中原中也の無頼ぶり

2019年10月30日 17時31分22秒 | 社会・文化・政治・経済

中原 中也1907年(明治40年)4月29日 - 1937年(昭和12年)10月22日)は、日本の詩人、歌人、翻訳家。旧姓は柏村。

代々開業医である名家の長男として生まれ、跡取りとして医者になることを期待され、小学校時代は学業成績もよく神童とも呼ばれたが、8歳の時、弟がかぜにより病死したことで文学に目覚めた。
中也は30歳の若さで死去したが、生涯で350篇以上の詩を残した。その一部は、結婚の翌年刊行した処女詩集『山羊の歌』、および、中也の死の翌年出版された第二詩集『在りし日の歌』に収録されている。訳詩では『ランボオ詩集』や数は少ないがアンドレ・ジイドの作品などフランス人作家の翻訳もしている。
酒乱
22歳のとき、『白痴群』の同人の村井康男、阿部六郎と酒を飲んだ帰り、沿道の家の外灯を傘で叩き壊した。
家の主人の町会議員は3人の後をつけ、交番につきだしたが、村井と阿部は教師だったため5日で釈放された。
しかし身分がはっきりしない中也は15日間も留置された。
警官への恐怖が後まで残ったという。
青山二郎は死別した夫人の弟にバー「ウィンゾア」を出店させていた。
常連は小林秀雄、井伏鱒二、大岡昇平ら若い文人たちだったが、中也が毎日顔を出し、誰かれかまわず絡んだり喧嘩をふっかけるので、1年でつぶれてしまった。
坂口安吾は「ウィンゾア」で中也と知り合った。
中也はお気に入りの女給が安吾と親しいのが気に入らず、いきなり殴りかかったが、大柄な安吾から少し離れたところから拳を振り回しているだけだったので、安吾は大笑いした。
大岡昇平は『白痴群』の同人会で酔った中也に殴られたことがあった。
他にも中村光夫は「お前を殺すぞ」と言われビール瓶で殴られたことがある。
太宰治は同人誌「青い花」を創刊するにあたり、檀一雄や中也を誘った。
東中野の居酒屋で飲んでいると中也はやたらと人に突っかかる。
「何だおめえは、青鯖が空に浮かんだような顔をしやがって」毒舌、作家の太宰治が、中原にからまれた。、
「全体おめいは何の花が好きなんだ?え?」と絡みだし、太宰閉口して泣き出しそうな声で「モ、モ、ノ、ハ、ナ」と答えると、「チエッ、だからおめえはだめなんだ」とこき下ろし、中原が舌打ちをする。
詩人には常に鬱屈した情念がって、自分をもてあましたのだろう。
嫌われ者になって当然なのに、中原の周囲には不思議に人が集まり、彼を応援した。
言うに言われぬ人徳があったとしか思えぬない。
詩人の萩原朔太郎は、わがままで人と交際できぬ点や、純情でニヒルな点、アナキートで不良少年じみている点など、ランボーと似ている、と指摘し、異なるのはランボーが透徹した知性人であったのに、中原は殉情的な情緒人であったと評した。
「このセンチメントの純潔さ」が彼の詩の精神である、と。
自分を裏切って親友の元に走った恋人を、中原は恨まなかった。

 


「青い花」は1号で終わり、太宰は「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃないよ」と中也を拒絶するようになったが、中也の死に対して太宰は「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と才能を惜しんでいる。


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