「アイディアのちから」から、宗教について想起した。
例えば、日本をはじめ各国に広まったキリスト教。
キリスト教の単純、明快さとストリー性
「天国」を説くキリスト教
天国(heaven)とは、
神や天使などがいて、清浄とされる、天上の理想の世界。
信者の霊魂が永久の祝福を受ける場所(キリスト教での用法)。
(転じて)そこで暮らす者にとって、理想的な世界のこと。
何にわずらわされることもない、快適な環境。
もしくは、かくあるべきだとする究極の神の創造理想と定義できる世界。
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日本人の99%はなぜキリスト教を信じないのか!?
石川 明人
かつて、信徒が「バテレン門徒」とか「キリシタン」と呼ばれていた頃の日本では、彼らは迫害され、火炙り、水責め、穴吊りなど、おぞましい拷問もおこなわれた。
映画にもなった遠藤周作の小説『沈黙』で描かれたとおりである。
しかし、キリスト教徒は被害者である一方で、加害者でもあった。彼らは世界各地で、信仰の名において残虐な行為もおこなった。キリスト教徒同士で殺し合い、異教徒を攻撃し、侵略や虐殺を繰り返したことも事実である。
ならば、神の「沈黙」はこれまで少なくとも二種類あったと言わざるをえない。すなわち、迫害に苦しめられたキリスト教徒に対する「沈黙」と、残忍なキリスト教徒に苦しめられた人々に対する「沈黙」である。
だが、実際のキリスト教徒のほとんどは、完全な善人にも完全な悪人にもなりきれず、迷ったり悩んだりしながら、誰かを愛し、同時に誰かを傷つけ、それぞれの人生を中途半端にもがいて生きてきたのである。
キリスト教は、全体として見るならば、人間というもののいかんともしがたい現実を示す壮大な実例だとも言える。
キリスト教の信仰を持たない九九%の日本人にとっては、複雑でわかりにくいその教義や思想よりも、むしろキリスト教徒のなまなましい矛盾と限界それ自体の方が、真の意味での宗教的思索のきっかけになるのではないだろうか。
キリスト教は、ユダヤ教から派生した宗教なので、当然ながらユダヤ教の方が歴史は長い。仏教、ジャイナ教、ゾロアスター教なども、キリスト教が誕生するはるか以前から存在していた。
釈迦はイエスより四〇〇年前もしくは五〇〇年前の人物であり、ジャイナ教の開祖ヴァルダマーナもだいたい同時期である。
古代エジプトや古代メソポタミアでは、イエスが生まれる三〇〇〇年以上前から都市国家や統一国家が生まれており、そこにはさまざまな「神」があって、儀礼が営まれていた。
私たちの祖先が、舟、弓矢、縫針、装飾品などを作り出したのは、七万年前から三万年前にかけてであるが、当時の小像や洞窟壁画などからも、その頃にはもう確かに「宗教」や「芸術」と言えるものがあったと考えられている。
何を「宗教」と定義するかにもよるが、すでに一〇万年以上前の遺跡から死者を丁重に葬った明らかな痕跡が見つかっているので、世界の宗教史を概説する際には、しばしばそのあたりまでさかのぼるのが一般的である。
要するに、イエスが生まれるはるか以前から、人々は、何かを崇拝し、何かを祈り、何かを信じ、世界の始まりやこの世の善悪について考え、生と死の意味について問うてきたのである。
こうした単純な事実を踏まえると、「キリスト教」は、この世の普遍的真理を述べているとするわりには、意外と最近生まれたさまざまな文化のうちの一つに過ぎないことを認めざるをえないだろう。
日本でキリスト教は、一時期は信徒を増やしたが、わずか六〇年ほどでそれを信仰することが禁止されるようになり、その状態が約二六〇年も続いた。
日本人の多くが落ち着いてキリスト教について検討・考察できるようになったのは、実質的には一九世紀末になってからだと言ってもいい。
世界に最も大きな影響を与えた人物は誰か
だが、それにもかかわらず、私たちはキリスト教という宗教を軽視することはできない。その理由は、やはりその宗教文化が、今私たちが生きているこの社会の形成に大きな影響を与えているからである。
これまでの人類史において、後の世界に最も大きな影響を与えた人物を一人挙げるとしたら誰であるかを考えてみよう。科学者、発明家、政治家、軍人など、いろいろな人が挙げられるだろうが、宗教家もかなり有力な候補になるだろう。
今現在の世界で最も信徒数の多い宗教はキリスト教である。世界の総人口約七〇億人のうち、キリスト教徒は約二三億人、イスラム教徒は約一七億人だ。キリスト教信仰の有無や好き嫌いは別にして、イエスこそ良くも悪くも後の世界に最も大きな影響を与えた人物だ、という意見があってもおかしくはない。
