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明治政府の過ち

2019年06月17日 02時55分00秒 | 社会・文化・政治・経済

歴史家の井上清氏は『日本の歴史20』の中で、新政府高官についてこう記している。
「驚くほどの高給をむさぼり、広大な邸宅を与えられ、まるで大名暮らしであった。とくに財政経済担当の官僚は、三井組、小野組をはじめ、大商業資本家と結びついてぜいたくをきわめていた。会計官の大隈重信はその典型と見られた。その反面、士族とりわけ下級士族の窮迫を、政府はいっこうに気にもかけない」
 西郷はこのような高官たちに嫌気がさしていた。
井上氏はこう続ける。「士族を社会のじやまものにすることは、西郷には絶対にゆるせなかった。このようなかれは、士族を無視する中央政府にでる気にはどうしてもなれなかった」
 こうした西郷の心情は、1871(明治4)年6月25日、参議として政界に復帰する際、桂に宛てた手紙の中の一文、「政府を一洗する」が表している。
 また、西郷が政治家としても有能だったことは、西郷が下野したのち、岩倉や大久保が政府への復帰をしきりに要望していることが証明している。
そして実際、各藩ならびに士族たちの不満が爆発するとみられた廃藩置県の際には、薩摩藩の島津久光に協力を仰いでまで西郷の復帰を要請。
大久保は西郷に直談判して、協力を懇願したのだ。
 盟友の依頼を受けた西郷は再び政府に入り、廃藩置県を断行。
1871(明治4)年10月8日、岩倉具視を特命全権大使とする米欧使節団が日本を発ったあとのいわゆる「留守政府」の筆頭参議として、地租改正、封建的身分制度の廃止、徴兵令・学制の発布、太陽暦の採用など、後年「明治維新」とされる諸改革を行なった。
 このような改革は、西郷が薩摩藩、あるいは旧士族だけにこだわっていれば、とうてい、なしえないものである。


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