丸岡城天守について
江戸時代以前に建設された天守が残っているお城は日本全国に12城あります。それらを総称して「現存天守(現存十二天守)と呼びます。丸岡城はその貴重な天守のひとつで、北陸地方に残る唯一の天守です。
文化財保護法に基づいて重要文化財に指定され保存されています。
概要
「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥せ」の簡潔な手紙の作者として名高い本多作左衛門重次は、取手に領地を得て取手で亡くなっています。
市内台宿に墓所があり、青柳の本願寺が菩提寺となっています。また重次の子孫も、旗本として取手に領地を有し、明治維新を迎えます。取手と本多重次のつながりに改めて注目したい。
現在の丸岡城
戦国時代に多く見られた古風な望楼型天守(おおきな入母屋造りの屋根の上に望楼部分を載せた形式)でありながら、坂井市教育委員会の学術調査(2019年)により江戸時代の寛永年間(1624年~1644年)に建てられたことが判明しました。
- 二層三階、高さ約12mの独立式望楼型天守
- 天守台石垣は高さ約6.2mの野面積み
- 1階と2・3階の間に通し柱がなく、1階が2・3階を支える構造
- 屋根は石瓦で葺かれている(現存天守では唯一の事例)
- 天守内は最上階まで自由に見学ができ、撮影も可能
- 1階から2階に上る階段が65度、2階から3階部分で67度の全国でも珍しい急階段がある
- 明治初期に天守以外の建造物は民間に払い下げされた
- かつての外堀が田島川として残っている
- 内堀はすべて埋められている
丸岡城の歴史
- 柴田勝家の甥で養子となった柴田勝豊によって築かれた
- 平野の独立丘陵(標高27m)を本丸としてつくられた平山城
- 江戸時代には福井藩の附家老として城主をつとめていた本多成重が城主
- 福井藩主・松平忠直の隠居に伴い本多家が独立し、丸岡藩が成立
- 本多家が改易となったのちは、有馬氏が入封し、以後8代が丸岡藩藩主となる
- 1948年(昭和23年)の福井大地震で天守は倒壊
- 1955年(昭和30年)に部材を70%以上再利用し組み直して修復再建
本多 成重(ほんだ なりしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。越前丸岡藩の初代藩主。徳川氏の家臣。本多重次の長男。
生涯
元亀3年(1572年)、徳川氏の家臣・本多重次の長男として誕生。幼名は仙千代で、父・重次が天正3年(1575年)の長篠の戦いの陣中から妻に宛てた手紙として知られる、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」のお仙である。
徳川氏に仕え、慶長7年(1602年)に近江国蒲生郡内2000石を加増され5000石をとなる。慶長18年(1613年)に松平忠直の付家老となり、丸岡4万石を領して従兄弟の本多富正と共に若年の忠直を補佐した。大坂の陣では武功を挙げた。慶長20年(1615年)閏6月19日、従五位下飛騨守に任じられる。
元和9年(1623年)2月に忠直が改易になった際には一旦江戸幕府に召し返され、寛永元年(1624年)には越前丸岡4万6300石の譜代大名に取り立てられた。
藩政の基礎を固めるために城下町の建設や治水工事などにも尽力した。正保3年(1646年)5月19日に隠居し、跡を長男の重能が継いだ。なお、次男は長男に分知3000石、三男は別途3000石で旗本となり、四男は松平忠昌の家老となっている。
正保4年(1647年)6月23日、76歳で死去した。
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