モデルの医師が研修医に講演、川崎幸病院◆Vol.1
m3.com 2016年2月27日 (土) 配信 成相通子(m3.com編集部)
(「Dr.コトー」のモデルとなった、瀬戸上健二郎氏)
離島医療を題材にした漫画・ドラマ「Dr.コトー診療所」のモデルとなった、鹿児島県薩摩川内市下甑町の手打診療所長、瀬戸上健二郎氏が2月19日、川崎幸病院(川崎市)で講演した。
瀬戸上氏は、38年間に及んだ下甑島での診療について、「離島の診療所で食道がんや大動脈瘤なども手術した。そんなDr.コトーのような外科医は、地域住民に支えられていた」と振り返り、「医療は時代とともに変わった。私自身も変わり、住民の気持ちも変わった。20世紀のDr.コトー的外科は終わったと思う」と述べ、離島医療で求められる医師像が変わりつつあると指摘した。
川崎幸病院では、初期臨床研修の2年次プログラムとして、手打診療所で1カ月の地域医療研修を導入。2016年1月から研修医を派遣している。2月19日は、川崎幸病院の臨床研修センターが「離島研修報告会」を開催し、1月に手打診療所で研修した青盛恒太氏と、2月から診療所で研修中の伊藤弥氏(テレビ電話で中継)が手打診療所での経験を報告。その後、瀬戸上氏が『島酔38年~島に学び、島を楽しむ~』と題して講演し、病院の関係者ら約50人が聞き入った。
■「島酔」で38年
「手打診療所」は、鹿児島県薩摩半島の北西部、串木野港(いちき串木市串)から沖合約50km、甑島列島の最南端、下甑島にある。本土からは1時間半の高速船、3時間ほどの貨物船が結ぶ。鹿児島大学第一外科を退局した瀬戸上氏が着任したのは、1978年5月。開業するまでの6カ月間の約束で誘われた。当時37歳だった。
講演タイトルの「島酔」という言葉は、南西諸島でよく使われる言葉で、「酒に酔うみたいに島に“酔って”、時が経つのを忘れてしまうこと」。6カ月の約束だったにも関わらず、「気がつけば」(瀬戸上氏)38年もの間、下甑島で診療を続けていた。
赴任した時の診療所は、医師1人、看護師2人、事務員2人の体制。6床の病床があったものの、給食も寝具もなく、麻酔器もなかった。「島で手術ができるのか、住民も医師も不安だった」。大学病院の呼吸器外科医として、数々の外科手術をこなしてきた瀬戸上氏も、赴任当初は手術を断られた。
住民が望まなければ、手術はできない。「島に行けば大歓迎されるけれど、それはイコール信頼ではない。信頼関係は簡単にはできない。実績を示しながら時間をかけて作り上げていくものだ」。
■島の診療所で肺がん手術も
行政の支援を得て救急体制や医療機器を整備しながら、実績を示して住民と信頼関係を築いた。簡単な盲腸の手術から専門の肺がんの手術以外に、島で勉強しながら帝王切開、重症外傷、食道がんや食道静脈瘤の手術まで手がけた。「先生に手術してほしい」と、患者が都会から島に戻って手術することもあった。
手打診療所の医療提供体制は充実した。1990年には人工透析、1996年にはCTを導入。今では病床数19床で、医師1人、看護師13人を含む26人のスタッフがいる。島内には3カ所の診療所があるが、入院施設があるのは手打診療所のみ。24時間365日対応の体制を38年続けてきた。
今年で75歳を迎える瀬戸上氏。「もう手術はしない方がいい」と考え、手術件数を減らしている。それでも、ヘリが島に近づけない場合など、必要な時は迷わない。昨年10月にも大腸穿孔の患者を手術したばかりだ。
(瀬戸上氏が講演会で示したスライドより)
■Dr.コトーの「終焉」
漫画やドラマで描かれた天才外科医、「Dr.コトー」は大きな反響を呼び、医師を志すきっかけになった人も少なくない。しかし、瀬戸上氏は、「20世紀に花開いたDr.コトー的外外科は、残念ながら、終わってきているのではないか」と話す。
「Dr.コトーは外科的な活躍がメイン。離島診療所で食道がんも大動脈瘤も手術してしまう。これがDr.コトー的外科医。自分で見つけ、自分で麻酔し、自分で手術する。今では非常識と思われるかもしれないが、それが当たり前だった。このDr.コトー的外科というのは、日本で開花した20世紀の外科の“花”だと思う。それを支えたのは地域住民。地域住民が認めてくれたからできた」
38年で島は大きく変わった。過疎化が進み、1970年代には約1万人いた下甑島の人口は2500人程度に減った。「人口が減り、地域の力が落ちている。離島医療もある程度人口があると面白いけれど、減ると面白さは半減する」。
人々の意識も変化し、島の医療の在り方も変わってきた。「日本は非常に豊かになった。離島も豊かになった。それと同時に大病院志向や専門医志向も進んできた。疾病構造も変化し、心筋梗塞や認知症が増えた。在宅死から入院死、在宅出産から入院出産へと変わってきた。新たな感染症も増えた。時代とともに医療はどんどん変わる」。
医療技術の進歩も目覚ましい。「つい最近まで、40年前に学んだ外科とほとんど変わらないと思っていたが、最近徹底的に変わった。もう我々の時代は終わった、引導を渡された。特に今日ここの病院を案内してもらいながら、そう思った」。
■「終わりではない」
しかし、「それで終わりかというと、終わりではない」と瀬戸上氏は続ける。「年を取ってみないと分からない面白い世界もある。外科医の経験を生かした面白い役割分担もできる」。若さや高い技術だけではない、円熟した医師の自信を覗かせる。
