量は釘全体の3%程度。
スイッチ 1個。縦21.5ミリ、横29ミリ、高さ32.5ミリ。東京都目黒区の明工社製「MU3601」。一般家庭や事務所の蛍光灯用スイッチとして広く使用。100万個以上生産。
板 1枚。縦21センチ、幅11センチ、厚さ2センチの合板。
その他 綿、電線、ビニールテープ、ボルト、ナット、接着剤、着火源など。
繊維片
1987年5月6日に届いた共同通信社宛の犯行声明の封筒に、3.9-0.4mmの繊維片9本が付着。
素材はレーヨンで、銅も含まれていた。
ワープロの印字を封筒にはったときに付着したと、鑑識の結果判断[108]。
指紋
一連の事件で3個の遺留指紋を検出し、捜査した[84]。
掌紋
犯行声明や事件現場から採取された10個の掌紋(手のひらの跡)を、警察庁の自動識別システムで照合した[109]。
車両
阪神支局事件の当日と前日に支局周辺で、2台のトヨタ・マークIIが目撃されており、捜査当局は重要な手がかりとみなした[100]。
1台は82年型の白で、横浜か静岡ナンバー[100]。1987年5月2日午前6時から3日午後1時頃の間に支局南の民間駐車場で横浜ナンバーなど現場周辺や、犯行直前の5月3日の午後8時12、3分頃阪神支局前の市道を2人の男が乗り、無灯火でゆっくり走っているところなど[110]、計7人にのぼる目撃者証言がある[100]。捜査当局は目撃情報に該当する車両のうち約2,600台を調べ終えた[100]。
もう1台は76年か73年型のワインレッドで、三重ナンバー[100]。犯行直後とみられる時間帯に、支局前の一方通行を無灯火で逆行し、阪神電車の踏切を減速せずに渡るところを目撃されており、捜査当局はこの目撃情報に該当する車両約4,000台のうち1,500台の所有者を特定した[100]。
マークII以外の不審な車両の目撃証言として、1.5-2トン積みで、車体に会社名などが入っていない灰色の保冷車が、5月3日午後8時20分ごろ、支局の南約75メートルの交差点手前に駐車しているところが目撃されている。下見役、運搬役とみられている[111]。
靴
犯人が履いていた靴の情報は次の通り[112]。
名古屋本社寮事件の現場から足跡が見つかり、靴底を特定した。
神戸市内の靴底メーカーが事件までに約7万4000足製造し、靴メーカー9社で別のカジュアルシューズに仕上げられたことがわかる。
ジャケット
犯人が着用していたジャケットの情報は次の通り[112]。
名古屋本社寮事件で犯人が着ていた服は、カーキ色の米軍防寒服「M65フィールドジャケット」に似る。
全国で10数店だけ大量に扱っていたことが判明した。
事件の背景と犯人像
時代状況
詳細は「第一次教科書問題」を参照
1982年末に誕生した中曽根政権は国家主義的色彩を強め[注釈 9]、靖国神社公式参拝、建国記念日式典に首相として初めて参加した。1985年8月15日、中曽根首相は靖国神社に公式参拝したが、中国・韓国両国は公式参拝を強く批判し、中国では全国で抗議デモが起きた。1986年8月14日、「近隣諸国の国民感情に配慮する」旨の後藤田正晴官房長官談話が出され、公式参拝が中止された。これに対して遺族会や右翼陣営が反発し、日本遺族政治連盟の16万人の会員が自民党脱退を明らかにする。藤尾正行文部大臣は『文芸春秋』(1986年10月号)で韓国併合は「韓国側にも責任がある」と述べ、罷免された。1986年、教科書問題が外交・政治問題になった。日本を守る国民会議(現日本会議)の学者が編集した高校用日本史教科書『新編日本史』に対して中国・韓国が批判すると、中曽根政権は記述を修正させた。朝日新聞は「復古調」の教科書と報じた。右翼陣営は中曽根首相を強く批判した。
当時、国家秘密法で大きな論争が起きていた。1985年6月、国家秘密法案が国会に提出されるとメディア、野党、日本弁護士連合会、日本ペンクラブなどが批判し、日本新聞協会や日本民間放送連盟は反対声明を発表する。朝日新聞は社説「時代錯誤のスパイ防止法」(1985年5月29日)、記事「スパイ防止法ってなんだ」(新聞週間中17回連載)を掲載するなどの大キャンペーンを張り、廃案を主張した。1985年12月、法案は審議未了で廃案になったが、翌1986年5月、修正案(死刑を無期懲役、報道機関は罰則除外、防衛秘密限定)を作り、7月の衆参同日選で圧勝後、中曽根首相は再提出の時期を探る。推進派は統一教会の関連政治団体である国際勝共連合が中心となり、運動を展開した。地方議会の過半数で「スパイ防止法制定決議」が通過した。朝日新聞は同じ頃霊感商法を追及していた。『朝日ジャーナル』(1985年4月5日号)が発売されると朝日新聞東京本社に嫌がらせ電話が殺到し、国家秘密法や霊感商法を批判していた神奈川新聞などにも脅迫や嫌がらせの電話が集中した。
新聞界でイデオロギーの対立が激しくなった時期でもあった。読売新聞による朝日新聞攻撃が顕著になり、論調の保守化、右傾化が進み、改憲、反朝日、国家主義の産経新聞を越えるものになった。読売の中曽根路線に対し、朝日の自由主義、市民社会路線という思想的立場が明瞭になっていた[113]。
犯人像