日本の歴史も、キリスト教を抜きにしては語れない。戦国時代や明治時代に日本にやって来た宣教師たちのインパクトはやはり強烈で、彼らの宗教はわが国の政治や文化に極めて大きな影響を与えたのである。
キリスト教や宣教師に対するこれまでの日本人の接し方を振り返ることは、今の私たちがあらためて「日本人」について再考するうえでも、重要な鍵の一つになるかもしれない。
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戦国時代のさなかであり、当初は、ザビエルたちイエズス会の宣教師のみで、キリスト教の日本布教が開始された。
宣教師たちは、日本人と衝突を起こしながらも布教を続け、時の権力者織田信長の庇護を受けることにも成功し、順調に信者を増大させた。
しかし、豊臣秀吉の安土桃山時代には、勢力を拡大したキリスト教徒が、神道や仏教を迫害する事例が起こった。
他、ポルトガル商人によって日本人が奴隷貿易の商品となって海外に人身売買されているという話も出ており、これを耳にした秀吉は、バテレン追放令を発布し、宣教を禁止した。
しかし、この時は南蛮貿易の利益が優先され、また下手に弾圧すると、九州征伐で平定したばかりの九州での反乱が考えられたため(当時の日本では、特に宣教開始の地である九州地方でキリシタン大名や信者(キリシタン)が多かった)、本格的な追放は行われず、宣教活動は半ば黙認されていた。だが、サン=フェリペ号事件が起きたころ、秀吉はキリスト教の本格的な弾圧を開始した。
やがて時代が移り、関ヶ原の戦いで勝利を収めて豊臣政権に代わって、天下統一を成し遂げた徳川家康の江戸時代には、一時的に布教は認められた。しかし、その後は江戸幕府が禁教令を出し、キリスト教を禁教として鎖国政策を採ったため、宣教師はもちろん、外国人も許可無しでは日本に入国できなくなった。
一方で檀家制度を整備して、キリスト教徒をあぶり出すため、庶民に踏み絵を踏ませた。その間、江戸時代の末まで、一部の信者たちが密かにキリスト教の信仰を伝えていくこととなった。この信者たちのことは「隠れキリシタン」と呼ばれている。
バテレン追放令(・伴天連追放令)は、1587年7月24日(天正15年6月19日)に豊臣秀吉が筑前箱崎(現・福岡県福岡市東区)において発令したキリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書。
バテレンとは、ポルトガル語で「神父」の意味のpadreに由来する。
概説
豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。
1586年(天正14年)3月16日には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョを引見し、同年5月4日にはイエズス会に対して布教の許可証を発給している。
しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となりキリスト教信者以外の者が奴隷として連れ去られていることを知らされた。
これに驚いた秀吉は、『天正十五年六月十八日付覚』を認め、この翌日の6月19日(7月24日)ポルトガル側通商責任者(カピタン・モール)ドミンゴス・モンテイロとコエリョが長崎にて秀吉に謁見した際に、宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書を手渡してキリスト教宣教の制限を表明した。
(大意)
(自らが)キリスト教徒であることは、その者の思い次第であるべきである。
(大名に)国郡の領地を扶持として治めさせているが、その領地内の寺や百姓などたちにその気がなかったのに、大名がキリスト教徒になることを強いるのは、道理が通らずけしからんことだ。
大名がその国郡を治めることについて、大名に命じているのは一時的なことなので、大名が交代することはあっても、百姓は交代するものではないので、道理が通らないことはなにかしらあることで、大名がけしからんことを言い出せば、(百姓を)その意のままにできてしまう。
(知行地が)200町、3000貫以上の大名は、キリスト教徒になるには、秀吉の許可を得ればできることとする。
日本にキリスト教が伝来
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