最後に、1983年に手打診療所で肺がんの手術をする自身の写真をスライドで写した。「何が一番変わったのか。この時は眼鏡をかけていないが、今は眼鏡をかけても見えない。これが一番変わったこと。つまり、38年で色々なことが変わったが、一番変わったのは自分なのかもしれません」。
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75歳でもDr.コトーを続けるワケ
モデルの医師が研修医に講演、川崎幸病院◆Vol.2
m3.com 2016年2月29日 (月) 配信 成相通子(m3.com編集部)
2月19日に川崎幸病院で講演した、Dr.コトーのモデル、瀬戸上健二郎氏。医療技術が進歩し、自身の年齢的な衰えや住民の意識の変化などから、Dr.コトーのようなスーパー外科医が活躍した離島医療の在り方が変わってきていると指摘する(『「Dr.コトー的外科は終わった」、瀬戸上氏』)。講演後の質疑応答やm3.comの取材内容を紹介する。
2016年に75歳になる瀬戸上氏は、市職員としての契約が切れる2016年3月に同診療所所長を退く予定だったが、続投を求める住民らの署名活動により、4月以降も続投する予定だ。
瀬戸上氏は75歳で「一区切りにしよう」と考えていたという。「75歳で辞めることは、市との約束でもあり、妻との約束でもあった。数年前から75歳までできたらいいなと希望もあったし、75歳でいよいよ自由になれる、公務員という枠を外れて気楽になれるとも思っていた」。
しかし、後任が見つからずに事情は一変。医師確保は難航し、住民による署名活動が起きた。全島民の3分の1の署名が集まり、瀬戸上氏が再任できるように診療所を運営する鹿児島県薩摩川内市が医師の公募内容を変更し、瀬戸上氏に続投を求めた。
退任を覚悟した後の再任だが、「これまであと半年なら頑張れる。あと半年なら大丈夫と続けてきた。今も同じ。色々と限界に来ていると思うけど、半年ならまだ頑張れる」と淡々とした心構えを語る。医療を前向きに続けたいという気持ちもある。「年を取らないと分からない世界もある。華々しい手術をすることばかりじゃない。他にも面白いことがあるのが医療。喜び、やりがいはまだある。それは自分で作っていかないといけない」。後任の確保も、「決まりますよ。必ず誰か出てきます」と不安は感じていないようだった。
■Dr.コトーに質問
講演会の後の質疑応答では、「Dr.コトー的外科医の終焉」について質問が出た。瀬戸上氏は、「Dr.コトー的外科医というのは、恐らく終わったんだと思う」と述べ、その理由を「支えてきた住民の気持ちが変わった」と分析。「私も変わったが、医者の代わりはいくらでもいる。元に戻せないのは患者さんの心。離島で肺がんの手術をすることを許すかどうか。今はなかなか許されない時代だ」。島でも、高度で専門的、かつ安全な医療を求める意識が高まってきており、診療の満足度が下がっているように感じているという。
離島医療の今後について、瀬戸上氏は、現在は過渡期で方向性はまだ分からないとした上で、「この先に何かが生まれてくる。医療技術は必ず進歩している。もっと簡単に様々なこと、離島でも簡単に手術ができるようになるかもしれない。時代とともに変わっていくのだと思う」と期待を込める。
会場の医師からは、「38年間、24時間365日の対応はなかなかできない。先生の後任ができる人はいるのか。自分には不可能だ」との感想も上がった。瀬戸上氏は、「そのドクターの持ち味を生かしていけばいいと思う。救急医療、手術までする必要はない。時代に合わせて、その人に合わせてやっていけばいい」と答えたが、1人体制で24時間対応するのは大変だと同意。2人体制を進めたいが、医師確保が困難だと明かした。また、手打診療所では人工透析など、様々な医療提供体制を充実させていることが、新しい医師募集のネックになっているとも説明した。
■大病院とのキャリアバランス
研修医に対して一言求められると、「医師人生というのは、長い人は60~70年、平均的に50年ぐらいはあると思う。その中の1年でも1カ月でもいい、離島医療を体験してみるのも大事だ。長くやる必要はないが、一度くらい飛び込んでやってみるのもいいんじゃないか」と述べ、若手の離島医療への挑戦を要望。「若ければなりたい医者になれる。なるかならないかは人の所為ではなく自分の所為。頑張って取り組んだら、スーパードクターになれると思う。なりたい医者になれよう、頑張ってください」と鼓舞した。
離島医療を続ける上では、医療設備の整った大病院での研鑽とバランスをとることも重要だと指摘した。「医師人生50年あるとしたら、その中の半分以上は大病院でも活躍してほしい。離島やへき地に行きっぱなしも問題だと思う。都会でも活躍できないといけない」。
自身も「島を出て、広い世界に羽ばたきたい」という欲求とのジレンマがあったという。それでも続けられた理由を尋ねると、「仕事だけ楽しいと言うことはあり得ない。生活も仕事も楽しくないと長続きしない。離島医療で一番大切なのは、生活面かもしれない。家族に不自由な思いをさせないことも必要だ。生活面や家族をどうサポートするか。それが医師確保の大事な一面だ」。
離島やへき地で活躍する医師は別居状態が多いが、瀬戸上氏は家族で島の生活を続ける。「我が家は島でずっと通して来て、子どもに迷惑もかけた。けれども、家族の支えがなければやって来れなかった」と振り返り、家族の支えに感謝した。
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