捜査当局は犯人像について銃の扱いに手馴れ、「大胆で冷静な行動ができる男」とした。「同一人物または同一グループによる犯行」、幕末の「赤報隊」気どりの犯行とみる[114]。兵庫県警は事件に近代史に詳しい人物が関わった可能性があるとみた[115]。朝日新聞は「凶悪で執念深い性格」とみている[116]。兵庫県警捜査一課長は朝日新聞そのものを狙ったテロと位置づけ、組織性があるとみる[117]。兵庫県警警備課次席は「犯人は右翼だと思う。犯行声明に書かれていた『日本民族独立義勇軍』という名は、一般には知られておらず、勉強していなければ出てこない名称だ」とした[117]。ゲプハルト・ヒールシャー[118]、堀幸雄[119]らも、犯人を右翼と示唆している。
捜査当局は犯人を「右翼の内情に精通している人物」とみており[120]、朝日新聞に激しい敵意、恨みを持ち、「反日」という言葉を多用したことに注目した。ある学者[誰?]から事件前に出された挨拶状に犯行声明文と類似点があることを突き止めた。ある評論家[誰?]は、事件前から「反日」を多用する右翼理論家の名前を指摘した[73]。捜査当局は犯人が東海地方に足場があるとみている[67]。 NHKスペシャル未解決事件 File.06「赤報隊事件」は、「自由な社会を銃弾で切り裂いた赤報隊、その影は今も社会のどこかに潜んでいる」と報じた(2018年1月28日)。
赤報隊の主張には新右翼との類似性が認められる。しかしその断定には異論も多い。従来の右翼とは細かな点で矛盾するところが多い[121]。野村秋介も「赤報隊は右翼ではない」と主張している[122]。
捜査幹部は「『赤報隊』が静岡事件で、3月10日の旧陸軍記念日を意識して行動していた形跡が窺えることから、旧日本軍関係者まで捜査範囲を広げた」と語った[123]。ある公安関係者は「朝日新聞を批判し、反権力的な思想を持つグループの中から有力な容疑者が浮かび上がってきた」「本当の動機を持ち、陰で実行犯を操る黒幕こそ真犯人」と述べている[124]。
井上ひさしによれば、「赤報隊」を名乗った犯人が朝日新聞などを「反日分子」としたことに注目し、犯人が「大日本帝国憲法の信奉者」であるとした[125]。
木村正人は、「中曾根康弘首相(当時)の教科書問題や靖国参拝への対応に我慢ならない勢力」のテロとみている[126]。
「Journalism」(2015年8月号・朝日新聞出版)は犯人について、「右翼陣営の中心近くに身を置き、その内部情報に接することができるインナー・サークル(権力中枢部にいる側近)の一員」との見方を示した。100人以上の取材対象者の中に「犯人がいる可能性はゼロではない」「少なくとも犯人を知っている人物がいる可能性は十分にある」としている。また、犯行声明文にある戦後体制否定・戦前回帰の思想は、安倍晋三首相が進める「戦後レジームからの脱却」に直結していると指摘している[56]。
潜在右翼説
鈴木邦男は著書『赤報隊の秘密』で「もし赤報隊が新右翼だとしたら」を記述したり、他にも事件について述べている[127]。鈴木は赤報隊を「絶望的な気持ちを持っていた‘潜在右翼’」と推理した[84]。また元捜査幹部の説として、赤報隊は警察が「潜在右翼」と呼ぶ、三島思想を受け継ぐ新右翼運動の流れの中にいる人物ではないかという[128]。鈴木はジャーナリスト、大谷昭宏の「赤報隊は目的を達したのか」という質問に、「達したから止めたんでしょう。思想的に世の中を変えたと思っているんじゃないですか。15年前は憲法改正と言っただけで、みんな反動だと叩かれた。今は誰でも言っている」と答えている[129]。
元自衛官説
2001年11月半ば、朝日新聞大阪本社116号事件取材班に「実行犯は右翼思想を持つ元自衛官。事件当時30歳ぐらい。その後関西の寺の住職になったが、数年前に死んだ」と電話があり、取材班が元自衛官を追跡した。1980年代初め、韓国に拠点のある統一教会に在籍していた。除隊後右翼団体に入り、散弾銃を所持、「右翼は非公然組織を持ち、武器の扱いに精通すべきだ」と話している。1988年右翼団体をやめ、関西の寺に入り、一酸化炭素中毒死したことが判明している[130]。
東京在住インテリ系右翼説
右翼的表現を使用し、手慣れた文章で犯行声明を書く。東京都を省略したり、「都内」と送付先を書き出す。「関西」「中京方面」と表現し、東京新聞を標的にしたことから、「東京を拠点に全国規模で活動する中高年のインテリ系右翼」と捜査当局は犯人像を描いた[131]。
動機
捜査当局は朝日新聞の言論、報道が狙われたと断定している[132]。朝日新聞は「首相の靖国神社参拝と復古調の教科書の問題」を「犯行の引き金になったと思われる手がかり」とみている[133]。
原寿雄は事件に対し、「朝日新聞を狙った言論へのテロ、思想的攻撃」と判断し、中曽根首相の靖国神社公式参拝、国家秘密法推進、「皇国史観や国家主義に基づく歴史教科書」に朝日新聞が強く反対し、「中曽根批判の先導的役割を果たした」ことを「事件との関連で重視する」とした[134]。牧太郎も、中国・韓国の批判による中曽根首相の靖国参拝中止、教科書の修正が赤報隊脅迫の原因との見方を示した[135]。堀幸雄も犯人が復古主義を志向していることを示唆している[119]。茶本繁正は朝日新聞が国家秘密法反対運動で大きな役割を果たしたことが、事件の背景になった可能性に言及した[136]。事件は右傾化する政治動向と密接不可分で、「戦争と侵略体制を否定する一切の言論と思想」が狙われ、戦争体制づくりへの抵抗を崩壊させる意図があり、権力の方針を補おうとする政治的役割りがあるとされる[137]。
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