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坂口安吾短編小説「二十七歳」

2016年04月12日 10時13分16秒 | 社会・文化・政治・経済
矢田津世子には妻子ある男が居た
訪ねてきた矢田から「桜」という同人雑誌への加入を請われる。
「同人になって、仲間になればあなたといつでも会えるから」安吾は舞い上がった。双方の母親が認め合う仲だった。
しかし、プラトニックラブに終わる。

二十七歳

1947(昭和22)年3月1日発行の『新潮』に発表。

 矢田津世子との恋愛に苦しみ抜いた安吾の心情。
それは、この作品の中では一人だけWという伏せ字になっている男と矢田津世子との関係について、感情的になっていることからも伺い知ることができる。

その照れ隠しというわけでもないのだろうが、実名のまま笑いものにしている人物と、Wという人物の対比が際だっている。
それは誰あろう、詩人で現在も多くのファンをもつ中原中也であるのだ。
いつも嘆いているとか、飲みながらもその後の行動を計算して、金を少しだけ残しておくだとか、酔っ払うとサルマタ一枚になるまで脱ぎまくる癖があるだとか、ファンの立場からしてみればこんなことを書く安吾というのは、とんでもない奴だと怒りたくもなるだろう。
しかし、中也ファンは、なぜ安吾が中也の名をそのまま書いたか、もう少し考えてみる必要がある。
安吾が匿名でなく実名で書いているのは、何らかの批判があっても真正面から対処する覚悟ができていたからだ。
実際、そうした批判について安吾は、弁明の文を書いている。(98.7.6)
「坂口安吾の東京を歩く」で昭和6年から11年までを巡ってみたいとおもいます。
この昭和初期は坂口安吾が新進作家として登場した時であり、その時代に彼の出会った人たちとの巡り合いを中心に、歩いてみたいとおもいます。

特にその中で坂口安吾が初めて惚れた女性が矢田津世子でした。
彼女に関しては、友人の大谷藤子が下記のように書いています。
「矢田津世子は、その生涯を書くために生き、そのためには結婚生活に入ろうとさえしなかつた。作品を書けるという生活を彼女ほど厳しく選び、愛した作家も稀れだといいたいほどである。自分はどういう意味にしろ圧迫する人を持ちたくない、そのために萎縮する性質だからと彼女は語ったことがある」、坂口安吾との関係もこの文を読めば、納得しますね。
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件 27 3月 京都へ旅行
京橋のバー「ウインザア」の女給 坂本睦子と親しくなる
「ウインザア」で矢田津世子と出会う
8月 蒲田の家に矢田津世子が訪ねてくる
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退 28 1月 矢田津世子の自宅を訪ねる
5月 蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんと親しくなる
昭和9年 1934 丹那トンネル開通 29 酒場「ボヘミアン」のマダムお安さんとアパートで同棲
9月頃 大森区堤方町555の十二天アパートに転居
年末に檀一雄と「はせ川」であう

「この戦争中に矢田津世子が死んだ。私は死亡通知の一枚のハガキを握って、二三分間、高か二筋の涙というものを、ながした。……つまり私はそのときも尚、矢田津世子にはミレンがあったが、矢田津世子も亦、そうであったと思う。」、坂口安吾が初めて本当に惚れた女性が矢田津世子でした。坂口安吾が初めて矢田津世子にあったのは「とにかく、私と英倫とほかに誰かとウインザアで飲んでいた。そのとき、矢田津世子が男の人と連れだって、ウインザアへやってきた。英倫が紹介した。それから二三日後、英倫と矢田津世子が連れだって私の家へ遊びにきた。それが私達の知り合った始まりであった。」と書いています。このとき矢田津世子は偶然か、意識的か、蒲田区安方町の坂口安吾宅に訪ねたときに本を忘れます。「手紙がきた。本のことにはふれておらず、ただ遊びに来てくれるようにという文面であったが……私は遊びに行った初めての日、母と娘にかこまれ、家族の一人のような食卓で、酒を飲まされて寛いでいた。その日、帰宅した私は、喜びのために、もはや、まったく、一睡もできなかった。私はその苦痛に驚いた。ねむらぬ夜が白々と明けてくる。その夜明けが、私の目には、狂気のように映り、私の頭は割れ裂けそうで、そして夜明けが割れ裂けそうであった。この得恋の苦しみ(まだ得恋には至らなかったが、私にとってはすでに得恋の歓喜であった)は、私の初めての経験だから、これは私の初恋であったに相違ない。」、やはり坂口安吾にとっては初恋の人だったようです。

<矢田津世子>
 明治40年6月15日、秋田県南秋田郡五城目町に生まれる。本名 矢田ツセ、麹町高女を大正13年に卒業後日本興業銀行に勤務、昭和2年名古屋に移り住み、「文学時代」の懸賞小説に「罠を飛び越える女」で当選、昭和11年発表の「神楽坂」は芥川賞候補になる。矢田昭和19年3月病死。

「はせ川」で坂口安吾は初めて檀一雄に会い、一生の友人になります。このほかにも坂口安吾は行きつけの店があり、「この同人が行きつけの酒場があった。ウインザアという店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで…」、と書いています。この同人とは、牧野信一、河上徹太郎で、この酒場では矢田津世子や中原中也と知り合います。またこの中原中也と店の女給を争うことになります。この女給が坂本睦子です。坂本睦子はこのあとも河上徹太郎、大岡昇平などと浮名を流します。新潮の今月9月号に久世光彦が「女神」として坂本睦子の一生を書いています。

蒲田の酒場「ボヘミアン」のマダム安さんのことだとおもわれます。坂口安吾はこの女性の良人の追跡をのがれるため、たびたび住むところを変えます。

矢田津世子が言った。「四年前に、私が尾瀬沼へお誘いしたとき、なぜ行こうと仰有らなかったの。あの日から、私のからだは差上げていたのだわ。でも、今は、もうダメです」……そして、私は接吻した。矢田津世子の目は鉛の死んだ目であった。顔も、鉛の、死んだ顔であった。閉じられた口も、鉛の死んだ唇であった。……「じゃア、さよなら」矢田津世子は、かすかに笑顔をつくった。そして、「おやすみ」と軽く頭を下げた。それが私たちの最後の日であった。そして、再び、私たちは会わなかった。」このあと矢田津世子は昭和19年3月、病死します。

「意を決して、矢田津世子に絶縁の手紙を書き終えたとき、午前二時ごろであったと思う。ねむろうとしてフトンをかぶって、さすがに涙が溢れてきた。……翌日、それを速達でだした。街には雪がつもっていた。その日、昭和十一年二月二十六日。血なまぐさい二・二六事件の気配が、そのときはまだ、街には目立たず、街は静かな雪道だけであったような記憶がする。一しょに竹村書房へも手紙をだした。数日後、竹村書房へ行ってみると、その手紙が戒厳令司令部のケンエツを受けて、開封されているのだ。してみれば矢田さんへ当てた最後の手紙も開封されたに相違ない。むごたらしさに、しばらくは、やるせなかった。矢田さんからの返事はなかった。」とあります。矢田津世子と本郷菊富士ホテルであった翌日が2.26事件当日ですね、ひたひたと戦争の足音が忍び寄ってきています。

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